暗がりに消えゆく芹屋隼人の後ろ姿を見送った孝宏は、カウンターチェアーにもう一度、腰掛けた。その椅子が軋む音は、孝宏の傷付いた心を表しているようだった。
「バリューボルドーを」
孝宏は、手軽な赤ワインをオーダーした。ブラックチェリーのカウンターに置かれたワイングラスの音は、芹屋隼人に告白してしまった己の軽率さと、彼の予想通りの反応に、落胆しているかのようだった。
(・・・・・)
慎介は、自分のテーブルと萌香がオーダーしたアイスティーの精算を済ませ、無言で立ち上がると、萌香が待つ壁際のテーブル席へと戻った。慎介が目の前に座ると、萌香はすがる様な眼差しでその顔を見た。
「なに、なんの話だった!?」
「仕事の話だよ」
「じゃあ、どうして課長がお辞儀なんかしたの!?」
「隣の客が煩くて聞こえなかったんだよ」
「嘘!」
萌香はテーブルで前のめりになった。
「・・・おまえに嘘吐いてどうすんだよ」
「・・・そっか」
萌香は、深い溜め息を吐き、背後の孝宏を窺った。孝宏の横顔は、気の毒になる程、暗く沈んでいた。そして萌香は、芹屋隼人の一件が落ち着いた事でやや平静を取り戻し、慎介へと向き直った。
「私、これからどうしたら良いと思う?」
「もう別れるんだろ」
「うん」
「決まってるんだろ」
萌香は力強く、大きく頷いた。
「決まってる、もう別れる」
「なら、その写真と一緒に、おまえの思ってる事を打ち任せ」
「・・・慎介」
「ただし、おまえんちでだぞ。こんなとこで泣き叫ぶなんて、ありえねぇからな!」
「分かった」
慎介は、テーブルに肘を突き、目を細めると萌香の鼻先を指で弾いた。
「痛っつ!なにすんのよ!」
「俺が見守ってやる」
「どういう意味よ」
「鍋や皿が飛ぶかもしれないからな」
「失礼な!」
「さぁ、孝宏に気付かれる前に退散だ」
萌香と慎介は葡萄棚の陰に身を潜めながら、ゆっくりと物音を立てずに大通りまで歩いた。アメリカ楓の大通りで、萌香は街を流すタクシーに手を伸ばし、勢いよく後部座席に乗り込んだ。
「
隣に座る慎介が何気に楽しそうで、萌香は苛っとしつつも、どこか安心した。
やがて、孝宏と萌香が住むマンションのエントランスで、タクシーはハザードランプを点滅させた。深夜料金の一歩手前、街灯に照らされる路肩はとても静かで、これからこの205号室で一悶着が起きるとは誰も思わないだろう。
「結構、いい部屋じゃん」
「家賃は私が払ってるんだけどね」
「マジ最低だな」
「本当にそう思うわ」
シリンダーキーを回すとふわりと香る、芹屋隼人のディオールのオー・ソバージュ。孝宏が、なぜこのパフュームを使い始めたのか、萌香は、理由が分からないままソファーに座っていた。
「慎介、あんた本気だったの?」
「俺はいつも本気」
ワイシャツの袖を捲った慎介は、キッチンの洗いカゴに立て掛けてあった平皿や鍋を棚に片付け始めた。
「本気すぎるでしょ」
その時、表で車が止まる音がした。軽い音で扉が開き、勢いよく閉まる。タクシーのドアの音だった。静けさの中、マンションの自動ドアが開く音、そして階段を上って来る革靴。萌香は唾を呑み込んだ。
ガチャ
その音に、萌香は目を閉じ、大きく息を吸った。
「ただいま、誰か来てるのか?」
「おかえりなさい、慎介が来てるの」
廊下を歩く力強い音、マンションの管理人から、深夜の足音がうるさいとクレームが来た事もあった。一緒に食べた朝食、ベッドで手を繋いで眠った夜、萌香の脳裏を、3年間の思い出が過ぎった。そして、リビングの扉が開いた。
「おかえり」
孝宏の顔は、ワインで赤らんでいた。この状態でまともな会話が成り立つかどうかは不確かだ。萌香は、第三者の慎介がいてくれて良かったと、心から思った。
「あー、誰だっけ?」
「慎介、私の幼馴染。紹介したよね」
孝宏は、眠い目を擦りながら首を傾げた。
「そうだっけ?」
「お邪魔してます」
「で、こんな時間に、幼馴染がなんで?」
慎介は腕組みをしながら、孝宏を睨み付けた。萌香は髪を掻き上げると、孝宏にソファに座るように促した。孝宏は面倒臭そうな面持ちでソファに寄り掛かると、ネクタイを緩めた。
「孝宏」
萌香は、膝の上に震える手を置き、大きく深呼吸をすると目を閉じた。
「なに、俺、シャワーしたいんだけど」
「孝宏」
「なんだよ」
「”男と男の約束”って、なに?」
