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第26話 カツカレー

 芹屋隼人は、テーブルの上にあった蛍光ピンクの付箋を小さく丸めると、トレーの上に置いた。そして、萌香と孝宏の顔を交互に見ると、目を細めて口角を上げた。


「おや、召し上がらないんですか?」

「あ、はい」

「さぁ、冷めないうちに頂きましょう」

「はい」


 3人は、手を合わせると『いただきます』と声を揃え、頭を下げた。銀のスプーンが白米を掬い、カレールゥが香り立つ。けれど萌香は、この状況に思考回路が付いてゆけず破裂寸前で、ほんの一口食べてみたが、カレーの味などしなかった。


(・・・・・)


 隣を見ると、いつもの溌剌とした笑顔やお喋りはどこへやら、孝宏は芹屋隼人の顔を見る事もなく、気不味さを誤魔化すように一心不乱でトンカツを頬張っている。萌香が上目遣いで芹屋隼人を見ると、挙動不審な2人などお構いなしに、ゆっくりとスプーンを口に運んでいた。


(課長は、一体、なにを考えてこんな悪戯を!)


 トンカツを口に、慌てた孝宏は咽せて激しく咳き込んだ。萌香は慌ててグラスに水を足すと『はい、飲んで!大丈夫!?』と孝宏を気遣った。その様子を見ていた芹屋隼人は口元を紙ナフキンで拭くと、静かに微笑んだ。


「長谷川さんと吉岡さんは仲良しなんですね」

「は、はい!?」


 いきなりの問いかけに、その意図が汲めない萌香は慄いた。


「噂では、ご結婚も間近だとお聞きしましたが、おめでとうございます」

「あ、それは」

「いっ、いえ!」


 孝宏はテーブルで前のめりになり、全身でそれを否定した。


「そんな、結婚なんて!そんな予定はありません!」

「・・・・え?」


 芹屋隼人の問い掛けに、孝宏は、力一杯手を振った。2人の結婚の可能性がないと否定された萌香は、我が耳を疑った。


(孝宏!?)


 その言葉は、上司に対する照れや、恥ずかしさを隠そうとしたものでは無かった。慌てふためく孝宏の、その真剣な眼差しや横顔からは、それが本心であるという事が見て取れた。


(孝宏、結婚しないって、どういう事!?)


 萌香は驚きで目を見開き、手にした銀のスプーンはカタカタと皿の上で落ち着かなかった。その様子を見ていた芹屋隼人は、孝宏を凝視し、大きな溜め息を突いた。


「吉岡さん」

「は、はい」

「吉岡さんは、長谷川さんと暮らしていらっしゃるとお聞きしました」


 孝宏の顔色が変わり、スプーンを動かす手が止まった。


「部下のプライベートな事なので、お話をうかがう事はいかがなものかと迷いましたが」

「はい」

「最近、長谷川さんの業務態度が優れない様なので、係長に尋ねました」


 萌香は、孝宏の周囲の空気が冷えてゆくのを感じた。


「は、はい」

「既に、おふたりはご一緒に住まわれているんですね?」

「は、はい」

「それでもご結婚されない、今時の流行りなんでしょうか」


 萌香はスプーンから手を離すと、眉間にシワを寄せテーブルの下で握り拳を作った。孝宏に、結婚の意思がないという事を知った萌香は、目頭が熱くなるのを感じた。そして、いつしか涙の雫が頬を伝った。萌香は、縋る様な声色で、切ない思いを芹屋隼人に吐き出した。


「結婚前に・・・お互いを知る事も大事な事だと思ったんです・・・」

「そうですか」

「そう、思って・・・た」

「そうですか」


 萌香は、芹屋隼人に謝罪をした。


「業務に支障が出ている様なら気を付けます!」

「はい、そうして頂けると助かります」


 ところが、孝宏は、萌香の涙を気遣う事は無かった。視線をカツカレーの皿に落としたまま微動だにせず、スプーンはピクリとも動かなかった。


「・・・・・」


 平静な面差しの芹屋隼人は、スプーンを握り直すとトンカツを口にした。サクサクと衣が音を立てた。


「召し上がらないんですか?」

「は、はい、頂きます」


 孝宏は、震える手でスプーンを持つと、トンカツを口に掻き込み咀嚼し始めた。そして、白米とカレールゥを、まるでスープを飲むかの様に胃に流し込み、皿はあっと言う間に空になった。孝宏は口元を紙ナフキンで拭くと、トレーを持って椅子から立ち上がった。


「ご馳走様でした」

「もう、行ってしまうんですか?」

「外回りのアポイントメントを忘れていました」

「それは大変ですね、気を付けて行って下さい」

「はい、行ってきます」


 孝宏は踵を返して食堂から出て行った。萌香の頬には止めどなく涙が流れ、芹屋隼人はスーツのポケットからさり気なく、上品なブロックチェックのハンカチを取り出した。


「使っていませんから、どうぞ」

「・・・・」

「そんなに泣かれると、私が困ります。どうぞ」

「ありがとうございます」


 萌香が受け取ったハンカチは上質の布で、芹屋隼人の温もりと、ディオール、オー・ソバージュの仄かな香りがした。


(あったかい)


 それは、孝宏から結婚の意思が無いと断言され、悲痛な崖下に突き落とされた萌香を優しく包み込んだ。


「だから言ったでしょう?」

「え?」

「萌香さんは、今夜、あの部屋に来ます」


(・・・・え)


「その為に、課長は、孝宏と私をここに呼んだんですか?」

「確認したい事があったので、申し訳ありません」

「確認したい事、ですか?」


 芹屋隼人は萌香に深々とお辞儀をし、それを見た周囲の行員たちは驚きで動きを止めた。慌てた萌香は『そんな、やめて下さい』と顔を上げる様に懇願したが、それはなかなか上を向かなかった。


「課長、確認ってなんですか?」

「萌香さんと吉岡さんがご結婚される意思があるのかどうか、確認したかったんです」

「モッ、長谷川です!」


 萌香は周囲に誰も居ない事を確認し、安堵の息を吐いた。


「萌香さん」

「長谷川です!」


 芹屋隼人は、そんな細かい事はどうでも良いじゃ無いかといった表情で、首を傾げた。


「長谷川さんと、吉岡さんがご結婚されるかどうか、あなたにお尋ねしても『YES』としか返って来ないでしょう」

「だからって!」

「吉岡さんの口からその真意を確かめたかったんです」


 溜め息を吐いた萌香は、視線を窓の外のシイノキに移した。


「孝宏、結婚しないって、言ってましたね」

「そうですね」

「課長がいたから、照れてたのかなぁ」

「そうかもしれませんね」

「あぁ、そうだと良いなぁ」

「うーん、それはちょっと困りますね」

「え?」


 芹屋隼人の思い掛けない言葉に驚いた萌香は、その面差しに振り返った。それは悪戯っ子の様にいやらしい笑みで、萌香を凝視していた。

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