お客さま窓口の呼び出し音や、電話が鳴り響く忙しない営業課のフロアで、有給休暇届出用紙を手にした萌香は、視線を伏せて芹屋隼人のデスクの前に立った。
「課長、有給休暇を取得したいのですが宜しいでしょうか?」
その声はおずおずと小さく、今にも消え入りそうだった。それもその筈、取得希望期間は、明後日の水曜日から翌週の水曜日までと長期間に亘る。芹屋隼人は、怪訝そうな面持ちで萌香を見上げると、課長の承認欄に、印鑑をギュッと捺した。
「長谷川さん」
「はい」
芹屋隼人は、目を細め微笑み掛けた。
「長いお休みですね、ご旅行にでも行かれるんですか?」
「いえ、そういう訳ではありません」
「今朝、キャリーバッグを持って出勤されたとか」
萌香は、唾を呑んだ。
「また、私の事を見ていたんですか?」
「いいえ、フロアの皆さんの中では、その話題で持ちきりですよ」
「そんな」
萌香が周囲を見回すと、さっと視線をスチールデスクに落とす同僚や、目を細め和かに笑い掛けてみたものの、ぎこちなく書類を纏め始める行員の姿があった。ふと気が付くと、周囲の視線が萌香に集中していた。
「それには、ちょっと訳がありまして」
「あぁ、プライベートなお話はいつもの場所でしましょう」
芹屋隼人はデスクに肩肘を突いて椅子を左右に振った。
「いつもの場所、とは?あそこですか?」
「予約、取っておきますよ」
「はぁ」
「では、書類、受け付けました。ご苦労様でした」
「よろしくお願い致します」
萌香が、お客さま窓口に戻ると、隣の同僚が椅子をずらして近付いて来た。萌香には、嫌な予感しかなかった。
「長谷川さん、ねぇ、長谷川さん」
その面差しは興味津々で、目が輝いている。萌香は、これからなにを尋ねられるのか、おおよその見当が付き、うんざりした。
「ねぇ、課長になんの用だったの?」
「あ、明後日から有給休暇取るの。ごめんね」
「いいの、いいの。それはお互い様って事で。で?課長となんの話してたの?」
「ん?有給休暇が長いねって」
「またまたぁ」
同僚は肘で、萌香を突いた。
「や、本当だから」
「いつもの蛍光ピンクの付箋でしょ?」
萌香は、心臓が跳ね上がる程に驚いた。同僚は含み笑いをして、萌香に耳打ちをした。
「ね。長谷川さん、課長と付き合ってるの?」
「や、そんな事は!」
萌香が思わず立ち上がると、腰掛けていた椅子が背後のスチール棚にぶつかり、グワンと大きな音がフロアに響いた。
「アッ!ごめんなさい!」
「なに!?どうしたの!?」
その大袈裟な音に行員たちは業務の手を止めたが、顔を赤らめ慌てる萌香を一瞥すると、デスクに視線を落とした。萌香は苦笑いで頭を下げながら制服の乱れを直し、大きく深呼吸をすると無言で伝票を確認し始めた。然し乍ら同僚は、矢継ぎ早で萌香に畳み掛けて来た。
「吉岡さんとは別れたの?」
「や、それは!」
萌香は勢いよく立ち上がり、椅子が床に倒れた。その音はあまりにも大きく、待ち合いソファで順番レシートを握っていた客は驚き、フロアの行員も動きを止めた。
「長谷川さん」
萌香が、あまりにも落ち着きが無いので、係長が眉間にシワを寄せ、その背後に立った。
「長谷川さん、落ち着きなさい!」
「申し訳ありません!」
萌香は顔を赤らめ、周囲の行員に平謝りをした。
「ほら、そこ!」
係長は、意味有りげな含み笑いをしている窓口スタッフを、叱責した。
「ほら、そこもお喋りしていないで!」
「はい!」
「お客さまの前ですよ!」
「はい!」
萌香は大きく息を吸って深く吐くと、椅子の位置を元に戻して深く腰掛け、来客者の対応に当たった。
(萌香さんは、落ち着きがありませんねぇ)
芹屋隼人は、萌香の慌てふためく後ろ姿に失笑し、蛍光ピンクの付箋をデスクの引き出しから取り出した。と、そこで動きが止まった。
(・・・吉岡くん、か)
芹屋隼人は、吉岡孝宏から積年の想いを告げられた。然し乍ら、それは到底、受け入れられるものではなく、その告白を断った。以来、孝宏は外回り業務ばかりで、営業課フロアに寄り付かない。
(これは、どうしたものか)
芹屋隼人は上司として、この問題に苦慮していた。
昼休憩のチャイムが鳴った。
萌香は、ふわふわの卵と甘辛いチャーシューが香たつチャーハンをトレーに乗せ、社員食堂の中を見回してみた。いつもの様に芹屋隼人の姿はなかったが、一番奥のテーブルに、蛍光ピンクの付箋が貼られていた。そこには予約席と書かれていた。
(また、ここかー・・・・)
萌香が、隣のテーブルに座る女性行員に軽く会釈をすると、彼女たちは興味津津、目を爛々と輝かせて頷いた。
(課長、まさか噂を広める為に、ここで話をするつもり!?)
