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第31話 提案

 萌香と芹屋隼人は、羽毛の海に漂うクラゲだった。ふわふわと、日常と非日常が入り混じり、互いに白ワインの息遣いを感じた。抱き締めあう胸の鼓動、2人を隔てるものは薄い布1枚だ。


「萌香さん」

「はい」


 萌香は、芹屋隼人の突然のプロポーズに驚きながらも、どこか冷静だった。


(課長、なんだか焦ってるみたい)


 芹屋隼人の、平生の慎重さから逸脱したこの結婚の申し込みには、なにか訳があるのではないかと思った。芹屋隼人は深呼吸をして息を整えると、薄い唇でもう1度同じ言葉を囁いた。


「結婚して下さい」

「でも私、同棲していますから!」


 萌香はベッドから起き上がり、芹屋隼人は肩肘を突くと萌香の髪を指先でくるくると巻いた。


「でも、それももうじき解消するのでしょう?」

「・・・・・」

「吉岡孝宏は、萌香さんと結婚しないと言っていましたよね?」

「そうですね」

「なら、問題ないですよね?」


 萌香は、胃の辺りに手を添えると、一瞬悲しげな顔をした。


「そうですよね、もう食べちゃったんですから」

「そうですね」


 芹屋隼人はベッドの上で胡座を組むと、目を細め口角を上げた。そして萌香の顔を覗き込みながら、優しく両手を握った。


「私が、あなたの爪に色を付けて差し上げます」

「はい」

「それから」


 芹屋隼人は、萌香の左手の薬指を取ると、薄い唇で口付けた。


「あなたのこの指に、1,5ctのダイヤモンドを捧げます」


 萌香の頬は赤く色付き、心臓が鷲掴みにされ、思わず芹屋隼人から目を逸らした。瞼を瞑った芹屋隼人はゆっくりと頬を寄せ、萌香の唇を軽く啄んだ。


(嫌がられる、かな?)


 萌香は一瞬、ビクッと身体を強張らせたが、その緊張は芹屋隼人の舌先で蕩けてゆき、口腔の奥まで深く受け入れた。絡み合う舌先、それはゆっくりと舌の上を流れるワインに似ていた。


「ん」


 芹屋隼人に背中を抱き抱えられ、枕に頭を埋めた瞬間、ナイトテーブルの飲料水のペットボトルが倒れた。


「ぷはっ!」


 我に帰った萌香は、芹屋隼人の厚い胸板を両の手のひらで押し返した。


「だっ、駄目です!」


 芹屋隼人は、大切にしていた宝物を取り上げられた仔犬の様な目付きで、今のいままで身悶えていた、萌香を見下ろした。


「ここでお預けですか?」

「お預けもなにも!今夜はプライベートなお話をしに来ただけです!」

「そうでした、つい。申し訳ありません」

「はい!」


 萌香はふたたび起き上がると、シャツの乱れを直し、もつれた髪を整えた。芹屋隼人もワイシャツのボタンを留め、前髪を掻き上げた。


「いつの間に、そんなにボタンを外していたんですか」

「手先が器用なもので」

「さすが、お仕事が早いだけありますね」

「褒められてしまいました」

「褒めてません!」


 やや機嫌が悪い萌香がソファに座ると、冷蔵庫の扉を開けた芹屋隼人が、『なにをお飲みになりますか?』と目を細めた。その時、萌香はこれまで孝宏から、『ビールが無い』や『なんで買ってないんだ』と、そんな言葉ばかり掛けられていた事を思い出し、切なくなった。


「あ、じゃあオレンジジュースをお願いします」

「アルコールじゃないんですか?」

「今夜は、いろいろ考えたい事があるので帰ります」

「今夜は、ね」

「言葉のあやです!」


 芹屋隼人は、顔を赤らめ必死に取り繕う萌香を見て、その可愛らしさに目を細めた。然し乍ら、その視線は床に落とされた。


(こんな騙すような事は、したくなかったんだがな)


