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第33話 オー・ソバージュ

 萌香は、180cm超えの芹屋隼人の脇に腕を差し込み、眉間にシワを寄せ、カーペットに跡を付けながらその身体を引き摺った。


(ちょ、もう!)


 それは、ベッドに運ぶまでかなりの時間を要した。熟睡した人間の身体の重い事と言ったら、米10kg幾つに相当するのだろう。萌香は額に汗をかき、なんとか羽毛布団の上に芹屋隼人を寝かせる事に成功した。


「や、ハァァ、重いんですよ!もう!」


 萌香は、ベッドの端に腰掛けて、顔を赤らめ寝息を立てている芹屋隼人を見下ろした。芹屋隼人は萌香が勤務する銀行の上司だが、実は、大手企業会長のひ孫で、由緒正しき家柄の出身だった。


(課長が、まさかの後継者だなんて)


 それだけでも十分、驚きの出来事なのだが、その芹屋隼人が、突然、萌香に契約結婚を迫って来た。


「契約結婚って、一体、いきなりなんなんですか!?」


 それは、『挙式を控えた婚約者が、姿をくらませてしまった』『立場上、結婚を取りやめる事は出来ない』という、重く暗い内情が絡み合い、芹屋隼人は酷く切羽詰まった顔をしていた。萌香は、気の毒になった。


「私たちの、契約期間は、いつまでですか?」

「彼女が戻って来るまでです」


 芹屋隼人と萌香の契約結婚の期間は、芹屋隼人の婚約者がイギリスから戻って来るまでのだと言った。


(私が、その婚約者さんの身代わりになるのか)


 また、芹屋隼人が萌香をの相手に選んだ理由はただひとつ。このホテルのこの部屋で、互いの肢体が蕩け合う、熱い一夜を共にした、萌香との衝撃の再会だった。


「もう2度と、萌香さんには会えないと思っていました」


 その再会に、運命というものを感じた芹屋隼人は、『心臓を鷲掴みにされるとは、まさにこの事だと思いました』と目を細めて微笑んだ。


(確かに、びっくりしたわ)


 そこで、萌香は、芹屋隼人と契約結婚を結んだ際の、自身のメリットを、指を折って数えてみた。


(利益、メリットね、メリット)


 萌香は、孝宏と暮らした3年間の同棲生活の解消を決意した。ただ、今更、実家に、『同棲失敗しましたー!』と大手を振って戻れる訳もなく、孝宏と別れた後の、経済的な負担と、精神的な不安は否めなかった。


「萌香さんの新しい生活の土台が確かなものになるまで、萌香さんを支えさせて下さい」


 芹屋隼人はそう言った。


(確かに、孝宏と別れた後の事は考えてなかったわー・・・・・)


 打算的だが、この契約結婚の申し出は魅力的だった。萌香は、寝息を立てるこの芹屋隼人に、人生を賭けてみようと決心した。



ピコン



 そこでショルダーバッグの中の携帯電話が、LIMEメッセージの着信を知らせた。萌香の面持ちは険しいものへと変わった。こんな深夜に連絡を寄越して来るのは、孝宏以外、考えられない。


(・・・孝宏)




おい


どうしたの 既読


山田んち泊まろうと思ったけど帰るわー


もうバスないよ 既読


タクシーで迎えに来てー


そんなにお金ないよ 既読


使えねー




 萌香は大きな溜め息を吐いた。高級ホテルで過ごした夜が、直視したくない現実に、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。萌香は首を垂れるとショルダーバッグを肩に掛けた。


(課長、おやすみなさい、また月曜日)


 萌香は目を細めると口元を綻ばせ、芹屋隼人に掛け布団を掛け、オー・ソバージュが香る、2710号室を後にした。


(・・・はぁ)


 萌香はホテルの車寄せに待機していたタクシーに乗ると、孝宏が酔い潰れているであろう、総務課の山田さんの自宅へと向かった。


(孝宏、私の事ATMかなにかだと、勘違いしてるんじゃない!?)


