萌香は、午後の受付業務を、ぎこちない笑顔で機械的にこなした。
「ありがとうございました」
「またあんたか、もっと愛想良く出来んかね」
「申し訳ございません」
萌香は、癖のある来店客に、嫌味を言われた。いつもならば愛想笑のひとつも出来るのだが、今日は難しい。
「ご利用、ありがとうございました」
「無愛想な女だね、全く!」
「申し訳ございません」
孝宏が、芹屋隼人に、声を震わせて慌てふためきながら『結婚する気はありません!』と言い切った、絶望的な言葉が脳裏で繰り返された。ふと、気を抜くと目頭が熱くなる。そんな時は目を瞑って天井を見上げた。
(そうだよね、指輪も貰ってないし)
確かに、孝宏から指輪を買って貰った事も無ければ、結婚を暗に仄めかされた事も無かった。けれど萌香は、てっきり同棲の先には結婚というゴールが待っているものだと思い込んでいた。然し乍ら、孝宏は違った。
(孝宏は、私の事・・・・同居人みたいに思ってたんだ)
萌香は、自分が滑稽な道化師の様だと思った。3年前、孝宏の情熱でなし崩しに始まった同棲生活だったが、2年前にはセックスレスとなり、孝宏の気持ちが冷め、マッチングアプリに登録した時点で、2人の関係は衣食住を共にする、同居人になっていたのかもしれない。
(そんな事、考えてみた事も無かった)
萌香は、終業のチャイムと同時に、書類を片付け始めた。表情は暗く、視線はデスクに落とされた。そこにはボールペンと蛍光ピンクの付箋があった。その付箋にはなんのメッセージも書かれてはいなかったが、萌香が振り向くと芹屋隼人が目を細め、口角を上げて微笑んでいた。
(あの時、課長がいなかったら)
もし、芹屋隼人が、孝宏の本心を聞き出さなければ、萌香はいつまでも孝宏に依存して、『いつか結婚出来るだろう』と、25歳という時間を無駄に費やしていた事だろう。
(あの時は、余計なお世話だと思ったけれど、あれはあれで良かったのかもしれない)
「お疲れさまでした」
萌香が、視線を逸らしながら芹屋隼人のデスクの脇を通り過ぎようとしたその瞬間、大きく温かな手のひらが、萌香の手首を掴んだ。萌香の動きが止まった。
「・・・・!」
芹屋隼人は、萌香を見上げるとその顔を凝視し、薄い唇をゆっくりと動かした。萌香の頬は赤らみ、身動きが取れなかった。
「ご苦労さまです」
「は、はい」
「長谷川さん、お待ちしていますよ」
「お、お疲れさまでした!」
萌香は、芹屋隼人の手を振り解くと踵を返した。ドアノブを持った手が汗ばんでいる。突然、握られた手首が熱い。ドクンドクンと心臓が跳ね、脚が震えた。エレベーターのボタンを押す指に力が入った。
(課長!)
萌香は手首を、もう片方の手で押さえた。
(も、もう、課長ったら!みんなに気付かれたらどうするつもりなの!?)