 芹屋隼人は、マンダリンオレンジの橙をグラスに注いだ。ヒヤリとした感覚が指先から身体全体へと伝わった。


「氷がなくて、申し訳ない」

「いえ、十分冷えてます。ありがとうございます」


 萌香の喉はゴクゴクと冷静さを飲み込んだ。そんな横顔を、テーブルに片肘を突いた芹屋隼人は、目を細め、口角を上げて微笑んだ。芹屋隼人は、そこで意を決して口を開いた。


「萌香さん、結婚して下さい」

「それはもう、お断りしました」


 萌香は、グラスのマンダリンオレンジを飲み干すと、厳しい面持ちで芹屋隼人を睨み付けた。ところが、そこで思いもよらぬ言葉が転がり出た。


「萌香さん、結婚は結婚ですが、契約結婚です」


 契約結婚。萌香は初めて聞く言葉に、首を傾げた。いや、実際にはドラマや映画で耳にした事がある。大企業の御曹司が後継者争いに巻き込まれ、致し方なく女性と籍を入れる、そんなイメージが萌香の脳裏にぼんやりと浮かんだ。


(そんな感じ?)


 萌香は、隣に座る芹屋隼人を二度見した。


「契約結婚をご希望されるという事は、あの、課長はどこかの御曹司だったり、なんとか王子だったりします?」

「いいえ。至って普通ですよ。父親は市役所職員、母親は保育士、中流家庭といったところです」


 萌香はテーブルから身を乗り出して、目を輝かせた。


「もしかして、誰かに命を狙われてたりします?」

「なにか、期待してますか?」

「はっ、はい!」


 芹屋隼人は苦笑いで返した。


「そんな奇想天外な人生ではありません。小学生の時、隣の従兄弟に水鉄砲で打たれたくらいですね」

「はぁ」

「残念そうですね」


 芹屋隼人はワイングラスに赤ワインを注ぎながら失笑し、結婚について語り出した。それは、萌香にとって耳の痛い事ばかりだった。


*子育て役割分担の合意

*家計負担の合意

*結婚生活における合意

*互いの親族との付き合いの合意

*財産共有の範囲

*離婚の際の条件の合意(財産分与の額)

*契約違反の場合のペナルティの合意


「孝宏には、無理な話ばかりですね」


 孝宏は生活費の全てを、萌香の給与で賄っていた。


「結婚は、人生である意味、契約ですからね」

「孝宏との結婚は無謀でしたね」


 同棲して3年間、孝宏は実家の両親に萌香を紹介する事はなかった。


「萌香さんは私と出会えて、ラッキーでしたね」

「はい、崖下に落ちる寸前でした」


 萌香は安堵の溜め息を吐いたが、ひとしきり考え、芹屋隼人に詰め寄った。


「それって、偽装結婚になりませんか!?」

「偽装結婚、それは犯罪になり得ますね」

「偽装!犯罪!」

「婚姻の意思がないのに、戸籍を書き換える事になりますからね」

「偽装!戸籍!」


 萌香はDiorの小さなショッパーを手にソファーから立ち上がると、踵を返して廊下へと向かった。


「ディナーごちそうさまでした!ネイルもありがとうございました!それでは、また月曜日に!」


 芹屋隼人は、ドアに寄り掛かると脚を組んで目を細めた。ダウンライトに照らされた面差しからは、その意図が計りかねた。


「でも、萌香さんと私に、婚姻の意思があれば、契約結婚は成立します」

「私と課長、に?」


 芹屋隼人は深く頷いた。


「萌香さんは、私と話していて退屈ですか?」

「いえ、どちらかと言えば楽しいです」

「なら、大丈夫ですね」

「大丈夫って!」


 萌香が無理矢理、芹屋隼人の腕を退けようとすると、ふっと耳元で囁かれた。


「それに、私たちにはあの夜があります」

「そっ、それは!」

「お互い本音で語り合い、そしての相性も良かった、そうだと思いませんか?」


 あの晩、萌香は、孝宏の浮気や、日々の苛立ちを芹屋隼人にぶちまけた。芹屋隼人は目を細めてただ静かに頷き、そして一夜の自由を萌香に与えた。熱い口付け、触れる指先、重なる肢体は熱を持ち、意識は何度も遠のいた。夢見心地の一夜の恋を思い出した萌香は、ほんのりと顔を赤らめた。


「なら大丈夫ですね」

「なにが大丈夫なんですか!勝手に話を進めないで下さい!」


 萌香はこの案件に意を唱え続けたが、『この話には続きがあります』と、目を細めた微笑みに背中を押され、渋々、ソファーに腰掛けた。

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