孝宏に抱き締められた萌香は、以前、背広に染み付いていたホワイトムスクの香りが、光希の家の柔軟剤だという事に気が付いた。
(この匂いだ)
口論になった時点で友人の使っている柔軟剤の匂いだとそう説明していれば、こんな深刻な出来事にはならなかったかもしれない。
(喧嘩になった時、そう言えば良かったのに)
萌香が不可思議に思って見上げると、孝宏は目を逸らし旅行カバンを手に寝室へと向かった。萌香がその様子を見にゆくと、孝宏は部屋から持ち出したスーツをクローゼットに戻し、肌着をチェストに片付けていた。
「手伝おうか?」
「いいよ」
「ビール飲む?」
孝宏は少し考え『じゃあ、飲む』とぶっきらぼうに答えた。ただ、その声は感情が乏しく、投げやりな雰囲気を醸し出していた。萌香は自分が悪い事をしているように思えた。
(でも)
浮気の相手だと疑っていた光希が男性だという事が分かったが、これで問題解決とはゆかなかった。孝宏が、これまで部屋に持ち帰ったのはホワイトムスクの香りだけではない。薔薇の香りや石鹸の匂い、思い出すだけで萌香は、気分が悪くなった。萌香は、この機会に孝宏の行動を問いただそうと考えた。
その頃、孝宏は萌香の様子を窺っていた。
(萌香、こっち見ていないな)
萌香は冷蔵庫の扉を開け、缶ビールを取り出している。今ならば見つからない。孝宏は萌香の視線を避け、そっと携帯電話を取り出した。指が震えながら、連絡先を次々と削除していく。画面に映る名前の一つ一つが、孝宏の裏切りの証だった。
「孝宏?やっぱり手伝おうか?」
「え、いや!大丈夫!」
連絡先から最後の名前が削除された。孝宏は咄嗟に携帯電話をスーツのポケットに隠した。
「孝宏?」
その時、萌香は寝室に慌ただしい気配を感じた。
(まさか・・・浮気相手の連絡先を削除していた?)
「・・・じゃあ、ビール飲むか」
「うん、グラスも冷えてるよ。チェダーチーズで良い?」
「なんでも良い」
「あぁ、そ」
白々しい味気のない会話。以前はチーズの種類ひとつとっても、『カマンベールチーズの白カビが嫌だ』『それが美味しい』『青黴なんて最悪だ』などと盛り上がった。それが今では、通夜の席のように暗く重々しい。
ピチョン
萌香と孝宏は、手酌でビールをグラスに注いで飲んだ。交わす言葉のない、寒々とした時間だけが過ぎる。壁掛け時計の秒針の音が、リビングに響いた。重苦しい空気に耐えかねた孝宏はテレビのリモコンを握った。
ピチョン
萌香は孝宏に、本気で浮気を止めるつもりがあるのか?自分との同棲生活を続ける気があるのか?問い正したい事が山ほどある。けれど孝宏は、それらの問題をこのまま有耶無耶にするつもりだ。
(そんな事で良いの?それでいつか結婚出来るの?)
