萌香は、深紅の薔薇の花束をテーブルに置くと、芹屋隼人を凝視した。
「どうしましたか?」
「あの、プライベートなお話ってなんですか?」
芹屋隼人はその問いには答えず、ハート型のケーキにそっと手を添えた。
「召し上がれ」
「あ、あの」
「どうぞ」
イチゴのピューレを使った桜色のムースには、真っ赤なストロベリージャムが滴り落ち、白い皿に美しい線を描いている。アクセントに、ミントの葉とブルーベリー、カシスの実が添えられていた。
「産地直送、自家農園のイチゴだそうですよ」
「は、はい」
「召し上がれ」
芹屋隼人は目を細めて微笑んだ。喉をゴクリと鳴らした萌香は、思い切ってカトラリーを握り、ハート型のケーキを真ん中から切り分けた。
(えいっ!)
桜色のムースに沈んでゆくナイフ。萌香は、半分になった真っ赤なハートを頬張った。果実の味がダイレクトに舌の上で広がり、それを自然な甘さのムースが優しく包み込んだ。
「いかがですか?」
「美味しい、美味しいです!」
「お気に召してなによりです」
「こんな美味しいケーキ、初めて食べました」
「パティシエも喜ぶと思いますよ」
ホワイトチョコレートで描かれた、I LOVE YOU は無惨にも砕けてしまったが、萌香はそんな事などお構いなしに、スプーンでムースを掬って口に運んだ。すると芹屋隼人がいつもの悪戯っ子のような笑顔で、萌香の顔を覗き込んだ。
「I LOVE YOU は、割れてしまいましたね」
「え?」
「しかももう、I LOVE YOU は、萌香さんのお腹の中です」
「は、はい」
萌香はナフキンで口を軽く拭うと、手で腹の辺りを軽く撫でた。
「そうですが、それが、なにか?」
芹屋隼人は目を細め、口角を上げると肩肘を突いた。
「真っ赤なハートは萌香さんのお腹の中です」
「は、はい」
萌香は、芹屋隼人が今度はなにを言い出すのかと身構えた。
「あなたはもう、吉岡孝宏の事を忘れました」
「孝宏のことを忘れた?」
「吉岡孝宏への未練はもうない」
「え」
「今、萌香さんが食べちゃいましたから」
ラウンジミュージックが、シューベルト交響曲第7番”未完成”を奏で、萌香の中で時が止まった。
「ケーキは食べましたけど」
「じきにお腹の中で消化されますよ」
「しょ、うか」
「萌香さんがこのホテルに現れた時、吉岡孝宏への思いは吹っ切れた、そんな顔をしていました」
確かに、萌香はロッカールームで華やかな口紅を塗り、K18のピアスを付けた時から、孝宏と、『来週の週末に話し合おう』と決めていた。ただ、その話し合いは、2人の関係を修復しようというものではなく、いつ、どのタイミングで同棲生活を解消し、萌香の私物を運び出すかという話し合いだった。
「課長は、なんでもお見通しなんですね」
思わず、大きな溜め息を吐いた。
「はい、1回ですよ、覚悟して下さいね」
「1回?なんの事ですか?」
「ベッドに、萌香さんをお連れする回数ですよ?」
「やっ、やめて下さい!こんなところで!」
萌香がソムリエへと向き直ると、彼はにっこりと微笑んだ。芹屋隼人はソムリエに、『デザートに合う赤ワインをお願いします』とオーダーし、萌香は小声になって、テーブルに身を乗り出した。
「冗談はここまでにして、そろそろプライベートなお話を聞かせて下さい」
「もうしていますよ?」
「は?」
「萌香さんが、過去の男性と縁を切らなければ始まらないお話なので」
「過去の男性」
「吉岡孝宏の事です」
そこで、芹屋隼人は怪訝な顔をした。
「そういえば、慎介とは誰の事ですか?」
「なっ、なんで慎介の事まで!」
「萌香さんが電話で話しているのを、たまたま耳にしました」
「慎介は、私の幼馴染です!」
「それなら良かった」
