慎介は萌香のスーツケースをタクシーのトランクから降ろすと、愛想の無い10階建てのホテルを見上げた。
「ここかよ」
慎介が、あちらこちらのホテルに問い合わせてみたが、週末はどこも満室で、ようやく、駅前のビジネスホテルに空室を見つけた。あれからの萌香は放心状態で、今もロビーのソファで項垂れている。
『さようなら』
孝宏のマンションから飛び出した萌香の為に、ホテルまでのタクシーの手配も、ホテルの予約も、ホテルのチェックインの手続きも、すべて慎介が行った。
「ほれ、部屋行くぞ」
「うん」
「立てるか?」
差し出された慎介の手のひらは温かく、それまで凍りついていた萌香の心をゆっくりと溶かした。慎介に支えられ、ソファーから立ち上がった萌香の面差しは緩み、涙が頬を伝った。
「ちょ、待て待て。ここで泣くなよ!」
「だって、出て来るんだもん、仕方ないじゃん」
「変な顔されるだろ!」
萌香が後ろを振り向くと、黒髪を後ろに撫で付けたホテルマンが、目を細めて愛想笑いをすると、気不味そうに視線をカウンターへと落とした。
「ごめん」
「分かったら、泣くな」
「うん」
萌香はハンドタオルを取り出した。孝宏と過ごした3年間が、こんな薄暗いホテルで終わるのかと思うと、悔しさや悲しみが込み上げ、目頭を押さえた。
「うっ」
「泣くなって」
それでもジワリと涙が滲み、本当に自分は孝宏に別れを告げたのだと実感した。
「お、ここだ」
「んっつ!」
「どうした」
慎介から禁煙室だと聞いていたにも関わらず、タバコ臭が壁やカーテンに染み付いている。
「タバコ臭い」
「ワガママ言うなよ」
「ここが私の仮の住まい、最悪だわ」
「月曜になったら、別のホテルに移動すりゃいいじゃん」
「そうだけど」
萌香は眉を顰め、実に不満げな顔をした。
「じゃあ、おじさんち帰るか?」
「やだっ!今更、実家に帰るなんてヤダ!」
萌香は駄々をこねる子どものように、『25歳にもなって、自宅暮らしなんて恥ずかしい!』と、言い張った。慎介は呆れてものも言えないと肩をすくめた。
「ああつ!あぁぁ!」
萌香はスーツケースの蓋を開け、素っ頓狂な声を上げた。
「うおっ!なんだよびっくりするじゃねぇか!」
テレビのリモコンを弄っていた慎介が、椅子から立ち上がり萌香を凝視した。萌香は困惑した面持ちで、慎介を見た。
「どうしたんだよ」
「ない」
「なにが」
「忘れた」
萌香は大きな溜め息を吐くと、ツインベッドに腰掛けた。
「健康保険証書、マイナンバーカード、その他もろもろ」
「そりゃそうだろ、おまえ、夜逃げ同然で出て来たんだからな」
「興奮してたから、忘れてた」
「孝宏を追い出しゃ良かったんだよ」
「そうね、そうよね、忘れてた」
頭に上っていた血が引いた萌香は、もう一度、溜め息を吐いた。
「秋冬物の洋服も欲しいしなぁ、靴も、アクセサリーも!ああもう!」
その傍で慎介が、テレビを点けると深夜ドラマが放映されていた。それは、夫の不倫を妻が暴いてゆくといったストーリーで、慎介は、慌ててテレビのチャンネルを変えた。
「・・・・」
番組は週間天気予報に切り替わったが、振り向くと、案の定、眉間にシワを寄せた萌香が唇をきつく噛んでいた。
「わ、悪ぃ!わざとじゃねーから!」
「わざとだったら殴るわよ!」
萌香はベッドに大の字になって寝転び、慎介はもう片方のベッドで横になった。肩肘を突いた慎介は、シェードランプに浮かび上がる萌香の横顔を眺めながら、静かな声で呟いた。
「おまえ、これからどーすんの」
「どうって」
「まず、引越しだな」
萌香は、天井に向かって両手を大きく広げ、指を一本、また一本と折り曲げていった。
「引っ越しの前に、住むところね」
「そうだな」
「敷金、礼金がないところがいいなぁ、それで2階以上、バストイレ別」
