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第25話 付箋

 翌朝、萌香が茶碗を洗っていると、孝宏が声を掛けてきた。


「萌香!金貸して!」

「どうしたの、急に」

「小遣いもう、無いんだよ」

「はぁ!?」


 生活費のほとんどは、萌香が賄っている。孝宏の給料といえば、銀行の積立金に互助会費、マンションの駐車料金、町内会費、たまに買って来るビールやスナック類に費やすだけで、残りは孝宏の小遣いだ。


「お給料日まで、まだあるよ!?なにに使ってんの!?」

「ちょっと」

「ちょっとって、なに!?」


 茶碗を濯ぐ、萌香の苛立ちも泡となって消えてゆく。半分、諦めの境地で使い道を尋ねると、総務課との飲み会の会費だと言った。


「酒、持ち寄りなんだよ」

「お金が無いのに、どうして飲み会に参加するかなぁ」

「今夜の飲み会、急に決まったんだよ」

「もう」

「たまには、お願い!貸してくれよ!頼む!」


 孝宏は、マッチングアプリも退会し、浮気をしている様子もない。たまの息抜きも必要だろうと、萌香は、渋々それを了承した。


「ショルダーバッグにお財布入ってるから!幾らいるの!?」

「2,000円!」

「やっす!それくらい、自分で出しなさいよ」


 孝宏が、萌香のショルダーバッグを持ち上げ、チャックをジジジと開いた。その時、萌香はあの蛍光ピンクの付箋が入っている事を思い出した。


「あっ!ちょっ!」


 孝宏が財布を取り出すと、財布に貼り付いていた蛍光ピンクの付箋が、まるで桜の花びらのようにヒラヒラと、孝宏の足元に落ちた。


「なんだ、これ?」


 孝宏が指で摘むと、数字が並んでいた。


「2710/19:00、これ、なんのメモ?」

「なにかあった?」

「これ」


 萌香は平静を装い、キッチンダスターでシンク周りを拭き始めた。緊張で、指先が震える。幾つもの言い訳が脳裏を駆け巡った。


「あ、同窓会の会費と、集合時間なの」

「やっす!」

「え」


 孝宏は、萌香の財布から千円札を2枚抜き取ると、財布のジッパーを閉じた。


「ホテル日航金沢で2,710円とか安すぎだろ」


 萌香は息を飲んだ。


「あ、それドリンク料、お料理はみんなで積み立てたお金で支払うから」

「そっか、あのホテルでこの値段はないよなぁ」

「そうだね」


 エプロンの腰紐を解きながら、萌香は安堵の溜め息を吐いた。


「これ、どうする?」

「ゴミ箱に捨てて」


 萌香の秘密は、ゴミ箱の中に投げ捨てられた。




ピチョン



 孝宏は、今朝の訓示も真摯に聞き入り、芹屋隼人から一度も目を離さなかった。片や、萌香は芹屋隼人から目を逸らし、斜め前の女子行員のピアスを見つめていた。そんな2人を、芹屋隼人は交互に見遣った。


「あれ?」


 孝宏のデスクに置かれた書類に付箋が貼られていた。内容に不備があったとの事だが、孝宏にはその付箋に見覚えがあった。


「蛍光ピンク」


 しかもそこに書かれた文字は癖が強く、急ぎで書いたのだろうか、数字は2と7の見分けが付かなかった。隣のデスクの同僚に『これは誰が持って来たんだ』と尋ねると、『課長が持って来た』と言った。


「課長が、この付箋を?」

「はい、急ぎだそうです」


 孝宏がその書類をあらためて確認したが、目立った不備はなかった。孝宏が芹屋隼人のデスクを振り返って見たが、課長は普段と変わらず書類決済の業務に追われていた。


(似てる、よな)


 その蛍光ピンクの付箋に書かれた文字は、今朝、ゴミ箱に捨てた、萌香のメモ書きに酷似していた。


(萌香が芹屋さんのメモなんて、持ってる筈ないもんな)


 孝宏が銀行窓口を一瞥したが、萌香もいつもと変わらぬ明るい笑顔で、来客の対応に追われていた。なにも変わらない日常、けれどそこにヒラリと1枚の蛍光ピンクが舞い落ちた。




ピチョン




 ふと見ると、書類には、もう1枚の付箋が貼られていた。そこには、『一緒にランチでもいかがですか 芹屋』と書かれていた。


(芹屋さんとランチ!)


 それから孝宏は、脇目も振らずに業務に励んだ。途中、総務課の山田が、夜の飲み会について話し掛けても、一瞥するだけで『また後でな』とすぐに視線を書類に落とした。


「終わった!」


 やがて、待ちに待った昼休憩のチャイムが鳴った。晴々とした表情の孝宏は、書類をまとめて背伸びをすると席を立った。


「お疲れー」

「お疲れ、おまえ、今日、食堂なん?」

「おう、課長と」

「おまえと課長、仲良いのな」

「バッ、そんな事ねぇよ」


 孝宏は、同僚のからかいに頬を赤らめつつ、デスクに視線を逸らした。フロアでは、愛妻弁当の蓋を開けて顔を綻ばせる男性行員や、コンビニエンスストアのサンドイッチを頬張り、お喋りに花を咲かせる女性行員の姿があった。孝宏は周囲を見渡してみたが、既にそこに芹屋隼人の姿は無く、椅子にスーツの上着が掛かっていた。孝宏は肩を落としつつ、3階の食堂へと向かった。


「なんでおまえがいるんだよ」


 食堂は賑やかしかったが、この場所だけは時間が止まり、微妙な静けさが漂った。カツカレーのトレーを持った孝宏が、目を丸くして萌香の隣の席に座った。黒みを帯びた、スパイスが効いたカレールゥに、千切りキャベツと赤い福神漬けが色を添え、衣から油が滲むカリカリのトンカツが湯気を上げていた。


「それは私のセリフよ」


 芹屋隼人が指定したテーブルには、『予約席』と書かれた、蛍光ピンクの付箋が貼られていた。萌香は、蛍光ピンクの付箋と孝宏から目を逸らし、窓の外のシイノキを眺める振りをした。


(課長、なんでこんな悪戯を!)


 萌香が、チラリと横目で見ると、テーブルに肘を突いた孝宏は、その付箋を指先で摘み、裏返したり、また表に返したりして不思議そうな面持ちで眺めていた。


「なぁ」

「ナッなに!?」


 萌香の声は自然とひっくり返り、目は宙を泳いだ。


「似てねぇか?これ」

「これって、ふ、付箋のこと!?」

「ほら、今日の朝、おまえのショルダーバッグから出て来たメモ」

「そっそう?」


 孝宏は、不穏な面持ちで眉間にシワを寄せながら、萌香の顔を覗き込んだ。萌香は思わず目を逸らした。


「おまえ、芹屋さんと知り合いなの?」

「知り合いって!同じ営業部だし!付箋だって、備品でみんな使ってるし!」

「まぁ、そりゃそうだな」


 そこでテーブルの向かい側に、カツカレーのトレーが置かれ、涼しげな面差しの芹屋隼人が腰掛けた。


「お待たせしました」


 萌香は顔を赤らめて下を向き、孝宏はその様子を不思議な顔で窺った。

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