孝宏はその夜、萌香のマンションへと帰る事になった。光希は「マンションまで送って行くよ」と言ったが、その横顔は冷たく、孝宏を全身で拒絶していた。
(さっきまで、あんなに仲が良かったのに)
孝宏は、この部屋に持ち込んだ生活用品や衣類を、旅行カバンに詰め込み始めた。光希は、キッチンで黄色い鍋を洗い、萌香はその様子を手持ち無沙汰に眺めていた。
ピーピーピー
衣類乾燥機のブザーが終了を告げ、その音を確認した孝宏が立ち上がった。それはとても自然な動きで、洗面所から戻って来た孝宏は、ランドリーバッグに山盛りになった衣類やタオルを手際よく畳み始めた。
(・・・え?)
この3年間、家事雑事は萌香が1人で担って来た。孝宏が、洗濯物を畳んだ事など1度もなかった。それが、このマンションでは自ら進んでタオルを畳み、棚に片付けている。萌香は、その姿を茫然と見た。
(光希さんが食器洗い担当で、孝宏が洗濯物担当?)
孝宏の行動は、そう考えた方が自然だ。察するに、萌香と同棲する前から、こうしてこのマンションに泊まっていたのだろう。
「お待たせ、帰る準備、出来た?」
「お、おう」
「すみません、お願いします」
光希は、キッチンペーパーでシンク周りを拭くと、エプロンを外して壁のフックに掛けた。
「!」
ふとそこで、思い付いた様子の光希は、ポケットから携帯電話を取り出して萌香に見せた。
「・・・あ」
トーク履歴は消去され、2人の間にどんな遣り取りがあったのかは不明だが、そこには孝宏のLIME IDが表示されていた。
「孝宏も出して」
「え?」
「携帯、出して」
孝宏は渋々といった様子で携帯電話を取り出すと、暗証番号を打ち込んだ。この時、萌香は、携帯電話の暗証番号が変更されている事に気が付いた。
(そりゃそうよね、プライバシーの侵害よね)
そして光希は、萌香の目の前で、孝宏のLIME IDと連絡先を消去した。孝宏は、愕然とした表情で光希の指先の動きを追っていた。
「ほら、孝宏も消して」
「・・・・・」
「消して」
孝宏は、萌香の顔を窺い見ると、戸惑いながら、光希のLIME IDと連絡先を消去した。萌香にすれば、なぜ連絡先を消去し合うまで徹底する必要があるのか、不思議でならなかった。
「電気消すから、長谷川さん、先に出て」
「はい」
萌香がショルダーバッグを持ち、玄関先でパンプスを履いていると、室内灯の電源が落とされた。眩しかったLEDライトの明かりが消え、
(・・・・え?)
それは、光希が孝宏に旅行カバンを手渡した何気ない仕草だったが、萌香の目には、2人の指先が絡まったようにも見えた。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
「・・・・・」
孝宏は、MITSUKIの表札を見上げ、108号室を何度も振り返った。
「・・・・・」
そして、フロントガラスに映る光希も、車窓を眺める萌香と孝宏も、誰もが無口だった。萌香は、流れては消えるアメリカ楓の並木道をぼんやりと眺めていた。
「・・・・・」
光希が言った、
(おにぎりの事?芦屋さんとの事?ううん、違う。その前から光希さんに相談していたから、もっと前の事だ)
キュッと赤信号で急ブレーキを踏んだ光希は、ルームミラーの中で萌香の目を見て、「ごめん」と言った。萌香は、急に車が止まった事で、後頭部をヘッドレストにぶつけた事への謝罪かと思ったが、そうではなかった。
「なにがですか?急ブレーキなら、大丈夫です」
「ううん、違うんだ」
「なんですか?ごめんって、なんの事ですか?」
「ごめん」
その時、孝宏は窓に肘を突き、繁華街の雑踏と流れるネオンサインを眺めていた。
「じゃあ、さよなら」
「ありがとうございました」
「・・・・・」
光希が運転する軽自動車の赤いブレーキランプが、一時停止の標識で明るく光った。
「・・・・・」
孝宏の足はそこから動こうとはせず、名残惜しそうに、黄色いウインカーが消えたカーブミラーを見つめていた。
「孝宏、部屋に入らないの?」
「あ、うん、今、行く」
エントランスの郵便受けには、ダイレクトメールが届いていた。
「孝宏、光希さんと喧嘩したの?」
「してない」
「光希さんとの約束ってなに?」
「男と男の約束だよ」
孝宏は、それだけ言うと階段を上って行った。光希は、
ガチャ
萌香は、鍵が開いた音で我に帰った。
ガチャ
あの日の朝は、鍵が閉まる音で目が覚め、孝宏が部屋を出て行った事を知った。その事に気づいた萌香は、孝宏に見捨てられたのではないかという絶望感を味わい、悲しみに突き落とされた。そして、いかに自分が孝宏に依存していたのかを知った。
「孝宏」
萌香は、思わずその背中にしがみ付き、もう2度と離れたくないと、切に願った。
「ちょ、ちょっと。なに!?」
「孝宏、もう出て行ったりしないで」
「・・・・」
「私に、悪いところがあれば直すから」
「悪いとこなんてねぇよ」
「お願い、出て行かないで」
萌香は、孝宏が軽く息を吸い込んだのを感じた。孝宏が嘘を吐く時の癖だ。それでも萌香は、崩れつつある孝宏との関係を修復したい一心で、その背中に縋った。
「出て行って、悪かった」
「うん」
孝宏は、ゆっくりと旅行カバンを廊下に置いた。
「もう、出て行かないから」
「本当に、出て行かない?」
「出て行かない」
そして、孝宏は視線を逸らしながら、萌香の背中に腕を回したが、萌香の中には一抹の疑念が残った。