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第36話 後ろ姿

 慎介が指差した先には、芹屋隼人と孝宏の姿があった。カウンターチェアーに腰掛け、バーマンに話し掛けていた。孝宏の横顔は見えるが、背中を向けた芹屋隼人の表情は見えない。然し乍ら、孝宏の満面の笑みから察すると、2人は楽しげな雰囲気だ。


「・・・・!」


 思わず席から立ち上がった萌香の腕を、慎介が握り、無言で首を横に振った。


「・・・なに」

「今、行ってどうするんだよ、こんな場所で暴れんのか?」

「だって!許せない!」

「その気持ちはわかるけど、我慢しろ」


 そこで慎介が椅子から立ち上がった。


「なに、なにするの?」

「あいつらがなに話してんのか聞いて来る」

「盗み聞きって事?」

「たまたま、後ろのテーブルに座っていただけだ、おまえはここから動くなよ」


 萌香は頷き、ショルダーバッグの肩紐をきつく握り締めて目を閉じた。陽気な笑い声やお喋りの向こう側から微かに聞こえる、孝宏の低い声。思わず眉間にシワが寄り、立ち上がりその場で頬を叩きたい衝動に駆られた。


(我慢、我慢よ、我慢)


 孝宏の隣には、上司である芹屋隼人がいる。萌香にとっても、孝宏にとっても、この醜聞は決して知られてはならなかった。震える指先を抑えながら窺い見ると、慎介はバーカウンターから程近いテーブル席に座り、ウェイターにオーダーしているところだった。


「今日のお勧めはなにかな」


 芹屋隼人がバーマンに語りかけた。


「キャンティクラシコです」

「赤ワインか、吉岡くん、赤ワインは好きですか?」

「あ、はい!」


 芹屋隼人はワインに詳しいらしく、『キャンティクラシコはイタリアンワインの中でも舌触りが重くて渋みがあるんだよ』と説明し、孝宏はうんうんと頷いている。バーマンが肉料理はどうかと提案し、牛肉のタリアータが、ブラックチェリーの重厚なカウンターに運ばれて来た。


「美味しそうですね」

「美味しいよ、ワインと一緒に召し上がれ」

「いただきます!」


 白い皿に、細切りのミディアムレアの牛肉が並び、緑色が鮮やかなルッコラと、薄くスライスされたラディッシュが添えられ、バルサミコソースが味わいを深めていた。


(萌香の気も知らないで、最低だな)


 孝宏は、焼きたての牛肉をハフハフと頬張り、赤ワインを一気に飲み干した。慎介は、その楽し気な気配に憤りを感じ、その場で、孝宏の無自覚さに怒鳴り散らしたい衝動に駆られた。膝の上で拳を握りながら壁際を見遣ると、萌香が怒りと悲しみを押し殺して肩を震わせている。その辛さを慮った慎介はそれを耐えた。


