窓口業務が終わると、萌香の手元に1枚のクリアファイルが届けられた。その中には、”年金受取り口座開設で松坂牛が当たる”キャンペーンのチラシが2枚、挟まれている。
(なんなんだ、これ)
椅子から立ち上がって周囲を見回すと、芹屋隼人が、指先をクリアファイルと自身に向け、なにやら身振り手振りをした後に、片目を瞑って薄らと笑っていた。
(あ、あれはウィンクというものでは!?)
萌香は、嫌な予感でキャンペーンのチラシを取り出した。ハラリと蛍光ピンクの付箋が床に落ちた。
(ちょっ、ちょっとなにこれ!?)
慌ててしゃがみ込もうとした萌香は、椅子に尻をぶつけた。椅子はギィと音を立てて回り、驚いた隣の同僚に声を掛けられた。
「長谷川さん、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ。大丈夫です!」
その手元は必死になにかを探している。
「なにか落としたんですか?」
「あ、コンタクトを」
「長谷川さん、今日は眼鏡ですよね?」
「あっ、そ、そうだった。うっかりさんだなぁ、もう」
その付箋は、スチールデスクの下に落ちていた。暗がりでも分かるその蛍光ピンクの付箋に、なにが書いてあるのか、おおよその想像が付いた。
(こ、これは絶対!業務の指示ではない!)
蛍光ピンクの付箋を手に立ち上がった萌香はスチールデスクに頭をぶつけ、そのガゴンという音は芹屋隼人のデスクまで響いた。芹屋隼人は、腹を抱えて笑いたいところを必死に堪え、口元を手で隠した。
(ちょっと、ちょっとちょっと!)
萌香は、周囲の行員たちの視線を気にしながらスチールデスクの下から這い出した。隣の同僚は、より心配そうな面持ちで萌香を気遣った。
「は、長谷川さん、本当に、大丈夫ですか?」
「ありがとうございます、大丈夫です」
「痛そう」
「あの、ごめんなさい。ちょっとお手洗いに行ってきます」
「は〜い」
案の定、蛍光ピンクの付箋にはとんでもない文字が並んでいた。萌香は、芹屋隼人のデスクを通り過ぎる際、親指を立て、顎でしゃくりあげた。
(ちょっと来い!)
萌香が廊下に姿を消した3分後、芹屋隼人も席を立ち、ドアノブを回した。そして廊下で待ち合わせた2人は、給湯室の冷蔵庫の陰に隠れた。
「なんですか、これは!」
萌香が小声で芹屋隼人に詰め寄ると、しれっとした答えが返って来た。
「日本語は読めますか?」
「はい!日本生まれの、日本育ちの25歳です!」
「なら、読んで下さい」
「ホテ、ホテ」
「読めるのでしょう?」
芹屋隼人は口元を歪めると目を細め、萌香の顔を覗き込んだ。萌香は俯き加減で顔を赤らめ、蚊の鳴くような声で付箋を手に取った。
「ホテ、ル・・・ホテルに行きませんか?」
「読めるじゃないですか」
「読めますよ!読めますけど!」
そこで総務課の女性行員が賑やかしく通り過ぎた。芹屋隼人は自販機でコーヒーを買う振りをし、萌香は意味もなく湯呑み茶碗を布巾で拭いた。
「あれは、あの夜だけの約束ですよ」
萌香が湯呑み茶碗を布巾で拭きながら背中越しに呟くと、しれっとした答えが返って来た。
「そんな事、言いましたか?」
「お、覚えていません。でも、今夜だけは、なんとかかんとか」
「そんな事、言いましたか?萌香さんの聞き間違えじゃないんですか?」
「長谷川です!」
そこで経理課の男性行員が賑やかしく通り過ぎた。『お疲れ様です!』『ご苦労様です』芹屋隼人は自販機でコーヒーを買う振りをし、萌香は意味もなく湯呑み茶碗を布巾で拭き続けた。
「萌香さん」
すると、芹屋隼人の冗談めいた声色が一変し、落ち着いたものへと変わった。
「私と萌香さんについて、大切なお話があるんです」
萌香の心臓が跳ねた。
(な、なになに、なんなの!?)
背後を振り返ると、カフェラテの缶を持った芹屋隼人が、真剣な面持ちで腕を組んでいた。孝宏からの又聞きだが、身長は180センチもあるらしい。確かにその面差しを見上げる首がちょっと痛い。
「大切なお話って、なんでしょうか」
「ここではお話し出来ません」
「なら、カフェとかレストランとか」
「プライベートな事ですから、落ち着いた場所でお話がしたい」
ホテルと言っても芹屋隼人の感覚では、イコール性行為ではなく、ただ単純に、第三者に聞かれたくない会話をする場所なのかもしれない。
(でも!でもでも!)
ただ、ホテルと言ってもピンからキリまである訳で、指定されたホテルによっては、断固お断りをしなければならない。萌香は唾を飲んだ。
「あの、課長」
「隼人と呼んで下さい」
「課長、ホテルとはどのようなホテルでしょうか?」
「キラキラ鏡張りがお好みですか?」
「なかった事にして下さい!」
萌香は、湯呑み茶碗を棚に片付けると、踵を返した。
(やっぱり、この前の続きじゃん!)
すると、萌香の目の前にカフェラテの缶が差し出された。萌香は思わず立ち止まり、その温かい缶を手に取った。
(いやいやいや!なに止ってるのよ!私は140円じゃないのよ!)
萌香は激しく首を左右に振り、立ち止まった自分の愚かさを呪った。そして気が付けば、芹屋隼人の長い脚が、萌香の行手を阻んでいた。
(袋のねずみとは、まさにこの事!)
萌香は、カフェラテの缶を握り潰しそうになった。
「なっ、なにするんですか!」
「嘘ですよ、この前の部屋にしましょう」
「この前というと、あの部屋ですか?」
「そうです」
萌香の脳裏には、渋いラベンダーを基調とした設え、落ち着いたベージュのファブリック、キングサイズのベッド、そして
「そうです、ホテル日航金沢2710号室」
「2710号室」
「はい、実はもう予約してあるんです」
「よ、予約ですか」
「はい」
その時、芹屋隼人から匂い立つ、ディオール、オーソバージュの香りが萌香をあの夜へと誘った。
「明日の19:00に部屋でお待ちしています」
「私が行かなかったらどうするんですか?」
「来ますよ、絶対に」
芹屋隼人は、萌香の胸ポケットからボールペンを引き抜くと、蛍光ピンクの付箋に”2710/19:00”と書き込んだ。