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第21話 鯖の味噌煮

 朝礼前のエレベーターは満員だ。廊下の端には階段もあるが、4階のロッカールームから1階まで降りる強者はいない。


「朝から階段なんて最悪だよね」

「誰があんな急な階段作ったんだろ、設計者、出て来いって感じよね」

「段数も異常に多いしね」

「神社の境内に行くのかよっ!て感じ」


 特に口うるさい年配行員となると、「錆び付いていてネイルが禿げる」だの「息切れして倒れるレベル」だのとかなり不評だ。そこで、誰もがエレベーターホールで順番を待つ。そして、満杯の箱の中で1分ほど我慢すれば1階フロアに到着だ。


(あ〜混んでるなぁ)


 カフェテラスで優雅なモーニングセットを堪能した萌香も、例に漏れずエレベーターの箱の中に居た。ひとりふたりと乗り込んで来る人の波に押された萌香は、1番奥へと追いやられた。するとそこに、頭ひとつ背の高い後ろ姿が並んで入って来た。孝宏と芹屋隼人だった。


(う、嘘)


 まさかとは思うが、芹屋隼人が、萌香との一夜を孝宏に話す筈がない。それでも、萌香の心臓は跳ね、脇にジワリと汗をかいた。しかも、2人は近しい雰囲気で、言葉を交わしている。萌香は人混みに隠れながら耳をそば立てた。するとそこで、意外な事実を知ってしまった。


「吉岡くん、髭、剃ったのか」

「はい。課長のアドバイスで思い切りました」

「似合っていたのに」

「そうですか?」

「今の吉岡くんも素敵だよ、銀行員らしくて良い」


 萌香が3年間、口を酸っぱくして『銀行員らしくないから!その髭剃りなさいよ!』と言い続け、時には総務課課長に呼び出されて『髭をなんとか出来ないかね』とお灸を据えられても、頑なに拒み続けて来た髭を、芹屋隼人の一言で剃ってしまったというから驚きだ。


(浮気相手から言われたからじゃないのね)


 萌香はてっきり孝宏が、浮気相手から、『そのお髭、剃って』と耳元で囁やかれ、剃り落としたものだと思い込んでいた。それが、赴任して来たばかりの芹屋隼人の鶴の一声とは、全く予想外の出来事だった。それは、芹屋隼人の上品で真摯な抱擁力によるものなのか、なにか別の理由があるのか、萌香は首を傾げた。


(課長に言われたから剃った!?なんで!?)


 萌香の疑問が解決する間も無く、エレベーターは1階に到着した。箱の中からそれぞれが、蟻のように持ち場へと移動し、朝礼の訓示を受ける。営業課では芹屋隼人が課長として訓示を行うのだが、ここでも孝宏は普段とは異なる姿を見せた。元々、芹屋隼人の訓示は肝心な部分を、非常に的確かつ端的に伝えた。


「営業は、成績重視になりがちですが、お客さま第一で望んで下さい」

「はい!」


 その影響もあってか、孝宏は萌香が苦笑いするほどに生真面目な顔で訓示に臨んでいた。


(孝宏が、訓示を聞いてる!?なんで!?)


 前職の課長の訓示では、孝宏は気もそぞろで右を向いたり左を向いたりと落ち着きがなかった。ところがどうだろう。今は、芹屋隼人を凝視し、一字一句聞き逃さないようにしている。背筋を伸ばし、時にはメモを取っていた。その姿が信じられない萌香は、孝宏と芹屋隼人を交互に見た。


(あのいい加減な孝宏が!?なんで!?)


 そして、孝宏の仕事に対する姿勢が変わった。これまで、会議の時間にも遅れがちだった孝宏が、芹屋隼人が赴任してからというもの、女性行員に混じって書類を作成し、ワイシャツの袖を捲り、額に汗をかいて書類やペットボトルをテーブルに配布して歩いた。


(孝宏が仕事をしてる!?なんで!?)


 孝宏が、勤勉なのは喜ばしい事だが、萌香には、不安な事がひとつだけあった。それは、芹屋隼人が孝宏に、あの一夜の出来事を話してしまう恐れがあるという事だ。訓示での慎重な言葉選びをしている芹屋課長が、迂闊な事を口にするとは思わないが、ユーモアを交え、つい口を滑らせてしまう可能性も考えられた。


「え!?」


 数日後、萌香は信じられない光景を目にした。社員食堂で、孝宏と芹屋隼人が椅子を並べ”日替わり定食Aランチ”を食べていた。2人が一緒に昼食を摂る事も驚きだが、萌香はその献立を二度見した。


(鯖の味噌煮!?孝宏が鯖を食べてる!?なんで!?)


 孝宏は鯖を「生臭いから嫌いだ」と絶対に口にせず、匂いを嗅ぐのも嫌だと言っていた。その孝宏が、鯖の味噌煮を箸でほぐして口に運んでいる。その横顔はやや苦々しく、無理をしている様にも見えた。多分に、芹屋隼人が”日替わり定食Aランチ”を選択し、それに倣ったに違いなかった。


(いつからそんなに仲良くなったの?)


 萌香はカツカレーのトレーを持ち、息を殺して2人と背中合わせに座った。椅子を動かす事も憚れたが、傍耳を立ててスプーンを握った。すると、孝宏が芹屋隼人のパフュームについて言及した。萌香は、心臓が止まるかと思った。


(孝宏、まさか、気が付いていた!?)


 然し乍ら、それは決して険悪なものではなく、孝宏の声色は明るく、快活だ。それでも、萌香のスプーンはカツカレーに置かれたまま、微動だにする事が出来なかった。


「課長、課長が使っている香水ってなんですか?」

「ん?これか?」

「はい」

「ディオールのパフュームだ」


 孝宏は鼻を鳴らし、警察犬の如くその匂いを嗅いでいる様だ。


「ディオールって、女性ブランドの化粧品じゃないんですか?」

「男性向けのパフュームもあるんだよ」

「そうなんですか、へぇ」


 感嘆の声を上げた孝宏の様子から察するに、朝帰りの萌香のシャツに残った芹屋隼人のシトラス・シプレの香りを、孝宏は覚えていなかった。萌香は、安堵の溜め息を吐いた。そこで、ここは退散とばかりに立ち上がると、ニヤけた顔の芹屋隼人が萌香を呼び止めた。


(課長!気が付いてたの!?)

「おや、長谷川さんはカツカレーですか?」

「は、はい」


 萌香が孝宏を窺い見ると、先ほどまでの機嫌の良さは影を潜め、なにやら不機嫌な面持ちになっている。チッと舌打ちが聞こえたような気がした萌香は、我が耳を疑った。


(ど、どうして孝宏が不機嫌になるのよ!?)

「長谷川さん、宜しければご一緒しませんか?」

「い、いえ。友人と待ち合わせをしているので」

「それは残念です」

「は、はい」

「また、今度」

「はい」


 芹屋隼人は目を細めて笑った。孝宏は、邪魔者は早く消えろとばかりに、萌香を顎でしゃくりつけた。これには萌香も気分を害し、眉間にシワを寄せて孝宏を思わず睨みつけた。それは芹屋隼人を中心に、弥次郎兵衛の様でもあった。


(な、なんなのよ!なんで私が孝宏に睨まれなきゃならないのよ!)


 背後を振り向くと、芹屋隼人をチラリと見ながら、苦手な鯖の味噌煮を箸で摘む孝宏の引き攣った笑顔。


(なんなのよ!)


 萌香は呆れた面持ちでカツカレーのトレーを握り締め、踵を返した。

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