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第16話 もう会わない

 萌香が帰宅すると、マンションの部屋に人の気配があった。慌ててリビングに駆け込んだが誰もおらず、寝室を覗いて見たがそこに孝宏の姿はなかった。ふと見るとクローゼットの扉が半開きで、クリーニングのカバーが掛かっていた濃灰のスーツがなくなっていた。そして、車の鍵は置きっぱなしだった。


(孝宏、スーツを取りに戻ったんだ)


 萌香は、咄嗟にカーテンを開けると、ベランダの手摺りに掴まった。電柱の白い灯りの下、歩いて行く孝宏の後ろ姿があった。萌香は、ベランダの鍵を閉めるとショルダーバッグを掴んで玄関を飛び出した。


(きっと!光希のところに行くんだ!)


 慌てた萌香は、エントランスの段差を踏み外した。冷や汗をかいたが、なんとか持ち堪え、転倒する事はなかった。


(バスに乗るんだ!)


 この先には、バスの停留所がある。孝宏はそのバスに乗るはずだ。息があがる、心臓が跳ねる、足が重くて走れないと駄々をこねたが、萌香は全速力で孝宏の背中を追った。


(も、もう。もうー!なんでこんな!)


 息も絶え絶えで大通りに辿り着いた萌香は、両膝に両手を突き、肩で息をした。萌香が、停留所を見遣るとそこにバスの姿はなく、代わりにシャンパンゴールドの軽自動車が、路肩でハザードランプを点滅させていた。


(え、え!?迎えに来てたの!?)


 スーツを手にした孝宏は、満面の笑みで助手席に乗り込んだ。対向車線のヘッドライトに浮かび上がったその影は、一瞬重なり、そして離れた。右ウィンカーを出した車体は滑るように本線へと合流した。


「あっ!」


 このままでは、孝宏の行方を見失ってしまう。萌香は、空車のタクシーに手を挙げた。


「お願いします!あの車を追ってください!」


 そこでタクシードライバーは、「送り先が分からんお客さんは、お断りしているんですよ」と、やんわり乗車拒否を仄めかした。


(・・・・!)


 萌香はショルダーバッグから財布を取り出すと、「これ!チップです!」と5,000円札をトレーの上に置いた。すると、俄然やる気を出したタクシードライバーは、右ウインカーを出して本線に合流した。


「お客さん、刑事さん?」

「探偵です!」

「へえ」

「見つからない様にお願いします!」


 孝宏を乗せたシャンパンゴールドの軽自動車は、次の交差点で左折した。



ブロロロロ



 光希のマンションは閑静な住宅街で、葉桜になった樹木が生い茂る児童公園の隣にあった。シャンパンゴールドの軽自動車のボンネットはまだ暖かく、駐車スペースには108号室とペイントされていた。


(うわー静かだなぁ)


 この静かなマンションで、これから修羅場を演じるのかと思うと、少しばかり気が引けた。


(こ、ここまで来ちゃったけど、どうしよう!?)


 萌香の足はアスファルトに貼りつき、右足を踏み出そうとしてみたが、鉛の鎖で繋がれた様に動かなかった。大きく深呼吸すると、換気口から野菜を煮込む匂いがして来た。光希が孝宏のために作ったものだろうか?そう考えると胸焼けがした。


(ここでごはんを食べて、お風呂に入って、うちに帰って来てたんだ!)


 この1年間、萌香は1人で夕食を食べる事が多かった。その間、孝宏は、このマンションで光希と蜜月を過ごしていたのだと思うと、怒りが沸々と込み上げて来た。


(ええい!どうにでもなれ!)


 マンションのエントランスに入ると、感知センサーでダウンライトが点った。ずらりと並んだポスト、ふと目にした108にはMITSUKIと表記されていた。


「え?え?光希?え?」


 108号室の住人はさんだった。


「え、あれって、下の名前じゃないの!?」


 萌香は何度もその文字を確認したが、ローマ字でMITSUKIと表記されている。間違いはない。


(いや!でも!光希だったし!光希だし!でも光希!?)


 萌香が1人で自問自答していると、管理人らしき男性がこちらを窺っていた。萌香は慌てて会釈すると、108号室を探して玄関の扉を数えた。


(5、6、7、8、ここだ)


 108号室にはMITSUKIの表札が掲げられていた。可愛らしい木彫りの表札だった。


(やっぱりMITSUKIは女の人なの!?)


