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第29話 深紅

 萌香は、深紅の薔薇の花束をテーブルに置くと、芹屋隼人を凝視した。


「どうしましたか?」

「あの、プライベートなお話ってなんですか?」


 芹屋隼人はその問いには答えず、ハート型のケーキにそっと手を添えた。


「召し上がれ」

「あ、あの」

「どうぞ」


 イチゴのピューレを使った桜色のムースには、真っ赤なストロベリージャムが滴り落ち、白い皿に美しい線を描いている。アクセントに、ミントの葉とブルーベリー、カシスの実が添えられていた。


「産地直送、自家農園のイチゴだそうですよ」

「は、はい」

「召し上がれ」


 芹屋隼人は目を細めて微笑んだ。喉をゴクリと鳴らした萌香は、思い切ってカトラリーを握り、ハート型のケーキを真ん中から切り分けた。


(えいっ!)


 桜色のムースに沈んでゆくナイフ。萌香は、半分になった真っ赤なハートを頬張った。果実の味がダイレクトに舌の上で広がり、それを自然な甘さのムースが優しく包み込んだ。


「いかがですか?」

「美味しい、美味しいです!」

「お気に召してなによりです」

「こんな美味しいケーキ、初めて食べました」

「パティシエも喜ぶと思いますよ」


 ホワイトチョコレートで描かれた、I LOVE YOU は無惨にも砕けてしまったが、萌香はそんな事などお構いなしに、スプーンでムースを掬って口に運んだ。すると芹屋隼人がいつもの悪戯っ子のような笑顔で、萌香の顔を覗き込んだ。


「I LOVE YOU は、割れてしまいましたね」

「え?」

「しかももう、I LOVE YOU は、萌香さんのお腹の中です」

「は、はい」


 萌香はナフキンで口を軽く拭うと、手で腹の辺りを軽く撫でた。


「そうですが、それが、なにか?」


 芹屋隼人は目を細め、口角を上げると肩肘を突いた。


「真っ赤なハートは萌香さんのお腹の中です」

「は、はい」


 萌香は、芹屋隼人が今度はなにを言い出すのかと身構えた。


「あなたはもう、吉岡孝宏の事を忘れました」

「孝宏のことを忘れた?」

「吉岡孝宏への未練はもうない」

「え」

「今、萌香さんが食べちゃいましたから」


 ラウンジミュージックが、シューベルト交響曲第7番”未完成”を奏で、萌香の中で時が止まった。


「ケーキは食べましたけど」

「じきにお腹の中で消化されますよ」

「しょ、うか」

「萌香さんがこのホテルに現れた時、吉岡孝宏への思いは吹っ切れた、そんな顔をしていました」


 確かに、萌香はロッカールームで華やかな口紅を塗り、K18のピアスを付けた時から、孝宏と、『来週の週末に話し合おう』と決めていた。ただ、その話し合いは、2人の関係を修復しようというものではなく、いつ、どのタイミングで同棲生活を解消し、萌香の私物を運び出すかという話し合いだった。


「課長は、なんでもお見通しなんですね」


 思わず、大きな溜め息を吐いた。


「はい、1回ですよ、覚悟して下さいね」

「1回?なんの事ですか?」

「ベッドに、萌香さんをお連れする回数ですよ?」

「やっ、やめて下さい!こんなところで!」


 萌香がソムリエへと向き直ると、彼はにっこりと微笑んだ。芹屋隼人はソムリエに、『デザートに合う赤ワインをお願いします』とオーダーし、萌香は小声になって、テーブルに身を乗り出した。


「冗談はここまでにして、そろそろプライベートなお話を聞かせて下さい」

「もうしていますよ?」

「は?」

「萌香さんが、過去の男性と縁を切らなければ始まらないお話なので」

「過去の男性」

「吉岡孝宏の事です」


 そこで、芹屋隼人は怪訝な顔をした。


「そういえば、慎介とは誰の事ですか?」

「なっ、なんで慎介の事まで!」

「萌香さんが電話で話しているのを、たまたま耳にしました」

「慎介は、私の幼馴染です!」

「それなら良かった」


 ソムリエが、ボルドー型のワイングラスと、赤ワインを運んで来た。濃いルビーがトプトプと注がれてゆく。芹屋隼人がワインの銘柄を尋ねると、ソムリエは『ブルゴーニュのピノ・ノワールでございます』と会釈した。