「それで気になっている事があってね」


 芹屋隼人がワイングラスをカウンターに置いた。孝宏と、慎介の動きが止まった。孝宏は肉をゴクリと飲み込み、慎介は唾を呑み込んだ。


「なんでしょうか」


 勤務中の昼下がりの情事など、色々と思い当たる節があるのか、孝宏の声はやや上擦った。


「いや、プライベートな事で申し訳ないんだが、吉岡くんは、なぜ長谷川萌香さんの事を邪険にしたんだろうか?」

「邪険、ですか?」

「あぁ、簡単に言えば意地悪」

「そんな・・・意地悪だなんて、小学生みたいな事しませんよ」

「じゃあ、なんで無視したの?呼び方も敬語で、いつもとは違うね」


 孝宏は慌ててバーマンに追加のワインをオーダーした。揺れる深紅のワイングラスに孝宏の気不味そうな面立ちが映った。


「ちょっと喧嘩しただけです」

「あぁ、長谷川さんと一緒に暮らしているんでしたね」

「はい」

「でも、吉岡くんは、長谷川さんと結婚しないと言っていたね」

「・・・・はい」

「長谷川さん、驚いていたね」

「え?」

「彼女、吉岡くんと結婚するつもりだったんじゃないかな?」


 芹屋隼人は目を細め微笑み掛けた。孝宏はワインを一口飲むと、目線を落とした。


「それは、萌香が勝手に思っていただけです」

「3年も同棲していたのに、不憫だね」

「同棲していれば・・・お互いの悪い所も目に付きます」


 その非情とも言える言葉に、慎介は激しい怒りを覚えた。このまま振り向きざまに孝宏をカウンターチェアーから引き摺り下ろし、床に押し潰してやりたいと思った。そんな目の端に映る俯く萌香の背中に、慎介は大きく息を吸って深く吐いた。


(我慢しろ、我慢だ)


 隣の客の賑やかな笑い声、それを振り払う様に慎介は耳を澄ました。


「それだけなのかな」

「それだけ・・・どういう意味ですか?」


 芹屋隼人は深紅のワインを飲み干し、肩肘を突くと孝宏の強張った顔を覗き込んだ。


「気のせいだろうか?君は、長谷川さんに嫉妬しているんじゃないかな?」

「萌香に嫉妬?意味が分かりません」

「君がよく分かっていると思う」


 孝宏は目線を上げると芹屋隼人を凝視した。


「君は私の真似をしている」

「それ、は」

「苦手な魚を食べて、ネクタイの色も揃えた」

「・・・・」

「革靴やビジネスバッグも新調したね」

「・・・・」

「そのパルファムはディオールのオー・ソバージュだね」


 芹屋隼人が手を伸ばすと、孝宏は顔を赤らめて耳元を隠した。


「私と同じだ」

「・・・気分転換に、と思って」


 慎介は、この男性がなにを口にするかを察し、身構えた。芹屋隼人は髪を掻き上げると、椅子を回し、孝宏に向き直った。そして薄い唇から、衝撃的な言葉が転がり出た。


「君は、私の事が好きなんじゃないか?」

「は、はい。課長の事は上司として尊敬しています」

「もっと別な意味で」

「どういう・・・・意味ですか」

「そういう意味で」


 孝宏の顔色が変わった。


「そんな訳ないじゃないですか!」


 孝宏は感情の昂りが抑えられず、声を荒げ、視線を逸らした。


「君は、私の何気ない一言で、何年も剃らなかった髭を剃った。みんな驚いていたよ」

「・・・・・」

「それだけ私は、君に影響を及ぼす存在なんだね?」

「それ、は」


 慎介は孝宏への怒りと、芹屋隼人が発した言葉に混乱し、強く目を瞑った。


(こいつは、この男の事が好きなのか)


 萌香にこの事実をなんと伝えれば良いのだろう、絶望感が慎介を襲った。バルの賑やかな光景の中で、芹屋隼人と孝宏、慎介、そして萌香だけが別の次元にいる様だった。


「吉岡くんは、私と長谷川さんが親しげにしているから、彼女に嫉妬した」

「嫉妬なんかしていません」

「だから、無視した」

「・・・・・」


 芹屋隼人は、目を細めて微笑みながら、カウンターチェアーから降りた。財布を取り出し、バーマンにカードを手渡している。レシートが手渡され、それを一瞥すると孝宏の目の前でグシャッと丸めた。


「吉岡さん、私は、あなたの気持ちに応える事は出来ません」


 孝宏も慌ててカウンターチェアーから降りると、その面差しを見上げた。


「・・・・6年」

「なんですか?」

「芹屋さんを、忘れた事はありません」

「そうですか」


 芹屋隼人は目を細めると、優しく微笑んだ。


「6年前から、好きでした」

「ありがとう」

「好きなんです」

「応えられない、申し訳ありません」


 芹屋隼人は深々と頭を下げると、踵を返して店を出て行った。孝宏は呆然と立ち尽くし、慎介は芹屋隼人の背中を見送った。


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