ドアボーイが恭しくお辞儀をする回転扉の向こうには、あの夜と同じく、光の雫が滴るシャンデリアが萌香を迎え入れた。
(うわ、人がいっぱい)
あれは深夜の出来事で、フロアに人気は無かった。今日はまだ夕暮れ時で、宿泊客がラウンジでチェックインの説明を受け、会合でもあるのだろう、恰幅の良い年配の男性が群れを成していた。
(ええーっと、エレベーターはどっちだっけ)
ほろ酔い気分で乗ったエレベーターの位置など覚えている筈もなく、周囲を見回していると、革張りのソファから見慣れた背中が立ち上がった。
「課長!」
芹屋隼人は「やあ」とばかりに口角を上げ、嬉しそうに目を細めて小さく手を振った。萌香は、その姿にホッとしたが、次の瞬間、我に帰り、芹屋隼人の腕を掴むと柱の物陰に連れ込んだ。
「おやおや、萌香さんは積極的ですね」
芹屋隼人の目は意地悪な子どもの様で、言葉の端々がどこかふざけている。
「長谷川です!」
「もう、勤務は終わりましたよ、隼人と呼んで下さい」
「課長!早くお部屋に行きましょう!」
「おやおや、萌香さんは積極的ですね」
萌香は、なんとか芹屋隼人をエレベーターホールに連れて行き、イヤイヤする手からカードキーを取り上げた。
「なに、イヤイヤしているんですか!」
「その美しい萌香さんを、皆さんにお披露目したいのです」
「社のお偉いさんがいたら、どうするんですか!」
芹屋隼人は意味が分からないと言った顔で両手を上げた。
「なにがホワーイなんですか!」
萌香は顔を真っ赤にして、エレベーターのボタンを押した。
9階
「うちの銀行は、社内恋愛は?」
「OKです!」
芹屋隼人が問い、萌香が瞬時に答えた。
8階
「萌香さんは結婚なさっていますか?」
「グッ、して、いません!」
昼間、孝宏から『結婚する気はない』と宣言されたばかりだ。
5階
「私は結婚していますか?」
「していないとお聞きしました!」
「じゃあ、問題ないじゃないですか」
「確かに、そうですね」
チーン
エレベーターの扉が開いた。
萌香は芹屋隼人に肩を抱かれるように箱の中に導かれた。萌香は、その手の温かさに緩やかな緊張を感じた。芹屋隼人は目を細めると『いいですか?』とでも言う様に頷いた。
(・・・・あ)
萌香はその紳士的な仕草に、孝宏の姿を重ねた。孝宏は、最初の性行為の時から荒々しく萌香を意のままに組み敷いたが、芹屋隼人は違った。萌香は、傷付いた思い出が、氷が溶ける様にゆっくりと癒されていく様な気がした。
3階
4階
5階
上昇するガラス張りのエレベーターは夕焼けの眩しさに包まれていた。忙しない地上の騒めきから遠ざかる萌香は、ふたたび、非日常へと導かれて行く。
「夕焼けが綺麗」
「ええ」
夕暮れの橙は水平線に沈み、オレンジのソルベの様にとろりと蕩け始めている。グラデーションを描いた紺色の夜空には金星が輝いていた。
27階
チーン
萌香はゴクリと唾を飲み込んだ。毛足の長い、深紅のカーペットにハイヒールが沈み、アンティークゴールドのプレートが萌香の目に留まった。
「2710」
「どうぞ」
芹屋隼人がさり気無くカードキーをかざすとカチッと音がしてドアノブが降りた。萌香がおずおずと部屋へ進むと、テーブルの上に淡いピンクの装花が飾られ、ワインクーラーが置かれていた。
「ワイン、ですか?」
「今日は白ワインにしました」
「や、そうじゃなくて」
「シャルドネ、酸味が強いですが美味しいですよ」
「はい、や、そうじゃなくて」
萌香は全身で『話が違うじゃないですか』と訴えた。すると、芹屋隼人は『まぁまぁ、お座り下さい』と萌香をソファに座らせ、透き通るグリーンの瓶をワインクーラーから取り出した。白いナフキンから垂れる水滴、手際よくコルク栓を抜く姿も一枚の絵画のように様になっている。
「課長、今日はお話を聞くだけでしたよね?」
「次、課長と呼んだら、あなたをそのベッドに連れて行きますよ?」
「え、そんな」
「はい、呼んで下さい」
芹屋隼人はワイングラスにワインを注ぎながら目を細めて口元を綻ばせている。白ワインの芳醇な香りが、萌香を少しだけ大胆にさせた。
「せ、芹屋さん」
「隼人ですよ」
「むっ、無理です!今日はここまでで!」
「今日は、という事は、次も有ると解釈しても宜しいですか?」
「グッ、ぐ」
「宜しいですか?」
萌香はクッションを掴むと、顔を隠し、足をばたつかせながらその名前を呼んだ。
「はっ!はっ!」
「笑ってるんですか?」
「違います!笑ってなんかいません!」
芹屋隼人は目を細めながら、萌香の隣に腰掛けた。
「はっ!」
「はい、もうちょっと頑張って下さい」
「はや、隼人さんっ!」
芹屋隼人は、大童で乱れた萌香の髪を指先で直し、耳たぶに触れた。K18のピアスが揺れ、その指の温かさに萌香の心も揺れた。芹屋隼人はクッションを萌香から取り上げると、ワイングラスを目の前に差し出した。
「か、い、え、はや、隼人さん」
「なんでしょうか?」
「このワインにはなんの意味が?」
萌香と芹屋隼人はワイングラスを傾け、カチンと乾いた音が、夕日の差し込む部屋に響いた。
「ワインのない食事は太陽の出ない一日」
「なんなんですかそれ?」
「ゲーテの遺した名言です」
「はぁ」
萌香は納得がいかないまま、グラスに口を付けた。
「美味しいですか?」
「美味しいです」
「白ワインも良いでしょう?」
「はい」
芹屋隼人はおもむろに立ち上がると、萌香の背中を押した。
「さぁ、行きますよ」
「え、あ、はい?どこに?え?」
芹屋隼人の言うところの、『再会記念日のディナー』は、フランス創作料理ラ・プラージュのアニバーサリーペアディナーで祝う事となった。ホテル日航金沢の30階、地上130mの眺望は、金沢市から日本海、医王山を一望する事が出来た。
「き、緊張します」
「そうですか?そんなに畏まらないで下さい」
「こんな高級なお店、お値段、高かったのでは・・ございませんか?」
「そんな事は気にしないで、お料理を堪能して下さい」
「はぁ」
「さぁ、どうぞ」
「いただきます」
萌香のテーブルには、日本海の海の幸を中心に牛ヒレ肉とフォアグラのロッシーニ、加賀野菜、季節に合わせた柑橘系の果物をふんだんに使った皿が次々と並んだ。
(だ、誰もいないよね!?)
萌香は、友人知人や銀行の同僚、会社役員の姿がないかと、肝を冷やし、目はキョロキョロと落ち着かなかった。
「おめでとうございます」
「え、え?え!?」
「再会の記念ですよ、受け取ってください」
「再会って、毎日、会ってるじゃないですかぁ」
萌香はソムリエから深紅の薔薇の花束が手渡され、真っ赤なハート型のケーキがテーブルに置かれた。ハート型のケーキにはI LOVE YOUの文字が並んでいた。萌香は目を細めて微笑む芹屋隼人の真意が分からず、そこには不安しかなかった。