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第35話 Benvenuto

 Benvenutoベンベヌート いらっしゃいませ


 ここは先日、萌香の幼馴染の慎介が、孝宏の浮気調査で尾行し、辿り着いたイタリアンバルだ。石畳の路地裏に建つ白土の壁、葡萄棚には葉が生い茂り、深い紫の天鵞絨ビロードに包まれた、キャンベル・アーリーがたわわに実っている。数十分前、その慎介からLIMEメッセージが届いた。




萌香!


なに、今夜は付き合わないわよ 既読


いや まじやばいって ほんとやばいって


なにが 既読


Benvenutoベンベヌート ここに18:00な


なにここ 既読


イタリアンバル Googlerマップ送ったから 遅刻すんなよ


わかった 既読




 慎介から届いたLIMEメッセージからは、いつにない緊迫感を感じた。萌香は、制服から私服に着替える時間も惜しかったが、なにもかもお見通しの慎介から、『ちょっと高い店だから制服で来んなよ』と釘を刺された。


(なに、なに、なにがやばいの!?)


 萌香は、慌ててワンピースに着替えると、簡単にメイクを直してハイヒールに履き替えた。


「アッ!ごめんなさい!」


 人混みを掻き分けながら、萌香のハイヒールは用水路の柳並木を上流に向かって走った。とうとう、孝宏の浮気相手の素性が分かるのだと思うと、柳の枝が揺れるたびに、萌香の心も期待と不安で揺れた。


(あっ、ここ!)


 一旦、通り過ぎてしまったが、石畳の小径の奥に、白壁の店を見つけた。葡萄棚には葉が生い茂り、深い紫の葡萄がたわわに実っている。ダウンライトが照らす、店の一番奥の席に、慎介が座っていた。


(あれ、慎介、慎介だよね?)


 ショルダーバッグを片手に、肩で息をする萌香を見つけると、慎介は唇の前で指を1本立て、ちょいちょいと手招きをした。


(静かにしろって事ね)


 萌香はワンピースの裾を押さえ、白ワインで乾杯する客を避けながら、慎介が待つテーブル席へと向かった。


「いらっしゃいませ」

「アイスティーをお願いします」


 ホールスタッフが、レモングラスの緑が鮮やかなミネラルウォーターを、萌香の前に置いた。萌香は、額や首筋の汗をハンドタオルで拭うと、水滴の付いたグラスを握り、それを一気に飲み干した。冷たさが喉から胃に落ちてゆくのが分かった。そして萌香は、慎介に詰め寄った。


「慎介、なにが大変なの!?」


 慎介は萌香から目線を逸らしてなにかを言い淀んだ。萌香は慎介の腕を握ると激しく揺さぶった。


「なに、はっきり言ってよ!」

「萌香、よく聞けよ」


 萌香は緊張で唾を呑み込んだ。


「な、なに」

「あいつ、浮気してる」

「当たり前でしょ!だからあんたに調べて貰ってるんだから!」

「あ、そうだった」


 慎介はビジネスリュックを取り出すと、ジッパーをジジジジと開けた。あの中に、孝宏の秘密が詰まっていると思うと、萌香の呼吸は荒くなり、心臓はドクドクと跳ねた。


「萌香、あいつ出会い系してる」

「マッチングアプリでしょ?知ってる、孝宏から聞いた」

「知ってんのかよ」


 萌香は、今回もまた収穫なしか、と大きな溜め息を吐いた。そこで、慎介が萌香の顔を気の毒そうな面持ちで覗き込んだ。


「なによ、取っ替え引っ替え遊んでたんでしょ?」

「それなんだけど」

「なに、はっきり言いなさいよ」


 慎介は、一枚のクリアファイルを取り出した。中には、何枚もの写真らしき物が挟んであった。かなりの厚みがある。それだけで萌香は、眉間にシワを寄せた。


(こんな大勢の人と遊んでいたんだ)


 萌香は、受け取ったクリアファイルの重みに、目眩と吐き気を覚えた。震える指で写真を取り出してテーブルに並べた。それはダウンライトの下でも、鮮明に浮かび上がった。


「・・・・・え?」


 萌香には、意味が分からなかった。慎介の顔を見上げると、大きな溜め息を吐いて首を左右に振った。萌香は驚きの表情で、声を出すのを堪えて口を押さえた。


「嘘、嘘でしょ?」

「嘘じゃねぇ、ホテルに入って行く所も撮った」


 慎介は、何枚かの写真を萌香の前に、タロットカードの様に並べていった。孝宏の浮気相手の面差しは皆、異なり、全員が別人である事を示唆していた。


「これがホテル入っていったとこ」


 慎介は、繁華街の裏手にあるラブホテルの画像を取り出した。休憩4,500円、萌香は思わず目を背けた。孝宏が、給料の殆どを、この逢瀬に注ぎ込んでいたとすれば、それは最低最悪の裏切り行為だ。


