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第32話 薔薇の告白

 萌香は緊張の面持ちで、ソファーの端に軽く腰掛けた。芹屋隼人はテーブルに肘を突くと脚を組み、余裕の笑みでワイングラスに赤ワインを注いだ。


「このホテルはピノ・ノワールがお勧めのようですね」


ランプシェードの暖かな灯りに、ワインの波が揺れた。


「それで、なにが大丈夫なんですか?」


 芹屋隼人はワインを一口含むと、やや不満げな萌香にゆっくりと向き直った。


「萌香さん、この契約結婚は、そんなに難しいお話ではないんですよ」

「全然、分かりませんが」

「そんなに怖い顔をしないで、リラックスして下さい」

「無理です、いきなり契約結婚なんて、驚きます」


 芹屋隼人はワインを一杯、萌香の前に置くと目を細めて微笑んだ。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 萌香は赤ワインをぐいっと飲み干すと、膝の上で拳を握った。その仕草に気付いた芹屋隼人は目を細めると、優しく微笑み、萌香の顔を覗き込んだ。


「萌香さん」


 ソファから立ち上がった芹屋隼人は、Diorのショッパーからジェルネイルの小箱を取り出し始めた。


「なにをしているんですか?」

「これを塗ってみませんか?」


 それは無邪気な子どもの笑顔で、萌香は意外なものを見たと驚いた。ただ、その箱はいくつもあって、これがなかなか手間取った。


「萌香さん、見ていないで手伝って下さい」

「あ、はい」


 小箱の中には、ジェルネイルとトップコート、ベースコートにネイルリムーバー、ネイルグロウが入っていた。


「萌香さん、これはなにを塗れば良いんでしょうか?」

「説明書ってありますか?」

「よく分かりませんね」

「困りましたね」


 5本のガラス瓶をテーブルに並べ、化粧に疎い萌香と、化粧品に詳しくない芹屋隼人は首を傾げた。


「スモーキーローズって書いてありますね」


 萌香は白い箱の裏側を見て微笑んだ。


「萌香さんは色白ですから、この色を選びました」

「ありがとうございます」

「嘘です、実は少し悩みました」

「ふふ」


 萌香が、ジェルネイルの蓋を回すとフワリとアセトンの臭いが漂い、その臭さに2人は鼻を摘んで苦笑いした。


「私が塗っても宜しいですか?」


 興味津々といった様子の芹屋隼人が、手を挙げた。


「良いですけど、課長はご自身で塗られるんですか?」

「まさか」


 萌香は、芹屋隼人に言われるがままテーブルに手を広げた。芹屋隼人は、姫君に傅く従者の如く、1本、また1本と萌香の指先をローズ色に染めた。

「課長、器用ですね」

「初めてでドキドキしました」


 そして10本の薔薇が咲き誇った。


「綺麗、可愛い」


 芹屋隼人は、喜ぶ萌香に目を細めながら、ジェルネイルを白い小箱に片付けた。


「萌香さん」

「なんですか?」

「萌香さんに、キスしても良いですか?」

「嫌って言っても、これじゃ動けませんね」


 芹屋隼人の薄い唇がゆっくりと近付き、萌香の唇をゆっくりと啄んだ。それは、ジェルネイルが乾くまで、何度も何度も繰り返された。


「ふぅ」


 そして、萌香の張り詰めた緊張の糸が緩んだところで、芹屋隼人は契約結婚について言い及んだ。


「契約結婚の事なんですが」

「はい」


 芹屋隼人が真剣な面持ちになり、萌香は身構えた。


「この話は萌香さんにとって、損はありません」

「私にどんなメリットがあるんでしょう?課長にはそのメリットが分かるんですか?」

「分かります」

「分かるんですか」

「はい」


 緊張で喉の渇きを覚えた萌香は、もう一口ワインを流し込んだ。


「萌香さんのメリットは自由です。これまでの日常からの解放です」

「自由、解放、ですか?」

「萌香さんは、吉岡孝宏との別れを選びました」

「はい」

「ただ、自由を手に入れた萌香さんは不安定だと思います」

「不安定、ですか?」

「はい」


 芹屋隼人はソファから立ち上がると、萌香の隣に座った。


「同棲を解消したその先が見えない」

「・・・・・」

「私なら、そのスタートを切る土台を提供できます」

「それは契約結婚で?」

「はい、契約であっても結婚する事で、経済的にも精神的にも萌香さんを支える事が出来ます」


 その手は薔薇色の指先を力強く握った。


「課長は、なぜ私に契約結婚の話をしたんですか?」

「それは、あの夜の事もあります」


 萌香のワイングラスに赤い雫が落ち、Rencontreランコーントルの夜の記憶が蘇った。樽の香りがふわりと鼻先をくすぐる。蓄音器は、ジャズのブルームーンを静かに刻んでいた。バーカウンターは、不規則な赤褐色の色味と経年を感じさせるブラックチェリーの無垢材、ダウンライトに照らされた、芹屋隼人の横顔。


