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第39話 社員食堂

 お客さま窓口の呼び出し音や、電話が鳴り響く忙しない営業課のフロアで、有給休暇届出用紙を手にした萌香は、視線を伏せて芹屋隼人のデスクの前に立った。


「課長、有給休暇を取得したいのですが宜しいでしょうか?」


 その声はおずおずと小さく、今にも消え入りそうだった。それもその筈、取得希望期間は、明後日の水曜日から翌週の水曜日までと長期間に亘る。芹屋隼人は、怪訝そうな面持ちで萌香を見上げると、課長の承認欄に、印鑑をギュッと捺した。


「長谷川さん」

「はい」


 芹屋隼人は、目を細め微笑み掛けた。


「長いお休みですね、ご旅行にでも行かれるんですか?」

「いえ、そういう訳ではありません」

「今朝、キャリーバッグを持って出勤されたとか」


 萌香は、唾を呑んだ。


「また、私の事を見ていたんですか?」

「いいえ、フロアの皆さんの中では、その話題で持ちきりですよ」

「そんな」


 萌香が周囲を見回すと、さっと視線をスチールデスクに落とす同僚や、目を細め和かに笑い掛けてみたものの、ぎこちなく書類を纏め始める行員の姿があった。ふと気が付くと、周囲の視線が萌香に集中していた。


「それには、ちょっと訳がありまして」

「あぁ、プライベートなお話はいつもの場所でしましょう」


 芹屋隼人はデスクに肩肘を突いて椅子を左右に振った。


「いつもの場所、とは?あそこですか?」

「予約、取っておきますよ」

「はぁ」

「では、書類、受け付けました。ご苦労様でした」

「よろしくお願い致します」


 萌香が、お客さま窓口に戻ると、隣の同僚が椅子をずらして近付いて来た。萌香には、嫌な予感しかなかった。


「長谷川さん、ねぇ、長谷川さん」


 その面差しは興味津々で、目が輝いている。萌香は、これからなにを尋ねられるのか、おおよその見当が付き、うんざりした。


「ねぇ、課長になんの用だったの?」

「あ、明後日から有給休暇取るの。ごめんね」

「いいの、いいの。それはお互い様って事で。で?課長となんの話してたの?」

「ん?有給休暇が長いねって」

「またまたぁ」


 同僚は肘で、萌香を突いた。


「や、本当だから」

「いつもの蛍光ピンクの付箋でしょ?」


 萌香は、心臓が跳ね上がる程に驚いた。同僚は含み笑いをして、萌香に耳打ちをした。


「ね。長谷川さん、課長と付き合ってるの?」

「や、そんな事は!」


 萌香が思わず立ち上がると、腰掛けていた椅子が背後のスチール棚にぶつかり、グワンと大きな音がフロアに響いた。


「アッ!ごめんなさい!」

「なに!?どうしたの!?」


 その大袈裟な音に行員たちは業務の手を止めたが、顔を赤らめ慌てる萌香を一瞥すると、デスクに視線を落とした。萌香は苦笑いで頭を下げながら制服の乱れを直し、大きく深呼吸をすると無言で伝票を確認し始めた。然し乍ら同僚は、矢継ぎ早で萌香に畳み掛けて来た。


「吉岡さんとは別れたの?」

「や、それは!」


 萌香は勢いよく立ち上がり、椅子が床に倒れた。その音はあまりにも大きく、待ち合いソファで順番レシートを握っていた客は驚き、フロアの行員も動きを止めた。


「長谷川さん」


 萌香が、あまりにも落ち着きが無いので、係長が眉間にシワを寄せ、その背後に立った。


「長谷川さん、落ち着きなさい!」

「申し訳ありません!」


 萌香は顔を赤らめ、周囲の行員に平謝りをした。


「ほら、そこ!」


 係長は、意味有りげな含み笑いをしている窓口スタッフを、叱責した。


「ほら、そこもお喋りしていないで!」

「はい!」

「お客さまの前ですよ!」

「はい!」


 萌香は大きく息を吸って深く吐くと、椅子の位置を元に戻して深く腰掛け、来客者の対応に当たった。


(萌香さんは、落ち着きがありませんねぇ)


 芹屋隼人は、萌香の慌てふためく後ろ姿に失笑し、蛍光ピンクの付箋をデスクの引き出しから取り出した。と、そこで動きが止まった。


(・・・吉岡くん、か)


 芹屋隼人は、吉岡孝宏から積年の想いを告げられた。然し乍ら、それは到底、受け入れられるものではなく、その告白を断った。以来、孝宏は外回り業務ばかりで、営業課フロアに寄り付かない。


(これは、どうしたものか)


 芹屋隼人は上司として、この問題に苦慮していた。




 昼休憩のチャイムが鳴った。




  萌香は、ふわふわの卵と甘辛いチャーシューが香たつチャーハンをトレーに乗せ、社員食堂の中を見回してみた。いつもの様に芹屋隼人の姿はなかったが、一番奥のテーブルに、蛍光ピンクの付箋が貼られていた。そこには予約席と書かれていた。


(また、ここかー・・・・)


 萌香が、隣のテーブルに座る女性行員に軽く会釈をすると、彼女たちは興味津津、目を爛々と輝かせて頷いた。


(課長、まさか噂を広める為に、ここで話をするつもり!?)


