芹屋隼人は、テーブルの上にあった蛍光ピンクの付箋を小さく丸めると、トレーの上に置いた。そして、萌香と孝宏の顔を交互に見ると、目を細めて口角を上げた。
「おや、召し上がらないんですか?」
「あ、はい」
「さぁ、冷めないうちに頂きましょう」
「はい」
3人は、手を合わせると『いただきます』と声を揃え、頭を下げた。銀のスプーンが白米を掬い、カレールゥが香り立つ。けれど萌香は、この状況に思考回路が付いてゆけず破裂寸前で、ほんの一口食べてみたが、カレーの味などしなかった。
(・・・・・)
隣を見ると、いつもの溌剌とした笑顔やお喋りはどこへやら、孝宏は芹屋隼人の顔を見る事もなく、気不味さを誤魔化すように一心不乱でトンカツを頬張っている。萌香が上目遣いで芹屋隼人を見ると、挙動不審な2人などお構いなしに、ゆっくりとスプーンを口に運んでいた。
(課長は、一体、なにを考えてこんな悪戯を!)
トンカツを口に、慌てた孝宏は咽せて激しく咳き込んだ。萌香は慌ててグラスに水を足すと『はい、飲んで!大丈夫!?』と孝宏を気遣った。その様子を見ていた芹屋隼人は口元を紙ナフキンで拭くと、静かに微笑んだ。
「長谷川さんと吉岡さんは仲良しなんですね」
「は、はい!?」
いきなりの問いかけに、その意図が汲めない萌香は慄いた。
「噂では、ご結婚も間近だとお聞きしましたが、おめでとうございます」
「あ、それは」
「いっ、いえ!」
孝宏はテーブルで前のめりになり、全身でそれを否定した。
「そんな、結婚なんて!そんな予定はありません!」
「・・・・え?」
芹屋隼人の問い掛けに、孝宏は、力一杯手を振った。2人の結婚の可能性がないと否定された萌香は、我が耳を疑った。
(孝宏!?)
その言葉は、上司に対する照れや、恥ずかしさを隠そうとしたものでは無かった。慌てふためく孝宏の、その真剣な眼差しや横顔からは、それが本心であるという事が見て取れた。
(孝宏、結婚しないって、どういう事!?)
萌香は驚きで目を見開き、手にした銀のスプーンはカタカタと皿の上で落ち着かなかった。その様子を見ていた芹屋隼人は、孝宏を凝視し、大きな溜め息を突いた。
「吉岡さん」
「は、はい」
「吉岡さんは、長谷川さんと暮らしていらっしゃるとお聞きしました」
孝宏の顔色が変わり、スプーンを動かす手が止まった。
「部下のプライベートな事なので、お話をうかがう事はいかがなものかと迷いましたが」
「はい」
「最近、長谷川さんの業務態度が優れない様なので、係長に尋ねました」
萌香は、孝宏の周囲の空気が冷えてゆくのを感じた。
「は、はい」
「既に、おふたりはご一緒に住まわれているんですね?」
「は、はい」
「それでもご結婚されない、今時の流行りなんでしょうか」
萌香はスプーンから手を離すと、眉間にシワを寄せテーブルの下で握り拳を作った。孝宏に、結婚の意思がないという事を知った萌香は、目頭が熱くなるのを感じた。そして、いつしか涙の雫が頬を伝った。萌香は、縋る様な声色で、切ない思いを芹屋隼人に吐き出した。
「結婚前に・・・お互いを知る事も大事な事だと思ったんです・・・」
「そうですか」
「そう、思って・・・た」
「そうですか」
萌香は、芹屋隼人に謝罪をした。
「業務に支障が出ている様なら気を付けます!」
「はい、そうして頂けると助かります」
ところが、孝宏は、萌香の涙を気遣う事は無かった。視線をカツカレーの皿に落としたまま微動だにせず、スプーンはピクリとも動かなかった。
「・・・・・」
平静な面差しの芹屋隼人は、スプーンを握り直すとトンカツを口にした。サクサクと衣が音を立てた。
「召し上がらないんですか?」
「は、はい、頂きます」
孝宏は、震える手でスプーンを持つと、トンカツを口に掻き込み咀嚼し始めた。そして、白米とカレールゥを、まるでスープを飲むかの様に胃に流し込み、皿はあっと言う間に空になった。孝宏は口元を紙ナフキンで拭くと、トレーを持って椅子から立ち上がった。
「ご馳走様でした」
「もう、行ってしまうんですか?」
「外回りのアポイントメントを忘れていました」
「それは大変ですね、気を付けて行って下さい」
「はい、行ってきます」
孝宏は踵を返して食堂から出て行った。萌香の頬には止めどなく涙が流れ、芹屋隼人はスーツのポケットからさり気なく、上品なブロックチェックのハンカチを取り出した。
「使っていませんから、どうぞ」
「・・・・」
「そんなに泣かれると、私が困ります。どうぞ」
「ありがとうございます」
萌香が受け取ったハンカチは上質の布で、芹屋隼人の温もりと、ディオール、オー・ソバージュの仄かな香りがした。
(あったかい)
それは、孝宏から結婚の意思が無いと断言され、悲痛な崖下に突き落とされた萌香を優しく包み込んだ。
「だから言ったでしょう?」
「え?」
「萌香さんは、今夜、あの部屋に来ます」
(・・・・え)
「その為に、課長は、孝宏と私をここに呼んだんですか?」
「確認したい事があったので、申し訳ありません」
「確認したい事、ですか?」
芹屋隼人は萌香に深々とお辞儀をし、それを見た周囲の行員たちは驚きで動きを止めた。慌てた萌香は『そんな、やめて下さい』と顔を上げる様に懇願したが、それはなかなか上を向かなかった。
「課長、確認ってなんですか?」
「萌香さんと吉岡さんがご結婚される意思があるのかどうか、確認したかったんです」
「モッ、長谷川です!」
萌香は周囲に誰も居ない事を確認し、安堵の息を吐いた。
「萌香さん」
「長谷川です!」
芹屋隼人は、そんな細かい事はどうでも良いじゃ無いかといった表情で、首を傾げた。
「長谷川さんと、吉岡さんがご結婚されるかどうか、あなたにお尋ねしても『YES』としか返って来ないでしょう」
「だからって!」
「吉岡さんの口からその真意を確かめたかったんです」
溜め息を吐いた萌香は、視線を窓の外のシイノキに移した。
「孝宏、結婚しないって、言ってましたね」
「そうですね」
「課長がいたから、照れてたのかなぁ」
「そうかもしれませんね」
「あぁ、そうだと良いなぁ」
「うーん、それはちょっと困りますね」
「え?」
芹屋隼人の思い掛けない言葉に驚いた萌香は、その面差しに振り返った。それは悪戯っ子の様にいやらしい笑みで、萌香を凝視していた。