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第20話 モーニングセット

 萌香は、深緑のガーデンパラソルの下で肘を突いていた。アメリカ楓が並ぶ大通りはすっかり朝の顔で、バスや普通自動車が行き交っている。出勤を急ぐスーツ姿の男性、客待ちのタクシーのすぐ傍を、高校生がふざけ合いながら、通り過ぎて行った。


(こんな朝も、あるんだ)


 ゆったりと流れる時間、マグカップから立ち上るカフェオレの甘い香り。ほんのり温かいバンズには、カリカリに焼いたベーコンとチーズ、フリルレタスが挟んである。


(美味しそうだけど、これ、がぶって食べたら口紅取れちゃうよね)


 萌香はなぜ、クロワッサンとハムエッグをオーダーしなかったのかと、10分前の自分を悔やんだ。けれど、魅惑的な食べ物を目の前にして、腹の虫は収まらない。


(えええい!)


 このままハンバーガーにかぶりついて、口元にケチャップが付こうと、なにがあろうと構わない勢いで、萌香は口を大きく開けた。シャクシャクのフリルレタスが頬に付き、バンズからはみ出したピクルスが皿に落ち、明らかにケチャップが口角にはみ出しているが、萌香は口を動かし続けた。ふと、目線を上げると、携帯電話を片手に急ぎ足でバスに飛び乗るサラリーマンの姿があった。


(忙しそうだなぁ、私、こんなにのんびりしていて良いのかな)


 萌香は、温かいマグカップに手を添えた。


(でも美味しい!なに、この背徳感、最高の贅沢!美味しすぎる!)


 この1年間、孝宏は「接待だから」とマンションに帰らない日が続いていた。そんな夜は、萌香は1人で食卓に着かなければならなかった。蛍光灯が点いた部屋も薄暗く感じ、人の温かみの無い空虚な時間が萌香に付き纏った。


(朝日が眩しい、気持ちが良いな)


 そんな萌香は、今も1人でハンバーガーを食べている。然し乍ら、街の騒めきが「あなたは孤独ではない」と、教えてくれた。萌香の頬は、自然とほころんだ。


(カフェオレ、もう一杯おかわりしちゃおうかな)


 その時だった。「ご一緒しても宜しいでしょうか?」と向かいの椅子の背もたれに手が添えられた。周囲を見回したが、空席が目立っていた。不可思議に思い視線を上げると、そこには柔和な笑顔が萌香を見下ろしていた。仕立ての良いグレーのスーツに白いワイシャツ、焦茶のネクタイを締めた、芹屋隼人だった。


「課長!」

「はい」

「ど、どうしてここに!?」


 芹屋隼人は、停留所に停車しているバスを指差した。


「バスの中から萌香さんが見えたので」

「課長!私の名前は、長谷川です!」

「あぁ、萌香さん。勤務中ではないのですから、隼人と呼んで下さい」

「む、無理無理無理、無理です!」


 マイペースな芹屋隼人は、萌香の慌てふためきなど素知らぬ顔で、椅子に腰掛けた。そして、まるで恋人がするかの様に、萌香の口角に付いたケチャップを紙ナフキンで拭き取った。


「や、やめて下さい!」

「どうしてですか?」

「銀行の誰かに見られたらどうするんですか!?」


 芹屋隼人は訳が分からないといった表情で、萌香の皿に落ちたピクルスを摘んで口に放り込んだ。萌香は、目を見開いた。


「あっ!」

「あ?」

「ピクルス、最後に食べようと思ってたのにぃ」

「萌香さんはピクルスがお好きなんですね。新しい発見です」

「ひどい!」


 そこへウエートレスが芹屋隼人のコーヒーを運んで来た。芹屋隼人は、萌香のカップが空になっているの事に気付き、「彼女に同じ物を」とオーダーした。芹屋隼人は相変わらず気が利く、そしてスマートだ。


「で、なんですか?」

「だから、銀行の誰かに見られたらどうするんですか!」


 萌香は思わず小声になったが、芹屋隼人は疑問符を抱える様に腕を組んだ。小さな音を立て、萌香の前にカフェオレのマグカップが置かれた。萌香の視線はキョロキョロと落ち着かず、道行く面差しを確かめている。


「職場の誰かに見られたら、気不味いと」

「はい」

「なぜ?」


 萌香は周囲を窺う様に腰を屈め、芹屋隼人を見上げた。


「なぜって、課長と部下がモーニングセットを食べているんですよ!」

「モーニングセットがどうしたんですか?」

「だっ、だから!」


 隣の席の老夫婦が、傍耳を立てている様な気がして、萌香は気が気ではなかった。


「あぁ、昨夜、一緒に過ごしたって事ですか?」

「過ごしてません!」

「あぁ、あれは先週の水曜、木曜日でしたか」

「そんな具体的に、言わないで下さい!」


 そこで萌香は、周囲からの視線が、2人に集中している事に気が付いた。萌香は顔を赤らめ、オーダー伝票を手に立ち上がろうとした。すると、その手は芹屋隼人に掴まれ、萌香の中で時が止まった。


(あったかい)


 孝宏とは違う、大きく包み込む温かい手に、萌香はホテルでの目眩めくるめく一夜を思い出した。繰り返す熱い口付け、重ねた身体の重み、互いの鼓動、波の様に引いては寄せる快感、ひとつひとつの行為がフラッシュバックし、心臓が鷲掴みにされた。


ハッ


 萌香は、タクシーのクラクションで我に帰った。そこにはクレジットカードを財布から取り出した芹屋隼人がいた。


「萌香さん、ここは私が払います」

「えっ、そんな訳には」

「女性に支払わせるなんて、野暮な事をさせないで下さい」

「あ、ありがとうございます」


 そこで萌香は、芹屋隼人に刻み付けられた一夜が、残り火となって身体の奥底で燻っている事に茫然となり、崩れるように椅子に座り込んだ。


(芹屋さん、か)


 萌香は、まだ湯気の立つカフェオレに口を付けた。ささくれていた心に甘い香りがゆっくりと染み込み、痛みが優しくほぐれてゆくのを感じた。萌香の中で、ほんの少し前まで感じていた背徳感が、甘く温かいものへと変わった。


「萌香さん、お待たせしました」

「あ、課長。ご馳走様でした」


 萌香が深々とお辞儀をすると、目の前に1枚の名刺が差し出された。


「これを渡しておきます」

「あ、はい?」

「個人用携帯電話番号です」

「はい?」


 芹屋隼人は、これまで見せた事がない悪戯めいた笑みを浮かべた。


「近々、連絡します」

「はい?」

「楽しみにしていて下さい」

「どういう意味でしょうか?」

「また、ピクルスを食べてしまうかもしれませんよ?」


 芹屋隼人は、目を細めた含み笑いをした。そして、それだけ伝えると、踵を返した。その場に取り残された萌香は、老夫婦と目が合い照れ臭そうに下を向き、老夫婦は小さく笑って目を逸らした。



ピッポー ピッポー ピッポー ピッポー



 歩行者信号機が青に切り替わった。萌香の人生も、大きく変わろうとしていた。

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