ソムリエが、ボルドー型のワイングラスと、赤ワインを運んで来た。濃いルビーがトプトプと注がれてゆく。芹屋隼人がワインの銘柄を尋ねると、ソムリエは『ブルゴーニュのピノ・ノワールでございます』と会釈した。
「ちょうどよかった。2人の出会いのワインですね」
「そう、でしたっけ?」
「では、再会に乾杯」
「か、乾杯」
軽くグラスを重ねあった芹屋隼人は目を細めながら微笑んだ。
「萌香さん、ワインの味わい方は覚えていますか?」
「あぁ、ええと。酔っていたので、ハッキリとは覚えていません、ごめんなさい」
すると芹屋隼人は流れるような仕草で、その薄い唇にグラスを近付けた。ほんの一口、ゆっくりと口に含み、喉仏が上下する。そこには大人の男性の色香を感じさせた。
(孝宏とは、全然違う)
萌香は芹屋孝宏の声で、我に帰った。
「ゆっくりと、舌の上を流れるように」
「あぁ!思い出しました!」
「思い出しましたか?」
「アッ、は、はい」
その時、萌香はワインバーでの出来事を思い出した。芹屋隼人は萌香の人差し指に舌を這わせ、自身の薄い唇に当てがった。萌香の人差し指は、芹屋隼人の熱い唇の隙間に滑り込んだ。その淫靡な瞬間、生温かい感触が頭を過った。
「どうしたんですか?顔が赤いですよ?」
「ちょっと、酔ったのかもしれません」
萌香は耳まで赤らめて恥じらいの表情を見せた。その面差しに目を細めた芹屋隼人は、ワインを一口、口に含んだ。そして、舌の上でワインを堪能した後、萌香の目を見つめた。
「その顔も素敵ですね。魅力的だ」
「みっ、みりょ!」
「制服姿のあなたも素敵ですが、やはり今の萌香さんが、堪らなく良い」
「やっ、やめて下さい」
芹屋隼人は、臆面も無く萌香の魅力を語り続けた。それに耐えきれなくなった萌香は、両手で耳を塞ぎ、目をきつく瞑った。
「可愛いですね」
「課長!やめて下さい!」
「2回目ですね、明日の朝もベッドで過ごしましょうか」
「ちょっ!」
そこで萌香が目を開けると、そこにはDiorの小さなショッパーが置かれていた。萌香が無言で芹屋隼人の顔を見上げると、目を細めてゆっくりと頷いた。萌香が、慣れない手付きで白いリボンを解くと、白い小箱が5個入っていた。
「これ、なんですか」
「萌香さんにプレゼントです」
萌香は、白い小箱を、ひとつひとつ丁寧に開けていった。芹屋隼人は、その姿をやや緊張の面持ちで注視した。
「・・・これ」
小箱の中には、落ち着いたローズ色のジェルネイルとトップコート、ベースコートにネイルリムーバー、ネイルグロウが入っていた。
「差し出がましいとは思いましたが」
「はい」
萌香に受け取って貰えるかどうか、やや不安げな表情の芹屋隼人からは、珍しく緊張の糸が感じられた。
「萌香さんは、いつもネイルをされていなかったので」
「はい」
「お嫌でなければ、どうぞ受け取って下さい」
「ネイル、ですね」
「はい」
化粧を嫌がった孝宏に遠慮し、また、自分の給与を生活費の大半に注ぎ込んでいた萌香は、ネイルを持っていなかった。他の女性行員と比べて色味のない指先が悲しかった。
「・・・・・」
今回、孝宏の浮気が露呈し、自分自身を磨く事に目覚めた萌香は、来月の給与で奮発してネイルを購入しようと思っていた。そんな矢先の、サプライズだった。
「色が気に入らなければ、交換も出来ます」
「・・・・・・」
芹屋隼人は、押し黙り、下を向いてしまった萌香を気遣い、慌てて声を掛けた。ダウンライトの中、顔を上げた萌香の頬には一筋の涙が流れていた。
「課長、ありがとうございます」
「気に入ってくれましたか?」
「はい、素敵なネイルです。私、欲しかったんです」
「良かったです」
芹屋隼人は安堵の溜め息を吐いた。
「ありがとうございます」
「喜んで頂けて嬉しいです」
「ありがとうございます」
萌香は、ヒヤリとした冷たいガラスの小瓶から溢れ出す、温かな心遣いに胸が熱くなった。