「ちょうどよかった。2人の出会いのワインですね」

「そう、でしたっけ?」

「では、再会に乾杯」

「か、乾杯」


 軽くグラスを重ねあった芹屋隼人は目を細めながら微笑んだ。


「萌香さん、ワインの味わい方は覚えていますか?」

「あぁ、ええと。酔っていたので、ハッキリとは覚えていません、ごめんなさい」


 すると芹屋隼人は流れるような仕草で、その薄い唇にグラスを近付けた。ほんの一口、ゆっくりと口に含み、喉仏が上下する。そこには大人の男性の色香を感じさせた。


(孝宏とは、全然違う)


 萌香は芹屋孝宏の声で、我に帰った。


「ゆっくりと、舌の上を流れるように」

「あぁ!思い出しました!」

「思い出しましたか?」

「アッ、は、はい」


 その時、萌香はワインバーでの出来事を思い出した。芹屋隼人は萌香の人差し指に舌を這わせ、自身の薄い唇に当てがった。萌香の人差し指は、芹屋隼人の熱い唇の隙間に滑り込んだ。その淫靡な瞬間、生温かい感触が頭を過った。


「どうしたんですか?顔が赤いですよ?」

「ちょっと、酔ったのかもしれません」


 萌香は耳まで赤らめて恥じらいの表情を見せた。その面差しに目を細めた芹屋隼人は、ワインを一口、口に含んだ。そして、舌の上でワインを堪能した後、萌香の目を見つめた。


「その顔も素敵ですね。魅力的だ」

「みっ、みりょ!」

「制服姿のあなたも素敵ですが、やはり今の萌香さんが、堪らなく良い」

「やっ、やめて下さい」


 芹屋隼人は、臆面も無く萌香の魅力を語り続けた。それに耐えきれなくなった萌香は、両手で耳を塞ぎ、目をきつく瞑った。


「可愛いですね」

「課長!やめて下さい!」

「2回目ですね、明日の朝もベッドで過ごしましょうか」

「ちょっ!」


 そこで萌香が目を開けると、そこにはDiorの小さなショッパーが置かれていた。萌香が無言で芹屋隼人の顔を見上げると、目を細めてゆっくりと頷いた。萌香が、慣れない手付きで白いリボンを解くと、白い小箱が5個入っていた。


「これ、なんですか」

「萌香さんにプレゼントです」


 萌香は、白い小箱を、ひとつひとつ丁寧に開けていった。芹屋隼人は、その姿をやや緊張の面持ちで注視した。


「・・・これ」


 小箱の中には、落ち着いたローズ色のジェルネイルとトップコート、ベースコートにネイルリムーバー、ネイルグロウが入っていた。


「差し出がましいとは思いましたが」

「はい」


 萌香に受け取って貰えるかどうか、やや不安げな表情の芹屋隼人からは、珍しく緊張の糸が感じられた。


「萌香さんは、いつもネイルをされていなかったので」

「はい」

「お嫌でなければ、どうぞ受け取って下さい」

「ネイル、ですね」

「はい」


 化粧を嫌がった孝宏に遠慮し、また、自分の給与を生活費の大半に注ぎ込んでいた萌香は、ネイルを持っていなかった。他の女性行員と比べて色味のない指先が悲しかった。


「・・・・・」


 今回、孝宏の浮気が露呈し、自分自身を磨く事に目覚めた萌香は、来月の給与で奮発してネイルを購入しようと思っていた。そんな矢先の、サプライズだった。


「色が気に入らなければ、交換も出来ます」

「・・・・・・」


 芹屋隼人は、押し黙り、下を向いてしまった萌香を気遣い、慌てて声を掛けた。ダウンライトの中、顔を上げた萌香の頬には一筋の涙が流れていた。


「課長、ありがとうございます」

「気に入ってくれましたか?」

「はい、素敵なネイルです。私、欲しかったんです」

「良かったです」


 芹屋隼人は安堵の溜め息を吐いた。


「ありがとうございます」

「喜んで頂けて嬉しいです」

「ありがとうございます」


 萌香は、ヒヤリとした冷たいガラスの小瓶から溢れ出す、温かな心遣いに胸が熱くなった。


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