 萌香が、108号室の玄関扉の前でぐるぐる回っていると、背中に視線を感じた。先ほどの管理人が、黒縁眼鏡を上げ下げしてこちらを凝視していた。


(やば)


 このままでは警察に通報されかねない。萌香は愛想笑いで、もう一度頭を下げると、震える指でインターフォンのボタンを押した。


ピンポーン


 ゴクリと唾を飲み込んだ。萌香は、緊張で今にも倒れそうだった。モニター付きのインターフォンならば、孝宏は慌てふためきベランダから芝生の中庭に飛び降りているかもしれない。もう、後戻りは出来なかった。


「はい」


 インターフォンから聞こえて来たのは、アルトリコーダーのに似た、中性的な声だった。


「あ、あの。長谷川と言います、あの」


 どう説明すれば良いのか、支離滅裂な言葉を発してしまいそうだった。すると、インターフォンの向こう側でフッと笑った気配を感じた。


「あぁ、長谷川さん。今開けるから、待ってて」

「え、あの」

「すぐ開けるから」

(私の名前、知ってたんだ)


 部屋の中から、人が近付いてくる気配がした。内鍵が解錠され、ドアノブが下りた。萌香の心臓は破裂寸前だった。


「こんばんは」

「こ、こんばんは」


 そこに立っていたのは、ゆったりとしたフード付きの黒いカットソーに、黒いハーフパンツを履いた男性だった。手足はスラリと長く、髪は緩い癖毛で、ツーブロックの襟足は綺麗に整えられていた。名前は光希 誠みつきまことだと言った。


「初めまして、長谷川です」

「さぁ、どうぞ入って」

「お邪魔します」


 光希の部屋は白を基調にコーディネートされ、無駄なものはひとつもなかった。その片隅に、見慣れた孝宏の整髪剤や荷物が雑然と置かれている。


(ここで、暮らしてたんだ)


 そのリアルさに気分が悪くなった。


「孝宏」

「萌香、なんでここに」

「なんでって」


 孝宏は狼狽えていた。顔色は青褪め、表情は冴えなかった。それもその筈、なんの前兆もなく、浮気相手の部屋に本命の彼女が現れたのだから、驚くのも無理はない。


「・・・・・」


 その気不味い沈黙を破る様に、光希が萌香に声を掛けた。


「長谷川さん、野菜は好き?」

「はい、好きです」

「ポトフは?」

「好きです」

「じゃあ、食べてってよ」


 ガスコンロの上で、黄色い鍋の蓋がカタカタと音を立てている。


「はい、こっちに座って」


 萌香と孝宏は交わす言葉もなく、ローテーブルに座った。


「長谷川さん、遠慮しないで」

「あ、はい。ありがとうございます」

「・・・・・」


 目の前に置かれた3本の木製のスプーン。ポトフは、黄色い2枚の皿と、オレンジの皿に取り分けられた。


「どうぞ、あ」


 光希は、黄色い皿を自分と孝宏の前に置こうとして一瞬迷い、黄色の皿を萌香と孝宏の前に置いた。


(お揃いのお皿で食べてたんだ、仲良しなんだな)


 薄寒うすらさむいい雰囲気の中、温かいポトフの湯気が上がった。萌香が、じゃがいもを口にすると、それはほろほろと崩れ、優しい野菜の甘みと塩気が口の中に広がった。萌香の目頭が熱くなり、涙が頬を伝った。


「長谷川さん、泣いてるの?」

「ゔ、ゔ」

「ほら、孝宏、ティッシュとってよ」

「お、おう。ほら」


 萌香はボックスティッシュを抱えて鼻をすすった。


「なに、どうして泣いてるの?」


 萌香は嗚咽を漏らしながら、光希の顔を見上げた。


「うっ、うわ」

「うわ、なぁに?」

「浮気して、たと思って」

「なに、僕と孝宏が?男同士だよ?」

「・・・・・」


 孝宏は、なにも言わずにポトフを食べ続けた。


「孝宏が、浮気しているって言ったんです」

「孝宏が言ったの?馬鹿だね」

「・・・なんだよ」


 光希は肘を突いて、孝宏の鼻の頭を弾いた。


「孝宏、長谷川さんの事で悩んでたんだ」

「え?」

「それで僕の所に、相談に来ていたんだよ」

「そっ、そうなの?」

「光希には・・・相談してた・・・だけだから」


 そう言いつつも、孝宏は萌香から視線を逸らした。おどおどした孝宏の仕草を目にした光希は、大きな溜め息を吐き、髪を掻き上げた。


「孝宏」

「なんだよ」

「孝宏とは、もう会わないよ」


 萌香は驚いて、孝宏と光希の顔を交互に見た。


「え、だってお友だちなんじゃないですか?」

「良いんだ、もう会わない」


 光希の突然の発言に、引き攣った面持ちの孝宏は、中腰になってテーブルから身を乗り出した。


「光希!」

「孝宏、そういう約束だろ?」

「光希、だからって!」


 光希の表情は硬く、その意志の強さを感じさせた。


「もう終わりだよ、もう会わない」

「光希!」

(この2人は、なにを言ってるの?)


 孝宏と光希を、ただの友人だと思っていた萌香は、この切迫した2人の遣り取りに、酷く違和感を感じた。

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