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第30話 夜のしつらえ

 萌香が高級レストランでの食事を終え、2710号室に戻ると、ターンダウンサーが既に”夜のしつらえ”をし終えていた。オレンジスィートのアロマが焚かれ、ナイトテーブルの上には飲料水とチョコレート、ベッドスローは取り外され、シーツの角は丁寧に折られていた。思わず、萌香の足が止まった。


「おや、もう準備が整っているようですね」

「じゅ、準備」

「おやすみの準備です」

「お、おやすみ」

「はい」


 芹屋隼人はナイトスリッパを準備した。


「はい、そんな窮屈な靴は脱いで下さい」

「ありがとうございます」


 ハイヒールを脱ぐと、小さく縮こまっていた爪先がホッと溜め息を吐いた様な気がした。その開放感に萌香の緊張も解れた。その表情に芹屋隼人は目を細めた。


「やはり緊張しましたか?」

「はい、あんな高級なお店で食事なんて初めてで」

「味もしなかった?」

「いえ!美味しく頂きました!夜景も綺麗でした!」

「それは良かった」


 明るい笑顔の萌香を見た芹屋隼人は、その可愛らしさに目を細めて見た。そして、芹屋隼人も日常を解くようにネクタイを外し、ジャケットをハンガーに掛けた。それは重い鎧を脱いだ背中の様で、とてもリラックスして見えた。


「それ以上は脱がないんですね」

「脱いで欲しい?」

「いえ、とりあえず、か、ちょ、り、芹屋さんと私のプライベートな話を聞かせて下さい」

「座って」

「はい」


 萌香と芹屋隼人は向かい合ってソファに腰掛けた。萌香は緊張のあまり、視線を床に落としていたが、芹屋隼人が脚を組んだ音で顔を上げた。柔らかなランプシェードの明かりに浮かび上がる芹屋隼人の顔は、これまでのウェットに富んだものではなく、真剣そのものだった。


「それで、お話というのは」


 芹屋隼人は、萌香から目を逸らすと、テーブルに置かれた温い白ワインを煽る様に飲み干した。


「萌香さん」


 それは、とても言い出しにくい事を、噯気おくびにして、吐き出そうとしている様にも見えた。


(な、なに!?)


 芹屋隼人の、普段とは異なるその姿に、萌香は、突拍子も無い事を、突き付けられるのではないかと、心中穏やかでは無かった。そこで、芹屋隼人は意を決したように、声を絞り出した。


「萌香さん、私と・・・けっ」

「け?け、なんですか?」


 ところがそれは不発に終わり、芹屋隼人は、酷く難しい面立ちで考え込んでいた。かと思うと、突然、頭を左右に振って抱え込んだ。


(こんな挙動不審な課長、初めて見た、いや、いつも挙動不審か)


 いつになってもその薄い唇は閉じたままで、時間を持て余した萌香は、ワイングラスに温くなった白ワインを注いだ。温くなった白ワインは、ただの葡萄ジュースの様で美味しく無かった。


(いつになったら言うのかなぁ)


 萌香は、ターンダウンのチョコレートを齧りながら、白ワインをちびちびと飲んだ。然し乍ら、冷静さを失い、頭を抱えている上司を見ていると、心配を通り越して失笑しそうになった。が、なんとか持ち堪えた。


(笑ったら失礼だしなぁ。でも笑える。経理課のみんなに見せてあげたい、動画撮ろうかな)


 片や、芹屋隼人は今から口にすべき言葉に葛藤していた。一生に一度言うあの言葉を、目の前の部下に言わなければならない。


(もし!もし、断られたら、職場でどんな顔をして仕事をすれば良いんだ!)