「そんでも、家賃3ヶ月分前払いとかじゃね?」
慎介は指を3本立て、萌香に突き付けた。
「そうだなぁ」
「おまえ、金あんの?」
「あぁ、貯金してたから300万円くらいはあるよ」
「でもそれ、結婚資金とかじゃねぇの?」
萌香は、眉間にシワを寄せて目を吊り上げると、枕を掴み慎介に投げ付けた。枕は慎介の頭上を掠って、床に落ちた。
「誰と誰が結婚すんのよ!」
「やべ、地雷踏んだ」
「私、誰と結婚すんのよー!」
萌香はベッドにうつ伏せになると、両脚をばたつかせた。
「まぁ、男は1人じゃないんだし、次、次!」
萌香は恨めしい目で、慎介を見上げた。
「この際、あんたでも良いわ」
「やめろよ、気色悪ぃ」
「そうよね」
それから2人は、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、『夜逃げに乾杯』と、一気に飲み干し、今後の計画を立てた。
「なによ、夜逃げに乾杯って」
「良いじゃん、それよりもこれからの事、考えようぜ」
「そうだね、そうしよう!」
長期間のホテル住まいは手痛い出費で、なにより窮屈だろうからと、来週は有給休暇を利用し、新しい住まいを探して引っ越しを済ませようという事になった。
「その日、俺も休むわ」
「なに、あんた。単に休みたいだけじゃないの?」
「そんな訳ねぇだろ、幼馴染みの一大事に、働いてなんかいられるかよ!」
「働きなさいよ」
「だって、休みてェし」
「ほら、やっぱり」
日付が変わり、慎介は、『ゆっくり休めよ』と言って帰って行った。
「はぁ」
萌香にとって、慎介の存在は有り難かった。
「・・・疲れた」
孝宏の性癖や、孝宏が萌香自身を隠れ蓑にしていた事が露呈した時、萌香1人では対処しきれなかっただろう。心は粉々に砕け散り、慎介が心配した様に、包丁を握っていたかもしれなかった。そう考えると、萌香の背筋はゾッとした。
(私も、見る目がなかったんだな)
そこである考えに辿り着いた。
(これから、孝宏の事をどんな目で見たらいいの?)
性の自由が叫ばれる中、萌香は、客観的に”男性を愛する男性”が存在する事を受け入れて来た。
(そう、そんな人もいる)
けれど、それが萌香の元同棲相手で、更に本命の男性がいるにも関わらず、マッチングアプリで知り合った男性と肉体関係を持つ同僚となると、冷めた目で見てしまうに違いない。
(どうしよう)
萌香と孝宏は、これからも同じ銀行で、同じ経理課の行員として働いてゆかなければならない。
(どうしよう、月曜日が怖いな)
そして月曜日、スーツケースを手に出勤した萌香は、ヒーローインタビューを受ける野球選手がの如く、ロッカールームで女性陣に取り囲まれた。
「なに、旅行にでも行ってたの?」
「いいえ、そんな訳ではないんですけど」
「なに、吉岡くんと、喧嘩でもしたの?」
「え」
孝宏の、萌香に対する態度の突然の変化に、他の行員たちも気付いていた。そして、彼女たちは、芹沢隼人と萌香の距離感にも敏感だった。
「芹沢課長と、なにかあったでしょう?」
「い、いいえ。そんな事は」
女性陣は萌香に詰め寄った。
「芹沢課長、蛍光ピンクの付箋、長谷川さんのデスクにペタペタ貼ってるし!」
「あれは、仕事の伝達事項で」
目利きの年配の行員が、腕組みをしながら声高々と畳み掛けた。
「お昼ご飯、いつも一緒に食べてるし!」
「あれは、たまたま偶然に」
「いいや、違うね!ピンクの付箋に予約席って書いてあるからね!」
「いえ、それも、たまたま」
女性陣は口を揃えて言い、年下の芹沢課長ファンは、口を尖らせて悔しがった。
「長谷川さん、三角関係でしょ!」
「え」
「絶対そうだよね!」
「えええ」
萌香の脳裏に、横柄な孝宏の面持ちと、にやけた芹沢隼人の面差しが渦を巻き、スーツケースを引き摺る手が震えた。