 萌香が、椅子に手を掛けたところで前の椅子が引かれ、芹屋隼人が静かに席に座った。


「お待たせしました」

「いえ、私も来たところです」


 手に持ったトレーには、熱々の湯気が上がるチャーハンが乗っていた。萌香は隣の野次馬たちに聞こえぬ様に、テーブルで前のめりになると、芹屋隼人に小声で耳打ちをした。


「私と同じメニューを注文されたんですね!また、見ていたんですか!」

「私はいつも、萌香さんを見ています」

「長谷川です!」


 芹屋隼人はそれには応えずスプーンを持つと、黙々とチャーハンを口に運び始めた。萌香もそれに倣い、スプーンで米粒をすくった。一口、二口、チャーハンを頬張った所で、大きく咽せた。


「吉岡孝宏さんと、別れたんですね」

「ンフッ!」


 萌香は、慌ててグラスを握ると、煽るように水を飲んだ。


「なっ、なにを!いきなり!」


 隣のテーブルを一瞥すると、皆、無言でラーメンを啜りながら、萌香と芹屋隼人の会話に側耳を立てている。


「可哀想に」

「なにがですか!?」

「スーツケースひとつで家から放り出されるなんて」

「違います!自分で出て来ました!」


 芹屋隼人は、スプーンをクルクルと回しながら、目を細め、肩をすくめた。


「ほら、やっぱり。別れたんですね」

「ーーーーーーーー!」


 萌香は顔を赤らめると、チャーハンを口にかき込み始めた。芹屋隼人は腕を組みながら、その姿を凝視した。


「1週間の有給休暇は、引っ越しですね?」

「違います!」

「お手伝いしましょうか?」

「ひとりで出来ます!」


 芹屋隼人は、スプーンをクルクルと回しながら、目を細めて微笑んだ。


「ほら、やっぱり。引っ越しですね」

「ーーーーーーーー!」

「こんなに急な引っ越しだなんて、どこに住むつもりですか?」

「とりあえず、アパートを探します!」


 芹屋隼人は、溜め息を吐いた。


「勿体無い」

「なにがですか?」

「一緒に暮らせば良いじゃないですか?」

「誰と誰がですか?」

「萌香さんと、私が」


 芹屋隼人は当然とばかりに、頷いた。


「どうしてそうなるんですか!?」

「なにを今更、私たち、こんやく」


 萌香は咄嗟に誤魔化した。


「こ、こんにゃく芋!」


 隣のテーブルの視線が、萌香と芹屋隼人に、集まった。


「こんにゃく!こんにゃく美味しいですよね!」

「萌香さん、なにを言っているんですか?」

「長谷川です!」

「どちらでも良いじゃ無いですか?」

「良くないです!」

「で?こんにゃく芋がどうしましたか?」

「こんにゃく芋の話は、会社ではしないで下さい!」


 芹屋隼人の眉間にシワが寄った。


「おめでたい話なのに」

「おめでたいのは、課長だけです!」


 萌香の眉間にもシワが寄り、その両手は握り拳を作ってテーブルを叩いた。その激しい音に行員たちは振り返り、楽しげな雰囲気に包まれていた社員食堂は、水を打った様に静まり返った。


「え、えと」

「あぁ、申し訳ない。水をこぼしてしまいました。気にしないで」


 芹屋隼人の機転により、その場は収まった。ところが案の定、隣のテーブルの女性行員たちに、「こんにゃく」は丸聞こえで、萌香と芹屋隼人が婚約したのではないかという噂は、あっという間に広まった。


「あれ?じゃあ、吉岡さんは?」


 そこで誰もが首を傾げたのは、萌香と同棲していた吉岡孝宏の存在だった。


「最近、吉岡さん見た?」

「外回りばかりじゃない?」

「やっぱり長谷川さんと顔を合わせ辛いとか」

「そうだよね」


 確かに孝宏は、萌香と顔を合わせ辛かった。それは単なる、同棲生活を解消しただけではなく、自身がバイセクシャルである事が、萌香に詳らかになったのもその一因だ。


「あ、辞令出てるぞ」

「富山支店か、近いようで遠いよなぁ」


 そして1枚の辞令が掲示板に貼り出された。

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