 萌香が携帯電話を構えたところで、それまで悶絶していた芹屋隼人が、カメラの起動音に気付き、その動きを阻止した。


「なにをしているんですか!?」

「え、課長の動画を撮ろうと思って」

「やめて下さい!」

「ごめんなさい」


 芹屋隼人は大きく息を吸って深く吐くと、脚を組み直し、乱れた前髪を掻き上げた。その面差しは、普段とは大きく異なり落ち着かず冷静さを失っていた。


「課長、大丈夫ですか?」

「萌香さん、ベッドにお連れしますよ?」

「大丈夫みたいですね」


 軽口を言えるならば大丈夫だろう、萌香は、携帯電話をショルダーバッグに片付け、芹屋隼人の様子を見守った。


「大丈夫です、少し取り乱してしまいました」

「かなり取り乱していましたよ?」

「そうですか」

「そうです」


 芹屋隼人は、目を細めると口角を上げて微笑んだ。


(あ、いつもの課長だ)


 萌香がワインのグラスをテーブルに置こうとすると、その手首を大きく温かい手が握った。


「課長?」


 萌香の動きが止まり、2人の視線が絡み合った。オレンジスイートのアロマの香りと、芹屋隼人のディオール、オー・ソバージュの香りに包まれた萌香は、胸の鼓動が速くなるのを感じた。


「課長、プライベートなお話ってなんですか?」

「隼人ですよ、萌香さん」


 萌香は軽く咳払いをし、顔を赤らめながら、芹屋隼人から目を逸らした。


「はや、隼人さん、プライベートなお話ってなんですか?」


 芹屋隼人は、萌香の顔を覗き込みながら優しげに微笑み、薄い唇で囁いた。萌香はその言葉が理解出来ず、芹屋隼人の顔を凝視した。


「課長」

「隼人です」

「隼人さん、今、なんて仰いましたか?」

「もう一度、聞きたいですか?」


 萌香は目を見開いたまま、うんうんと首を縦に振った。芹屋隼人はソファーから身を屈めると、カーペットに膝を突き萌香の手を握った。


「萌香さん」

「は、はい」


 芹屋隼人の手のひらは汗ばみ、指先の血管はドクンドクンと脈打っていた。緊張は最高潮だった。萌香と芹屋隼人は、一瞬たりとも目を逸す事が出来ず、息を呑んだ。


「もう一度言います」

「はい」

「私と、結婚して下さい」

「は、はい・・・・じゃない!はいじゃない!」


 萌香は、芹屋隼人の手を振り解くとソファから飛び退いた。


「なんで私が、課長と結婚する事になるんですか!?」

「私はあの夜から、ずっと萌香さんの事が忘れられなかった」

「いやいやいや、だからって、急にプロポーズするなんて、おかしいと思いません!?」


 芹屋隼人は困ったな、といった顔つきで腕を組んだ。


「なに困ってるんですか!」

「私と萌香さんは、あのベッドで熱い一夜を過ごしました」

「はい!確かに!」

「そして職場で再会しました。あの時の驚きと、胸のときめきは、言葉では言い尽くせない!」

「上司と部下としてです!」


 萌香はベッドから少しでも離れようと、ジリジリと窓際に移動した。


「あの目眩めくるめくひととき、そして職場での再会、これは運命としか言いようがありません」

「だからって!今まで上司だった人と、結婚なんてあり得ません!」


 萌香はショルダーバッグを手に取った。


「それに、課長!<素敵な夜をありがとう>って、これ、残して行きましたよね!」

「これ?」

「一夜限りって事ですよね!?」


 萌香は、別れのメッセージが書かれたドリンクコースターを取り出して、芹屋隼人の目の前に突き付けた。


「それは!私が書いたメッセージですね!」


 芹屋隼人はいたく感動した様子で、そのドリンクコースターを凝視した。


「せっかく頂いたメッセージですから!」

「ありがとうございます!記念に持っていてくれたんですね!」


 芹屋隼人は萌香を抱き締めると、首筋に顔を埋めた。


「ちょっ!ちょ!課長!」

「課長じゃありません!隼人ですよ、萌香さん!」


 萌香は、突然の出来事に微動だに出来なかった。


「課長、落ち着いて下さい!」

「萌香さん!」

「課長ーっ!」


 芹屋隼人は息を整え、萌香を抱き締めたままベッドへと崩れ落ちた。2人は羽毛の海へと飛び込み、萌香は、芹屋隼人のオー・ソバージュの香りに包まれて息を呑んだ。


(・・・な、なにこの展開)


 萌香は、この香りに包まれたら、逃げられない気がした。でも、本当に逃げたいのか、逃げたくないのか、萌香は自分でも分からなかった。


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