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第24話 鍋の蓋

 萌香は、悩んでいた。それは今夜の夕食の献立では無い。今夜は孝宏の好きなシチューだ。作り置きをしておけば、孝宏の明日の夕食の心配は無い。ラップを掛けて電子レンジで温めるだけだ。


(問題は、そこじゃ無いのよね)


 萌香は、スーパーマーケットの野菜売り場で人参を手に取っていた。鮮やかなオレンジ色が蛍光ピンクの付箋を連想させた。『来ますよ、絶対に』人参の、でこぼこした凹凸おうとつをぼんやり眺めていると、芹屋隼人の自信ありげな眼差しが頭を過った。


(どうして私があの部屋に行くって断言できるの?)


 ショルダーバッグの中の蛍光ピンクの付箋には、2710/19:00の文字が並んでいる。あの後、萌香は、芹屋隼人の指定したホテルの一室に、『行くか、行かないか』を明確にせず、『お疲れ様でした』と、曖昧なまま給湯室を後にした。


(問題は、そこよね)


 通り過ぎる自転車のベルで我に帰った萌香は、いつの間にか、スーパーマーケットで会計を済ませ、サッカー台で野菜をエコバッグに詰め込んでいた事に気が付いた。


(課長のプライベートな話ってなんだろう?)


 やや重い気持ちと、重いエコバッグを手に、マンションの階段を上ると、205号室のボイラーが低い音を立てていた。孝宏がシャワーを浴びているのだろう。『浮気をしない』と宣言したあの日以来、孝宏は、銀行を定時で上がり、真っ直ぐマンションの部屋に帰って来る。


「ただいまー、遅くなってごめんねー!」

「おかえりー」


 玄関先でパンプスを脱いだ時、給湯室での出来事が嘘のように思えた。然し乍ら、萌香は、孝宏の声に罪悪感を感じ、芹屋隼人の誘いの言葉が現実なのだと思い知らされた。


(それに、プライベートもなにも、課長とは深い関係だし)


 萌香は、芹屋隼人と一夜の恋に堕ちた間柄だ。回数など関係はない。萌香に、孝宏の浮気を責める資格はない。思い出すのはシトラス・シプレの爽やかな香りと、熱い抱擁。


(やっぱり、あの夜の続きをするの!?)


 萌香は、リビングテーブルにショルダーバッグを置き、エプロンを身に付けた。キュッと腰紐を結えると、気が引き締まった。萌香は、エコバッグから野菜をゴロゴロと取り出し、玉ねぎの皮を剥き始めた。


(それでも私、あの部屋に行くの?)


 1枚、また1枚と剥いでゆく理性。やはり萌香の心は、芹屋隼人の待つ2710号室へと傾いていた。まな板を取り出し、包丁を握る。玉ねぎという名の孝宏への言い訳をサクサクと、くし切りにした。


(だって、孝宏だって、浮気してたんだし)


 萌香は、孝宏のこれまでの愚行を引き合いにして、自分自身の狡猾さを正当化した。


(課長のプライベートの話を聞くくらいなら、良いんじゃないの?)


 白いホーロー鍋でグツグツと煮込まれる、豚バラ肉と色とりどりの野菜。いつしか萌香は、日常と非日常をごちゃ混ぜにして、ゆっくりと蓋をした。


(でも。孝宏に、なんて言って出掛ければいいのかな)


「なぁ、萌香」


 その時、孝宏が、脱衣所から髪を拭きながら声を掛けて来た。萌香は、悪事を企んだその心の中を見透かされた気がして、飛び上がって驚いた。


「キャッ!」

「なに驚いてんだよ」

「だって、突然、声を掛けるから!」


 孝宏は、バスタオルを首に掛けると、気不味そうな顔で冷蔵庫の扉を開け、萌香の顔を一瞥した。


「な、なに?孝宏、変な顔して」

「ん、あのさ」

「なによ」


 鍋の蓋が湯気を上げ、今にも吹き零れそうだ。


「明日さ」

「はっきり言いなさいよ、気持ち悪いなぁ」

「明日、山田んちで飲み会なんだ」


 孝宏は、罰の悪そうな面持ちで、萌香から目を逸らした。


「総務の山田さん?」

「そう!嘘じゃねぇから!」


 鍋の蓋がカタカタ揺れ時始めた。


「山田さんの家で泊まるの?」

「多分、泊まりになると思う!でも!今度は浮気じゃねぇし!」

「今度、ね」

「浮気はしてないから!」

「分かってるわよ」


 特に萌香が咎めている訳でもないのに、孝宏は眉間にシワを寄せ、必死に説明した。萌香はそれを呆れた顔で眺めた。


「孝宏、そんなに大きな声出さなくても、聞こえてるから」

「山田や総務の奴らに聞いても良いから!」

「そんな、みっともない事、しないわよ」



 ジュワア



 とうとう、ホーロー鍋から煮汁が吹き零れ、コンロの青い炎が消えた。


「行っていいですか?」

「なにその丁寧語、気持ち悪いよ」

「山田んち、行っていいか?」

「良いよ、どうぞご自由に」

「サンキュー!」


 孝宏は、浮気が発覚して以来、自宅マンションと職場を往復するだけで、どこにも立ち寄らなかった。これまで好き放題だった事を考えると、ひどく窮屈だったのだろう。明日の飲み会が楽しみで仕方がないと、ご機嫌でテレビのリモコンを握った。聞きなれたコマーシャルソングが流れて来た。



ピチョン



 そこで萌香も、コンロに吹き零れた煮汁を拭き取りながら、明日の予定を伝える事にした。平静を装ったが、声が上擦った。


「ねぇ、孝宏」

「なに、なんかあったん?」


 テレビのリモコンを手にソファーに座った孝宏が不思議そうに振り返った。萌香は、一瞬、息を呑んだ。


「明日、私も飲み会だから」

「萌香が飲み会って、珍しいな。営業の女子と?」

「違うよ、高等学校の同級生と会うの。5年ぶりかな」


 嘘を吐く時は、本当の事を少しばかり混ぜておいた方が良い。いつか見たドラマの中で、ヒーローが、ヒロインの耳元で囁いていた。萌香は、緊張を解そうと、孝宏に背中を向け、大きく息を吸い、深く吐いた。


「どこで?」

「ホテル日航金沢」

「すげぇ、高級ホテルじゃん」


 萌香は、ダイニングテーブルにスプーンを揃え、食器棚から白い皿を取り出した。


「なに食べんの?フレンチ?イタリアン?」

「中華料理なの、楽しみ」

「そっか、おまえ中華好きだもんな、楽しんで来いよ」

「うん」


 萌香は、孝宏に”明日の夜に出掛ける”と伝えた事で、自分自身の背中を押した。そして、シチューをかき混ぜながら、大きな安堵の溜め息を吐いた。


2710/19:00


 蛍光ピンクの付箋。萌香は、ホテルの窓の眼下に広がる、煌びやかで美しい夜景を思い浮かべた。そして心の奥底には、あの夜の続きを期待する、淫靡なもう1人の萌香が、息を潜めていた。

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