 そこで萌香の中で沸々と怒りが湧いて来た。後部座席の窓ガラスに映る面持ちは、惨めな程に歪んでいた。こんな同棲生活は1日でも早く解消したかった。


(ふぅ)


 ただ、萌香が突然『同棲を解消したい』と言った時、孝宏がどんな態度を取るのか予想も付かず、次の週末、萌香の幼馴染慎介の立ち合いのもと、話し合いを進めようと考えた。


(あ、そうだ、課長の香水の匂い)


 萌香は自身のシャツや髪に、芹屋隼人のオー・ソバージュの香りが残っているのではないかと不安になった。本来ならば、孝宏は山田さんの家に泊まると言っていた。そこで萌香は、ひと足さきにマンションへ帰り、シャワーを浴び、衣服を洗濯しようと考えていた。


(どうしよう、また喧嘩になるかも)


 芹屋隼人と初めて過ごした翌朝、萌香は彼が愛用しているパフュームの残り香を付けて帰宅した。そこへ、出勤している筈の孝宏がマンションに現れ、萌香が浮気をしているのではないかと疑った。


(また喧嘩になったら、面倒だな)


 街路樹が、1本、2本と流れて消える風景に、萌香は憂鬱になった。孝宏に対しての恋情は既に冷め切ってしまっていた。口論になったとして、それはもう面倒な事でしかない。今の萌香には、言い訳をする気も、謝罪する気も一切無かった。そんな思いを乗せながら、タクシーは目的地でエンジンを止めた。


「あ、ここで待っていてもらえますか?」

「はい、はいメーター倒しておきますね」

「ありがとうございます」


 なにか訳ありだと感じたのだろうか、タクシードライバーは料金メーターを止めて待っていてくれると言った。萌香は足早に柵を開け、表札を確認した。


山田


「山田さん、ここよね」


 萌香は戸惑いながらインターフォンを押し、家人が出て来るのを待った。玄関扉の向こうから、賑やかしい大勢の人の気配が伝わって来た。こんな深夜にも関わらず、隣近所の迷惑も顧みない酒宴なのだろう。


(類は友を呼ぶ、だわ)


 見知った顔が玄関先に現れた。総務課の山田さんだ。その背後には、泥酔した孝宏がシューズボックスに寄り掛かり、いびきをかいていた。そのだらしのない姿に呆れた萌香は、孝宏の肩を揺すぶって声を掛けた。


「孝宏!迎えに来たから!帰るよ!」

「ンァー、萌香だぁ」

「萌香だぁじゃないわよ!さぁ、靴履いて!」


 革靴を履く気もない孝宏は、萌香に足を差し出した。このとんでもないシンデレラに靴を履かせながら、『なんでこんな人と暮らしてたんだろう』と、萌香は無駄にした3年間を心から後悔した。


「ほら、乗って!」

「うるせえなー」

「迎えに来てって言ったじゃない!」


 萌香は、タクシードライバーからルームミラー越しに、『旦那さんは大虎ですね』と苦笑いされ、恥ずかしさと情けなさで、顔を赤らめた。


(ん、酒臭っ!)


 萌香は隣でイビキをかく孝宏のアルコール臭に顔を背けたが、これなら、芹屋隼人の残り香も誤魔化せるだろうと胸を撫で下ろした。


(え?)


 その時だった。


(これ、オー・ソバージュじゃない?)


 孝宏の耳の後ろ辺りから、芹屋隼人が使っているパフュームと同じ、オー・ソバージュの香りが匂い立っていた。気のせいかとも思い、鼻を近付けて嗅いでみたが、確かにオー・ソバージュだった。


(どうして孝宏が、課長と同じ香水を付けているの!?)


 数週間前、孝宏が芹屋隼人に『なんの香水を使っているのか』と尋ねていた。その時、萌香は、孝宏が『芹屋隼人が萌香の浮気の相手』だと疑っての行動だと思っていた。ところがそれは萌香の思い違いだった様だ。


(鯖の味噌煮の時と同じ?)


 孝宏は、鯖が苦手で一切、口にしない。ところが、社員食堂では、芹屋隼人が選んだ”鯖の味噌煮定食”を、注文し、隣の席に座って苦笑いをしながら無理矢理食べていた。そして今、芹屋隼人が使っているパフュームを選び身に付けている。


(そういえば髭も、剃ったのよね)


 孝宏はこの3年間、総務課の上司に呼び出されても剃らなかった髭を、芹屋隼人の何気ない一言で剃り落としている。


(これは一体、どういう事?)


 芹屋隼人は、孝宏が受講した新入社員研修のチームトレーナーだった。いくら世話になったとはいえ、6年前のチームトレーナーをそこまで慕うだろうか?


(なんだか、変)


 萌香の中に一滴、カシスのワインに似た、黒い雫が落ちた。

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