「あの夜の事は同意の上です」


 萌香は優しく微笑んだ。


「責任を取って欲しいとか考えていません」

「いえ、吉岡孝宏との暮らしぶりを聞いて、あなたを助けたいと思いました」

「助けたい、ですか」

「烏滸がましいかもしれませんが、契約結婚をする事で、同棲解消後の萌香さんを助けられるかもしれないと思いました」

「ありがとうございます」


 空になったワイングラスに、2人の姿が映った。そこで萌香は、芹屋隼人を見上げた。


「私のメリットは分かりました。じゃあ、課長のメリットはなんですか?」

「私のメリットですか?」

「はい!課長なら、契約結婚なんてしなくても、今すぐ結婚出来そうなのに、どうしてですか?」


 すると、芹屋隼人は、テーブルの上のワイングラスに視線を落とし、自嘲の笑みを浮かべ、髪を掻き上げた。


「課長?どうしたんですか?」


 芹屋隼人はワインの瓶を握り、ワイングラスを持ち、震える手でワインを注ぐとあっという間に飲み干した。その姿は、普段の威厳のある課長とはかけ離れ、幼稚で自暴自棄な気配すら感じた。


「課長!?ピッチが早すぎますよ!飲み過ぎですよ!」

「良いんです、萌香さんに格好いい事を言いながら、私は情けない男なんです」

「そんな事はないと思いますよ!ちょっと押し付けがましい所はありますが、落ち着いていて大人の男性って感じがします!」

「それは褒めているんですか?」

「ほっ、褒めているつもりです!」


 芹屋隼人は、酔いが回ったのか目が潤み、耳まで真っ赤になっていた。


「実は」

「実は?」

「実は、結婚式場まで予約して、招待状まで準備して、発送して」

「ええっ!?発送してどうしたんですか!」

「それが、婚約者が消えてしまいました」

「消えてしまった、とは」

「イギリスに旅行に行くと出て行ったきりです」


 萌香は、半分、目が閉じ掛かった芹屋隼人の肩を掴んでユサユサと前後に揺さぶった。


「事件ですか!事故ですか!?」

「いえ、2週間に1度、絵葉書が届きます」

「この時代に絵葉書!LIMEじゃないんですか!?」

「自分探しの旅なので、連絡はしたくない、と」

「なんですか!それ!」


 その婚約者は曽祖父同士が決めた相手で、元々、互いに結婚には前向きでは無かった。そんな2人の結婚式の日程が決まった途端、マリッジブルーに陥った芹屋隼人の婚約者は、忽然と姿を消してしまった。


「それで、婚約者がいないって言ったんですね」

「はい」

「それで、結婚式はいつなんですか?」

「今年の10月2日です」


 萌香は、指折り数えて仰天した。


「あと4ヶ月しかないじゃないですか!」

「そうなんで・・・す」


 すっかり酔いが回った芹屋隼人の瞼は閉じ始めた。萌香はその頬をペシペシと叩いて尋問を続けた。


「課長、その結婚、やめることは出来ないんですか?」

「出来ません」

「どうしてですか?お断りすれば良いじゃないですか?」

「無理なんです」

「なんで?」


 その答えに萌香は驚きが隠せなかった。確かに、芹屋隼人の父親は市役所職員で母親は保育士だったが、生家は芹屋コーポレーション、祖父は代表取締役社長、曽祖父は会長という役職に就いていた。


「課長、課長ってやっぱり普通じゃない人じゃないですか!」

「普通ですよ〜」

「起きて下さい!課長!課長!」

「普通の会社員ですよ〜」

「ああっ、寝ないで!ここで寝ないで下さい!」


 萌香と初めて出会ったあの日、芹屋隼人はRencontreランコーントルで婚約者に逃げられた憂さを晴らしていた。


「そうだったんですね、可哀想〜」

「可哀想〜」


 芹屋隼人が提案した契約結婚は、マリッジブルーの婚約者が日本に帰国するまでの、身代わり婚だった。萌香はワイングラスを握りながら、何かを決めた様な目で芹屋隼人を見た。



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