萌香が、椅子に手を掛けたところで前の椅子が引かれ、芹屋隼人が静かに席に座った。
「お待たせしました」
「いえ、私も来たところです」
手に持ったトレーには、熱々の湯気が上がるチャーハンが乗っていた。萌香は隣の野次馬たちに聞こえぬ様に、テーブルで前のめりになると、芹屋隼人に小声で耳打ちをした。
「私と同じメニューを注文されたんですね!また、見ていたんですか!」
「私はいつも、萌香さんを見ています」
「長谷川です!」
芹屋隼人はそれには応えずスプーンを持つと、黙々とチャーハンを口に運び始めた。萌香もそれに倣い、スプーンで米粒をすくった。一口、二口、チャーハンを頬張った所で、大きく咽せた。
「吉岡孝宏さんと、別れたんですね」
「ンフッ!」
萌香は、慌ててグラスを握ると、煽るように水を飲んだ。
「なっ、なにを!いきなり!」
隣のテーブルを一瞥すると、皆、無言でラーメンを啜りながら、萌香と芹屋隼人の会話に側耳を立てている。
「可哀想に」
「なにがですか!?」
「スーツケースひとつで家から放り出されるなんて」
「違います!自分で出て来ました!」
芹屋隼人は、スプーンをクルクルと回しながら、目を細め、肩をすくめた。
「ほら、やっぱり。別れたんですね」
「ーーーーーーーー!」
萌香は顔を赤らめると、チャーハンを口にかき込み始めた。芹屋隼人は腕を組みながら、その姿を凝視した。
「1週間の有給休暇は、引っ越しですね?」
「違います!」
「お手伝いしましょうか?」
「ひとりで出来ます!」
芹屋隼人は、スプーンをクルクルと回しながら、目を細めて微笑んだ。
「ほら、やっぱり。引っ越しですね」
「ーーーーーーーー!」
「こんなに急な引っ越しだなんて、どこに住むつもりですか?」
「とりあえず、アパートを探します!」
芹屋隼人は、溜め息を吐いた。
「勿体無い」
「なにがですか?」
「一緒に暮らせば良いじゃないですか?」
「誰と誰がですか?」
「萌香さんと、私が」
芹屋隼人は当然とばかりに、頷いた。
「どうしてそうなるんですか!?」
「なにを今更、私たち、こんやく」
萌香は咄嗟に誤魔化した。
「こ、こんにゃく芋!」
隣のテーブルの視線が、萌香と芹屋隼人に、集まった。
「こんにゃく!こんにゃく美味しいですよね!」
「萌香さん、なにを言っているんですか?」
「長谷川です!」
「どちらでも良いじゃ無いですか?」
「良くないです!」
「で?こんにゃく芋がどうしましたか?」
「こんにゃく芋の話は、会社ではしないで下さい!」
芹屋隼人の眉間にシワが寄った。
「おめでたい話なのに」
「おめでたいのは、課長だけです!」
萌香の眉間にもシワが寄り、その両手は握り拳を作ってテーブルを叩いた。その激しい音に行員たちは振り返り、楽しげな雰囲気に包まれていた社員食堂は、水を打った様に静まり返った。
「え、えと」
「あぁ、申し訳ない。水をこぼしてしまいました。気にしないで」
芹屋隼人の機転により、その場は収まった。ところが案の定、隣のテーブルの女性行員たちに、「こんにゃく」は丸聞こえで、萌香と芹屋隼人が婚約したのではないかという噂は、あっという間に広まった。
「あれ?じゃあ、吉岡さんは?」
そこで誰もが首を傾げたのは、萌香と同棲していた吉岡孝宏の存在だった。
「最近、吉岡さん見た?」
「外回りばかりじゃない?」
「やっぱり長谷川さんと顔を合わせ辛いとか」
「そうだよね」
確かに孝宏は、萌香と顔を合わせ辛かった。それは単なる、同棲生活を解消しただけではなく、自身がバイセクシャルである事が、萌香に詳らかになったのもその一因だ。
「あ、辞令出てるぞ」
「富山支店か、近いようで遠いよなぁ」
そして1枚の辞令が掲示板に貼り出された。