翌朝、萌香が茶碗を洗っていると、孝宏が声を掛けてきた。
「萌香!金貸して!」
「どうしたの、急に」
「小遣いもう、無いんだよ」
「はぁ!?」
生活費のほとんどは、萌香が賄っている。孝宏の給料といえば、銀行の積立金に互助会費、マンションの駐車料金、町内会費、たまに買って来るビールやスナック類に費やすだけで、残りは孝宏の小遣いだ。
「お給料日まで、まだあるよ!?なにに使ってんの!?」
「ちょっと」
「ちょっとって、なに!?」
茶碗を濯ぐ、萌香の苛立ちも泡となって消えてゆく。半分、諦めの境地で使い道を尋ねると、総務課との飲み会の会費だと言った。
「酒、持ち寄りなんだよ」
「お金が無いのに、どうして飲み会に参加するかなぁ」
「今夜の飲み会、急に決まったんだよ」
「もう」
「たまには、お願い!貸してくれよ!頼む!」
孝宏は、マッチングアプリも退会し、浮気をしている様子もない。たまの息抜きも必要だろうと、萌香は、渋々それを了承した。
「ショルダーバッグにお財布入ってるから!幾らいるの!?」
「2,000円!」
「やっす!それくらい、自分で出しなさいよ」
孝宏が、萌香のショルダーバッグを持ち上げ、チャックをジジジと開いた。その時、萌香はあの蛍光ピンクの付箋が入っている事を思い出した。
「あっ!ちょっ!」
孝宏が財布を取り出すと、財布に貼り付いていた蛍光ピンクの付箋が、まるで桜の花びらのようにヒラヒラと、孝宏の足元に落ちた。
「なんだ、これ?」
孝宏が指で摘むと、数字が並んでいた。
「2710/19:00、これ、なんのメモ?」
「なにかあった?」
「これ」
萌香は平静を装い、キッチンダスターでシンク周りを拭き始めた。緊張で、指先が震える。幾つもの言い訳が脳裏を駆け巡った。
「あ、同窓会の会費と、集合時間なの」
「やっす!」
「え」
孝宏は、萌香の財布から千円札を2枚抜き取ると、財布のジッパーを閉じた。
「ホテル日航金沢で2,710円とか安すぎだろ」
萌香は息を飲んだ。
「あ、それドリンク料、お料理はみんなで積み立てたお金で支払うから」
「そっか、あのホテルでこの値段はないよなぁ」
「そうだね」
エプロンの腰紐を解きながら、萌香は安堵の溜め息を吐いた。
「これ、どうする?」
「ゴミ箱に捨てて」
萌香の秘密は、ゴミ箱の中に投げ捨てられた。
ピチョン
孝宏は、今朝の訓示も真摯に聞き入り、芹屋隼人から一度も目を離さなかった。片や、萌香は芹屋隼人から目を逸らし、斜め前の女子行員のピアスを見つめていた。そんな2人を、芹屋隼人は交互に見遣った。
「あれ?」
孝宏のデスクに置かれた書類に付箋が貼られていた。内容に不備があったとの事だが、孝宏にはその付箋に見覚えがあった。
「蛍光ピンク」
しかもそこに書かれた文字は癖が強く、急ぎで書いたのだろうか、数字は2と7の見分けが付かなかった。隣のデスクの同僚に『これは誰が持って来たんだ』と尋ねると、『課長が持って来た』と言った。
「課長が、この付箋を?」
「はい、急ぎだそうです」
孝宏がその書類をあらためて確認したが、目立った不備はなかった。孝宏が芹屋隼人のデスクを振り返って見たが、課長は普段と変わらず書類決済の業務に追われていた。
(似てる、よな)
その蛍光ピンクの付箋に書かれた文字は、今朝、ゴミ箱に捨てた、萌香のメモ書きに酷似していた。
(萌香が芹屋さんのメモなんて、持ってる筈ないもんな)
孝宏が銀行窓口を一瞥したが、萌香もいつもと変わらぬ明るい笑顔で、来客の対応に追われていた。なにも変わらない日常、けれどそこにヒラリと1枚の蛍光ピンクが舞い落ちた。
ピチョン
ふと見ると、書類には、もう1枚の付箋が貼られていた。そこには、『一緒にランチでもいかがですか 芹屋』と書かれていた。
(芹屋さんとランチ!)
それから孝宏は、脇目も振らずに業務に励んだ。途中、総務課の山田が、夜の飲み会について話し掛けても、一瞥するだけで『また後でな』とすぐに視線を書類に落とした。
「終わった!」
やがて、待ちに待った昼休憩のチャイムが鳴った。晴々とした表情の孝宏は、書類をまとめて背伸びをすると席を立った。
「お疲れー」
「お疲れ、おまえ、今日、食堂なん?」
「おう、課長と」
「おまえと課長、仲良いのな」
「バッ、そんな事ねぇよ」
孝宏は、同僚のからかいに頬を赤らめつつ、デスクに視線を逸らした。フロアでは、愛妻弁当の蓋を開けて顔を綻ばせる男性行員や、コンビニエンスストアのサンドイッチを頬張り、お喋りに花を咲かせる女性行員の姿があった。孝宏は周囲を見渡してみたが、既にそこに芹屋隼人の姿は無く、椅子にスーツの上着が掛かっていた。孝宏は肩を落としつつ、3階の食堂へと向かった。
「なんでおまえがいるんだよ」
食堂は賑やかしかったが、この場所だけは時間が止まり、微妙な静けさが漂った。カツカレーのトレーを持った孝宏が、目を丸くして萌香の隣の席に座った。黒みを帯びた、スパイスが効いたカレールゥに、千切りキャベツと赤い福神漬けが色を添え、衣から油が滲むカリカリのトンカツが湯気を上げていた。
「それは私のセリフよ」
芹屋隼人が指定したテーブルには、『予約席』と書かれた、蛍光ピンクの付箋が貼られていた。萌香は、蛍光ピンクの付箋と孝宏から目を逸らし、窓の外のシイノキを眺める振りをした。
(課長、なんでこんな悪戯を!)
萌香が、チラリと横目で見ると、テーブルに肘を突いた孝宏は、その付箋を指先で摘み、裏返したり、また表に返したりして不思議そうな面持ちで眺めていた。
「なぁ」
「ナッなに!?」
萌香の声は自然とひっくり返り、目は宙を泳いだ。
「似てねぇか?これ」
「これって、ふ、付箋のこと!?」
「ほら、今日の朝、おまえのショルダーバッグから出て来たメモ」
「そっそう?」
孝宏は、不穏な面持ちで眉間にシワを寄せながら、萌香の顔を覗き込んだ。萌香は思わず目を逸らした。
「おまえ、芹屋さんと知り合いなの?」
「知り合いって!同じ営業部だし!付箋だって、備品でみんな使ってるし!」
「まぁ、そりゃそうだな」
そこでテーブルの向かい側に、カツカレーのトレーが置かれ、涼しげな面差しの芹屋隼人が腰掛けた。
「お待たせしました」
萌香は顔を赤らめて下を向き、孝宏はその様子を不思議な顔で窺った。