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第23話 給湯室

 窓口業務が終わると、萌香の手元に1枚のクリアファイルが届けられた。その中には、”年金受取り口座開設で松坂牛が当たる”キャンペーンのチラシが2枚、挟まれている。


(なんなんだ、これ)


 椅子から立ち上がって周囲を見回すと、芹屋隼人が、指先をクリアファイルと自身に向け、なにやら身振り手振りをした後に、片目を瞑って薄らと笑っていた。


(あ、あれはウィンクというものでは!?)


 萌香は、嫌な予感でキャンペーンのチラシを取り出した。ハラリと蛍光ピンクの付箋が床に落ちた。


(ちょっ、ちょっとなにこれ!?)


 慌ててしゃがみ込もうとした萌香は、椅子に尻をぶつけた。椅子はギィと音を立てて回り、驚いた隣の同僚に声を掛けられた。


「長谷川さん、大丈夫ですか?」

「あ、あぁ。大丈夫です!」


 その手元は必死になにかを探している。


「なにか落としたんですか?」

「あ、コンタクトを」

「長谷川さん、今日は眼鏡ですよね?」

「あっ、そ、そうだった。うっかりさんだなぁ、もう」


 その付箋は、スチールデスクの下に落ちていた。暗がりでも分かるその蛍光ピンクの付箋に、なにが書いてあるのか、おおよその想像が付いた。


(こ、これは絶対!業務の指示ではない!)


 蛍光ピンクの付箋を手に立ち上がった萌香はスチールデスクに頭をぶつけ、そのガゴンという音は芹屋隼人のデスクまで響いた。芹屋隼人は、腹を抱えて笑いたいところを必死に堪え、口元を手で隠した。


(ちょっと、ちょっとちょっと!)


 萌香は、周囲の行員たちの視線を気にしながらスチールデスクの下から這い出した。隣の同僚は、より心配そうな面持ちで萌香を気遣った。


「は、長谷川さん、本当に、大丈夫ですか?」

「ありがとうございます、大丈夫です」

「痛そう」

「あの、ごめんなさい。ちょっとお手洗いに行ってきます」

「は〜い」


 案の定、蛍光ピンクの付箋にはとんでもない文字が並んでいた。萌香は、芹屋隼人のデスクを通り過ぎる際、親指を立て、顎でしゃくりあげた。


(ちょっと来い!)


 萌香が廊下に姿を消した3分後、芹屋隼人も席を立ち、ドアノブを回した。そして廊下で待ち合わせた2人は、給湯室の冷蔵庫の陰に隠れた。


「なんですか、これは!」


 萌香が小声で芹屋隼人に詰め寄ると、しれっとした答えが返って来た。


「日本語は読めますか?」

「はい!日本生まれの、日本育ちの25歳です!」

「なら、読んで下さい」

「ホテ、ホテ」

「読めるのでしょう?」


 芹屋隼人は口元を歪めると目を細め、萌香の顔を覗き込んだ。萌香は俯き加減で顔を赤らめ、蚊の鳴くような声で付箋を手に取った。


「ホテ、ル・・・ホテルに行きませんか?」

「読めるじゃないですか」

「読めますよ!読めますけど!」


 そこで総務課の女性行員が賑やかしく通り過ぎた。芹屋隼人は自販機でコーヒーを買う振りをし、萌香は意味もなく湯呑み茶碗を布巾で拭いた。


「あれは、あの夜だけの約束ですよ」


 萌香が湯呑み茶碗を布巾で拭きながら背中越しに呟くと、しれっとした答えが返って来た。


「そんな事、言いましたか?」

「お、覚えていません。でも、今夜だけは、なんとかかんとか」

「そんな事、言いましたか?萌香さんの聞き間違えじゃないんですか?」

「長谷川です!」


 そこで経理課の男性行員が賑やかしく通り過ぎた。『お疲れ様です!』『ご苦労様です』芹屋隼人は自販機でコーヒーを買う振りをし、萌香は意味もなく湯呑み茶碗を布巾で拭き続けた。


「萌香さん」


 すると、芹屋隼人の冗談めいた声色が一変し、落ち着いたものへと変わった。


「私と萌香さんについて、大切なお話があるんです」


 萌香の心臓が跳ねた。


(な、なになに、なんなの!?)


 背後を振り返ると、カフェラテの缶を持った芹屋隼人が、真剣な面持ちで腕を組んでいた。孝宏からの又聞きだが、身長は180センチもあるらしい。確かにその面差しを見上げる首がちょっと痛い。


「大切なお話って、なんでしょうか」

「ここではお話し出来ません」

「なら、カフェとかレストランとか」

「プライベートな事ですから、落ち着いた場所でお話がしたい」


 ホテルと言っても芹屋隼人の感覚では、イコール性行為ではなく、ただ単純に、第三者に聞かれたくない会話をする場所なのかもしれない。


(でも!でもでも!)


 ただ、ホテルと言ってもピンからキリまである訳で、指定されたホテルによっては、断固お断りをしなければならない。萌香は唾を飲んだ。


「あの、課長」

「隼人と呼んで下さい」

「課長、ホテルとはどのようなホテルでしょうか?」

「キラキラ鏡張りがお好みですか?」

「なかった事にして下さい!」


 萌香は、湯呑み茶碗を棚に片付けると、踵を返した。


(やっぱり、この前の続きじゃん!)


 すると、萌香の目の前にカフェラテの缶が差し出された。萌香は思わず立ち止まり、その温かい缶を手に取った。


(いやいやいや!なに止ってるのよ!私は140円じゃないのよ!)


 萌香は激しく首を左右に振り、立ち止まった自分の愚かさを呪った。そして気が付けば、芹屋隼人の長い脚が、萌香の行手を阻んでいた。


(袋のねずみとは、まさにこの事!)


 萌香は、カフェラテの缶を握り潰しそうになった。


「なっ、なにするんですか!」

「嘘ですよ、この前の部屋にしましょう」

「この前というと、あの部屋ですか?」

「そうです」


 萌香の脳裏には、渋いラベンダーを基調とした設え、落ち着いたベージュのファブリック、キングサイズのベッド、そして目眩めくるめく熱い一夜が浮かんでは消えた。


「そうです、ホテル日航金沢2710号室」

「2710号室」

「はい、実はもう予約してあるんです」

「よ、予約ですか」

「はい」


 その時、芹屋隼人から匂い立つ、ディオール、オーソバージュの香りが萌香をあの夜へと誘った。


「明日の19:00に部屋でお待ちしています」

「私が行かなかったらどうするんですか?」

「来ますよ、絶対に」


 芹屋隼人は、萌香の胸ポケットからボールペンを引き抜くと、蛍光ピンクの付箋に”2710/19:00”と書き込んだ。

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