ゆっくりと声を絞り出した。それは以前、萌香の目の前で、孝宏と光希が互いの連絡先を削除し、決別した時に孝宏が言った言葉だ。その時の萌香には、この意味が分からなかったが、今となっては確信に近いものがあった。それは”男と男の約束”ではなく、
「え。なにいきなり」
「これは、なに」
萌香はショルダーバッグの中から、写真の束を取り出すと、テーブルの上に並べていった。孝宏は、1枚、また1枚と積み上げられる、自身の裏切りを目にして表情は強張り、青ざめた。
「これは、これは・・・どこで」
そこで孝宏の視線は慎介に注がれた。
「おまえか!おまえが撮ったのか!」
「・・・・・」
慎介は一言も声を発さずに、取り乱した孝宏を見下ろした。
「孝宏!」
そこで萌香はテーブルを激しく叩き、孝宏の本性が顕になり、ハラハラと写真がリビングの床に舞い落ちた。孝宏は小さく息を吸い、肩を窄めると萌香に向き直った。萌香の目は、怒りとも悲しみとも取れない深い色をしていた。
「”男と男の約束”ってなに?」
「・・・・」
「黙っていちゃ分からないでしょ?」
孝宏は萌香から視線を逸らし、口をつぐんだ。
「・・・・」
「やっぱり光希さんが、孝宏の本命の相手だったのね!」
「それは・・・」
「孝宏!」
慎介の胸中は複雑だった。孝宏の本命の相手は、萌香の上司である芹屋隼人だった。しかも孝宏は、芹屋を6年もの間、恋焦がれ、その想いが報われぬ事を知ってマッチングアプリに手を出した。今、萌香に伝えるべきかどうか悩んだ。
(いや、やめておこう。萌香が傷付くだけだ)
孝宏が6年前から芹屋隼人を欲していたとすれば、萌香との同棲生活を始めた期間と重なった。慎介は、その件については触れないでおこうと考えた。
「光希さんとの約束ってなに?」
「それは、その」
「約束ってなに!」
萌香は眉間にシワを寄せ、孝宏に詰め寄った。孝宏はようやく観念したらしく両膝に握り拳を作って項垂れた。
「・・・・」
「聞こえない!」
「萌香に」
「私がなに!?」
萌香は、これまで冷静を保とうとしたが、ついにその糸も切れかけ、語尾に力が入った。孝宏ににじり寄り、その顔を覗き込んだ。
「萌香にバレたら別れようって、約束してた」
「約束してたんだ」
「・・・・・」
「じゃあ、バレなければ付き合ってたの!?」
「・・・・・」
「付き合ってたんだ!」
萌香は手元にあったクッションを掴むと振り上げ、孝宏に投げ付けた。次に、ボックスティッシュを手に持った瞬間、慎介に腕を掴まれた。
「やめろって」
「だって!」
「そんなもん投げても仕方ねぇだろ!」
「だって!」
「萌香、まだこいつに聞きてぇ事あるか?」
萌香の目頭は熱くなり、頬を悔し涙が伝った。萌香は、ボックスティッシュを手放しワンピースを握りしめた。孝宏は横を向き、萌香から目を逸らしていた。
「どうして私と付き合おうって言ったの!?」
「・・・・・」
「男の人が好きなんでしょ!?」
「出来ると思ったんだ」
「え?」
「
ようやく孝宏は顔を上げたが、その目は怯えていた。
「なにが!」
「おまえとなら、普通に暮らせると思ったんだ」
「どうして!」
「女っぽくなかったからだよ」
そこで萌香は、我が耳を疑うような言葉を聞いた。孝宏が萌香を同棲相手に選んだ理由は、萌香が男顔だった事、体型が痩せ型で中性的だった事、萌香の化粧を止めたのも、女性に見えるから嫌だったと言った。
「え、ちょっと待って」
萌香は戸惑った。それではこの3年間は、全て偽りの生活だったというのか。孝宏は謝罪の言葉もなく、下を向いて項垂れたままだ。
「テメェ、なに言ってんのか分かってるのかよ!」
慎介が我慢しきれず孝宏に飛び付き、ネクタイを締めあげた。孝宏は、息苦しさで眉間にシワを寄せ、顔を歪めた。もつれ合う2人の背中、萌香の目には、その光景がスローモーションのように映った。
「もう、いい」
「え?」
「慎介、もういいよ、もう、いい」
萌香は、力無く立ち上がった。そして、無言で寝室に向かい、スーツケースに数日分の着替えやメイク道具を詰め込み始めた。孝宏は彼女の動きに気付き、慌てて寝室へと駆け込んだ
「なにやってんだよ」
孝宏の問いかけに、意思のない人形の面差しの萌香は薄っすらと微笑んで、孝宏との3年間を置き去りにして、スーツケースの蓋を閉めた。
「あなたと暮らす意味が分からない」
「も、萌香」
「今までありがとう、さようなら」
ピチョン