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第19話 フレグランス

 翌朝、萌香が隣に手を伸ばすとベッドシーツがヒヤリと冷たかった。掛け布団が寝乱れた様子もない。昨夜、孝宏はマッチングアプリで複数人と浮気していたことを告白した。その気まずさから、また部屋を出て行ったのではないか?焦った萌香は、ベッドから飛び起きた。


「ちょ、嘘でしょ!?」


 孝宏はリビングのソファで、蝶のサナギの様に丸まって眠っていた。午前5時の薄暗いカーテン越しに、一筋の明かりが彼の顔を照らし出した。髭を剃り落としたその姿は、どこか野生の虎の様に美しかった。


(こんな最低な男なのに)


 悔しいことに、何度裏切られても、萌香の心は孝宏にあった。萌香は、「マッチングアプリを退会するから。浮気も止めるから」と約束したその言葉に縋りたい、心からそう思った。


(あ〜あ、やっぱり孝宏の事が好きなんだよね)


 2人の同棲生活は脆くも崩れてしまったが、また少しずつ積み重ねてゆけば良い、萌香は自嘲的な笑みで、溜め息を吐いた。


(私も、馬鹿だよね)


 萌香は、ソファーで寝息を立てる孝宏にそっとブランケットを掛け、萌香はドレッサーの前に座った。萌香は鏡の中の自分に手を伸ばし、ゆっくりと輪郭をなぞった。孝宏は萌香が化粧をする事を嫌がったが、それにしても艶のない髪、カサついた肌は、萌香が身だしなみを放棄した結果だった。かつての輝きを失った姿に、胸が締め付けられた。


(これじゃ、浮気もしたくなるか)


 今回の浮気の件に関しては、一概に、孝宏だけを責められない様な気がして来た。


(そうだ。ヘアサロン、予約しよう)


 萌香は、伸び放題になっている髪を整えようと思い、携帯電話を手に取った。ネット予約のサイトにアクセスすると、行き付けのヘアサロンに予約の空きがあった。早速、受付画面をタップした。


(お化粧も、ちゃんとしよう)


 ナチュラルメイクと言えば聞こえは良いが、これまでは化粧下地にパウダーを叩き、眉毛を整えただけの、薄ぼんやりとした化粧しかして来なかった。


(よし!今日から私は生まれ変わる!)


 萌香は、ドレッサーからコスメとメイク道具を取り出し、順序よく並べた。先ずは右端のチューブを手に取った。指先に、淡いピンクの化粧下地を絞り出し、頬や額に点々と置いてゆく。ヒヤリとした感触が顔全体に広がり、それは、浮気をされたという感傷を薄らと隠した。


(次は、自然な感じで)


 萌香は、黒いコンパクトケースを開くと、スポンジを手に取った。イエローオーカーのパウダーファンデーションを少しづつ頬に撫で付けると、それは、萌香を力強く守ってくれる様な気がした。


(アイシャドウは、これが良いかな)


 アイシャドウは柔らかなベージュに濃い煉瓦色で奥行きを出した。アイブロウで意思の強さを、深い焦茶のマスカラで目力を付けた。そして、シアーなオレンジの口紅を引いた。


(これで、おしまい)


 最後に桜色の頬紅で優しさを添えた。鏡の中の萌香は優しく微笑んで見た。


(うーん?)


 普段、見慣れない面差しにやや違和感はあるが、悪くはない。白い開襟シャツを羽織り、黒のタイトスカートを履いた。いつものフワリとしたAラインのワンピースとは異なり、機敏な大人の女性に見えた。


(本当に私、お洒落に手を抜いてたんだな)


 萌香がショルダーバッグを持ってリビングに行くと、孝宏は大きな欠伸をしていることろだった。萌香の姿を見た孝宏は背伸びの手を止め、目を逸らし罪悪感を覚えた面持ちになった。


「おはよう」

「・・はよ」


 孝宏は一瞬黙ってから、萌香の姿を凝視した。


「萌香、どうしたんだよ」

「なにが?」

「今夜、飲み会とかあるのか?」


 萌香は髪を掻き上げた。


「ないよ」

「じゃあ、なんなんだよ、その格好」

「イメージチェンジよ」


 孝宏は、剃り落とした髭のあたりを撫でて訝しそうにした。


「まさか、このまえの男かよ」

「このまえ?なんの事?」

「おまえ、シャツに男物の香水、付けて帰って来たろ?」

「あぁ、あれ?」

「そいつの好みか」


 人に厳しく自分に甘い、孝宏らしい発言だった。萌香は呆れて物も言えなかったが、取り敢えず、孝宏の物真似をした。


「あれ、エレベーターで付いたのよ」

「そんなに狭いエレベーターなのかよ」

「そう、すごく狭かったの」

「そんな事、あるかよ」

「孝宏も、薔薇の香水、付けて帰って来たよね」

「・・・・っ!」

「最近のエレベーターって、狭くて困るよね」


 これで、形勢逆転とまではゆかないが、萌香と孝宏は、やや同じラインに立った事になる。孝宏は罰の悪そうな面持ちで顔を背けた。


(これで、孝宏の浮気が治らなかったら、本当に終わりかな)


 萌香はキッチンに向かうと、炊飯ジャーの蓋を開けた。炊き上がったばかりの白飯の香りに腹の虫が鳴る。


「アチアチアチ」

「なにやってんだよ」

「見てわかんないの?」


 萌香は、粗塩を手のひらに取ると白飯を手際よく握った。皿に並ぶ、3個のおにぎりからは、白い湯気が立っていた。


「これ、孝宏の朝食だから、食べて」

「お、おう。おまえはどうするんだよ」

「たまにはカフェのモーニングセットも良いかなって思って」

「萌香が、カフェ」


 孝宏は、皿に並んだおにぎりと、萌香を交互に見た。


「なに、私がカフェに行っちゃいけないの?」

「い、意外だなって思って」


 萌香がシンクで手を洗っていると、味気のない指先が目に留まった。甘皮の手入れはしてあるが、ここしばらくネイルを塗った覚えが無い。


(今度のお給料日に、高いネイル買っちゃおう)


 これまで萌香の給与は生活費に消えていた。同棲当初は折半していたにも関わらず、その割合は、いつしか不平等なものになっていた。これも孝宏の傲慢で、いい加減な性格を表している。


(たまには私も、贅沢しなきゃ!)


 萌香はパンプスを履いて玄関の扉を開けた。


「今日は早番だから、なにか作るね」

「お、おう」

「食べたいものある?」


 孝宏は目線を逸らして小さく口篭った。


「豚の、生姜焼き」


 豚の生姜焼きは孝宏の好物だった。萌香は口元を歪め、吹き出しそうになるのを堪えた。


「今夜はうちで食べてよね!」

「分かってるよ」

「外で食べちゃ駄目だからね!」

「ちゃんと帰るよ」


 その時、萌香の頭を過ぎったのは口論になったあの夜、生ごみのダストボックスに捨てた、豚の生姜焼きの感触だった。ヌルヌルと皿を滑り落ちる片栗粉に塗れた肉の塊は、孝宏に対する絶望と中途半端な未練だった。


「行って来ます!」

「お、おう」


 あの夜以来、萌香は自分を見つめ直した。孝宏との関係に縛られるのではなく、自分のために生きると決めたのだ。自分を磨く事に目覚めた萌香の足取りは軽く、初夏の風に背中を押されマンションの階段を駆け降りた。

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