孝宏はリビングのローテーブルに肩肘を突いて、お笑い番組を見て笑っている。萌香は、その神経を疑った。
「あっ!なにすんだよ!」
萌香はテレビのリモコンを握ると電源スイッチを切り、それを床に投げ付けた。ゴンという音、孝宏は眉間にシワを寄せ、萌香はその顔を睨み付けた。
「なんで!?なんでこんな時に笑って居られるの!?」
「面白いからだろ!」
「頭、おかしいんじゃないの!?」
萌香の顔は怒りで赤らんだ。
「おかしいって!?」
「おかしいでしょ!」
孝宏は、萌香の面持ちから目線を外すと口をつぐんだ。萌香は興奮が抑えられず、缶ビールを手で握り潰した。
「さっき、寝室でなにしてたの?」
「なにって?」
「携帯、弄ってたでしょ!」
萌香は、握り潰した缶を資源ごみのペールに叩き入れた。
「着信がないか確認してたんだよ!」
「嘘!浮気相手の連絡先、削除してたんでしょ!」
「してねぇよ!」
萌香は、薔薇の香りや石鹸の匂いを付けて帰って来た日を思い出した。
「浮気相手って何人いるの!1人、2人!?ねぇ孝宏聞いてるの!!」
萌香の怒りは止まる事を知らない。すると孝宏は、萌香の声を打ち消すかのように声を荒げた。
「数えた事なんかねぇよ!」
萌香は耳を疑った。
「なに、そんなに沢山の人と浮気してたの?」
「・・・・・」
萌香に絶望感が襲い、孝宏の表情は凍った。萌香はローテーブルの隣に座ると、孝宏の腕を掴んで何度も揺さぶった。
「数えた事ないって、どういう意味!?どこで知り合ったの!?」
孝宏は目を瞑り、どうでもいいように吐き捨てた。
「孝宏!」
「マッチングアプリだよ!」
「マッチングアプリ!?」
孝宏は、萌香から目線を逸らすとゆっくりと頷いた。
「・・・・嘘でしょ?」
「嘘なんかじゃねぇよ」
それは、和紙に墨汁がジワジワと染み込むように萌香に悪寒をもたらした。
(マッチングアプリ?そんな沢山の人と浮気してたの?)
萌香は孝宏の顔を凝視した。
(気持ち悪い)
「ごめん、悪かった」
孝宏の手が萌香へと伸びた。その瞬間、激しい怒りと嫌悪感が萌香を包んだ。
「気持ち悪い!触らないで!」
「・・・・も、萌香」
「どこの誰かも分からない人としてたんでしょ!?」
萌香は、孝宏とのこれまでの数年間が、足元から崩れたような気がした。
「萌香、声でけぇって」
「私、そんな人と暮らしてたの!?」
「萌香!」
「触らないで!」
萌香は手当たり次第、クッションやボックスティッシュを掴み、孝宏へと投げ付けた。孝宏は腕でそれを防ぎながら、顔を歪めた。
「萌香、落ち着けって!!」
「信じられない!」
「アプリは、退会するから!」
「マッチングアプリなんて!私のなにが駄目だったの!?」
孝宏の浮気の原因は自分にあったのだろうか?萌香は孝宏を問い詰めた。
「萌香、落ち着けって」
「なにが足りなかったの!?」
「なにがって、
孝宏は唇を噛んだ。『できると思った』と呟く声には、後悔と苛立ちが混じっていた。
「出来る?なにが?」
孝宏は『出来ると思った』という意味不明な言葉を口にした。
「出来るってなに!?」
萌香の怒りは収まらず、ラックの雑誌を掴んだ。そこで孝宏は萌香を見上げて睨み付けた。
「おまえだって!男物の香水付けて帰って来ただろう!?」
咄嗟に、芹屋隼人の面差しが過った。
「あれはどうなるんだよ!」
雑誌を握り大きく振りかぶった、萌香の手が止まった。孝宏への当てつけで芹屋隼人と過ごした一夜は、浮気以外の何ものでもない。
(私も孝宏と同じだわ)
「言ってみろよ!」
萌香の指先が小刻みに震えた。
(孝宏の事を責める事なんて出来ない)
「萌香、どうなんだよ!」
萌香は自身を悔やむ様に目を伏せ、首を横に振った。萌香は立ち上がり震える息を整えるように深呼吸をすると、雑誌をラックに戻した。萌香の突然の変貌に、孝宏は狼狽えた。
「どうしたんだ」
「私、もう寝るわ」
その横顔に表情はない。
「寝るって・・・!おい!」
「今夜の話し合いはもう終わりよ」
萌香は淡々と答えると、寝室に向かった。けれど孝宏はその腕を掴む事はなかった。
「・・・・・・・」
「おやすみさない」
萌香は寝室のドアを閉めた。
(私も浮気したんだ)
萌香は芹屋隼人の顔を思い出し、息を呑んだ。浮気に回数なんて関係ない。萌香は目を閉じ、自分も孝宏と同じだと、静かに認めた。