その時、萌香の心に刺さっていた、孝宏という名の棘はホロリと抜け落ち、芹屋隼人で満たされた。芹屋隼人の熱い視線、魅惑的な薄い唇、掴んだ手首の熱、爽やかなシトラス・シプレの香り、そのどれもが、萌香を虜にしていた。
(課長・・・芹屋、さん)
萌香は、エレベーターの中で手首をじっと見ていた。触れると、脈打つ鼓動が、芹屋隼人の鼓動を連想させた。淫らな一夜が脳裏を過ぎり、思わず頬を赤らんだ。すると、隣の男性行員から「長谷川さん、大丈夫?熱があるんじゃないの?」と心配され、声を掛けられた。
「い、いえ。大丈夫です」
「最近、長谷川さん、なんだか違うよね」
「え、そうですか!?」
「うん、なんていうかさ、ふわふわ落ち着かない感じ」
同じ営業課の女性行員が、萌香に耳打ちした。
「吉岡さんの事じゃない?」
「・・・・え」
「さっき、泣いてなかった?」
萌香は咄嗟に作り笑いで、手を振って見せた。
「花粉症なんです」
「・・・・そう?」
「はい!」
「なにかあったら相談してね?」
「ありがとうございます」
萌香は、夢見心地だった芹屋隼人との時間から、一気に現実へと引き戻された。
(孝宏、か)
視線が自然と下を向いた。孝宏に、結婚する意思が無いのならば同棲を解消するべきだ。孝宏との結婚を今か今かと待ち望んでいた母親は悲しみ、同棲に反対していた父親は喜ぶだろうが、致し方ない。
(来週の週末に話し合おう)
孝宏はどんな顔をするのだろう。萌香がマンションを出て行き、無罪放免とばかりに女性と遊び始めるのだろうか。
(それは、ちょっと悲しいな)
女性ロッカールームの鏡に映った萌香の面持ちは暗く、眉間にはシワが寄っていた。せっかくのメイクが台無しだった。
(悲しいけど、こんな顔にさせる相手と暮らしてても、意味ないよね)
あぶらとり紙で、額や頬に浮いた孝宏への未練を拭き取って、ゴミ箱へと捨てた。上質なメイクブラシでパウダーを、肌全体にフワリと乗せた。一気に表情が明るくなり、萌香は鏡の中の自分を見つめて軽く溜め息を吐いた。
(もう、悲しい思いはしたくない!)
萌香はメイクポーチから口紅を取り出すと、華やかなピンクを唇に引いた。それはまるで野に咲き誇るシバザクラの様に鮮やかで、萌香の印象を一変させた。
(ん、いい感じ!)
窮屈な制服のボタンをひとつ、ふたつと外し、白いシャツと黒いフレアスカートに着替えた。足元は、底の薄いパンプスから、黒いハイヒールへと履き替えた。
(あ、髪、髪)
萌香は、背中でひとつにまとめていた髪を解くと手櫛で軽く掻き上げた。フワリと開いたそれはまるで蝶、薄暗いロッカールームから煌びやかな夜の街に羽ばたく蝶だった。
「うあぁ、長谷川さん、どうしたの!綺麗!」
その変貌ぶりに驚いた同僚が、萌香の顔を覗き込んだ。ここにも嘘を仕込んでおかなければならない。
「同窓会の会食なの」
「どこで?」
「ホテルの中華」
「わぁ、いいなぁ」
萌香はにっこりと微笑んだ。
「長谷川さん。いつもそれくらい、お化粧すれば良いのに」
「メイクを嫌がる人がいてね」
同僚は、首を傾げて不思議そうな顔をした。そして、思いつたとばかりに、手を叩いて見せた。
「ああ!吉岡さん!」
「そんな大きな声出さないで」
同僚は腰を屈めると萌香の耳元で囁いた。
「吉岡さん、お化粧を嫌がるんですか?」
「あんまり派手なのはね、苦手らしいの」
「それくらい普通ですよ?」
「そう?」
「うん」
孝宏は、萌香がメイクをする事を嫌がった。理由は『女らしい女が苦手』だと言った。そこで萌香はナチュラルメイクを心掛け、それはいつしか、手を抜いた垢抜けないものへと変化していた。それで他の女性に目がゆくなど言語道断だと、萌香は腹が立った。
「分かった!長谷川さんがモテるのが嫌なんですよ!」
「そんな訳、ない、無い」
「そうですかぁ?」
「そう、そう」
今日の、昼休憩までの萌香ならば、こんな冷やかしには、照れて頬を染めただろう。けれど今は違う。孝宏は、萌香に興味など無かったのだから、メイクを派手にしようが、髪を染めようが気にも留めなかっただろう。
「じゃ、お疲れさまでした」
「お疲れさまでーす」
萌香の視線は真っ直ぐ前を向き、ハイヒールの音を鳴らしながら、アメリカ楓の並木道を歩いた。その耳元には、萌香が自分で自分の誕生日に購入した、18Kのピアスが揺れている。萌香はようやく自分自身で決めた、初めの一歩を踏み出した。