「これが出て来たとこ、見ろ、これが本当の孝宏だよ」


 そこには、繁華街にある緑地公園の樹の陰で抱きしめ合い、激しく口付けている様子が写っていた。孝宏の手は、相手の臀部を撫で回している様にも見える。萌香は、後頭部を殴られた様なショックを受けた。


「みんな、男の人ばかりじゃない」

「そうだな、男だな」


 孝宏が、マッチングアプリで知り合った、相手は皆、だった。


「これって、もしかして」


 踵を返して振り向いた孝宏の面差しは生真面目な銀行員に戻り、ビジネスバッグを持ち、紺色のネクタイを締め直していた。


「これ、勤務時間内だよな」


 萌香はテーブルに肘を突くと、両手で顔を覆って項垂れた。


「気付かなかったのか」

「全然、気が付かなかった。女の人と浮気しているって思ってた」


 萌香は、あまりの衝撃に涙も出なかった。


「普通、そうだよな。こんな男とはもう別れろ」

「うん」

「信じらんねぇ。おまえがこんな目に遭うとかありえねぇだろ」

「信じらんないよね」


 慎介は、穢らわしいものを見る様な目で写真を摘み、萌香は、その様子を呆然と眺めていた。バルの賑わいが遠のく、頭の芯が痺れていた。


(こんな事ってある?)


 萌香は、オーダーしたアイスティーが、テーブルに届いていた事にようやく気が付いた。震える指先を片手で押さえ、ストローの封を開けようとしたが、それは上手く出来なかった。見るに見かねた慎介が、ストローの封を開け、アイスティーのグラスに差した。氷が揺れる音が響いた。


「男の人が好きなら、どうして私と付き合ったの?」

「わかんね」

「・・・・どうして?」


 もう一度、萌香が手に取った写真には、大学生らしい若い男性や、ネクタイを締めた同年代と思しきサラリーマン、ポロシャツを着た40代と思われる男性の姿が写っていた。


「孝宏が、この前のレストランで何度も出入りしていたのは、マッチングアプリの相手を探していたのかもしんねぇな」


 そこで、萌香の中でパズルのピースが嵌った。孝宏が身に付けて帰って来ていたホワイトムスクの柔軟剤、そのタオルを自然な動作で畳んでいた孝宏、お揃いの色の皿、それはまるで半同棲をしているカップルではなかったか?


「おい、どうしたんだよ」


 萌香はショルダーバッグから携帯電話を取り出すと、画像フォルダを開いた。それは、以前、慎介が別のイタリアンレストランで撮影した画像だった。萌香はその画面を必死に、下へ下へとスクロールした。


(やっぱり)


 そこには、優しい味のポトフを振る舞ってくれた男性の姿が写っていた。


(光希)


 ゆったりとしたフード付きの黒いカットソーに、黒いハーフパンツを履いた男性。手足はスラリと長く、髪は緩い癖毛で、ツーブロックの襟足は綺麗に整えられていた。名前は光希 誠みつきまこと、光希は萌香に『ごめん』と謝っていた。


(光希がやっぱりだったんだ)


 あの『ごめん』には、孝宏との半同棲生活を営んでいた事への謝罪が込められていたのかもしれない。然し乍ら、そんな、たった一言で全てを許せる訳がない。


(あんな平気な顔をして!馬鹿にしてる!)


 萌香は、孝宏や光希と一緒に、光希の部屋のテーブルを囲み、光希が作ったポトフを口にしていた。萌香はそのポトフの温かさに癒されたが、孝宏と光希にとって、それはどんな味がしたのだろう。


(酷い)


 萌香の中に、孝宏と光希への激しい怒りと憎しみが込み上げた。


「この写真、頂戴」

「え、良いけど。どうするんだよ」

「孝宏に叩き付けてやる」


 萌香は、写真を一纏めにすると、ショルダーバッグの中に仕舞い込んだ。そこで慎介の目が見開いた。


「も、萌香」

「なに?」


 萌香が背後を振り向くと、今まさに、カウンターチェアに腰掛けようとする、芹屋隼人と、満面の笑みの孝宏の横顔が見えた。

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