萌香が案内されたのは、一番奥の窓際の席だった。窓の向こうでは信号機が赤色になり、車のテールランプがどこまでも続いていた。そこには、気不味そうな面持ちの孝宏が、小さく手を振っていた。そして、萌香の女性らしい華やかな出立ちを見ると、眉間にシワを寄せ、明らかに不機嫌そうな顔をした。
「なんだよ、俺への当て付けかよ」
「似合うでしょ?」
萌香は、メニュー表を持つと、ウェイターにアイスティーをオーダーした。孝宏はローズ色のジェルネイルで色付いた爪の動きから目を逸らし、萌香は内心ほくそ笑んだ。
「それで、話ってなに?」
「おまえ、出て行くのか?」
「当たり前じゃない、同棲解消、別れた2人が一緒に暮らす意味なんてある?」
「・・・そうだな」
萌香は、艶めく爪先でストローの封を開けると、グラスに差した。無機質な氷の音は、2人の冷え切った距離を感じさせた。孝宏の視線は、テーブルの冷めたコーヒーカップに落とされたままだ。
「生活費の事なんだけど」
「今月分からの家賃は自分で払ってね」
「お、おう」
孝宏は、これまで生活費の殆どを、萌香に賄わせていた。これからは全て自分で行わなければならない。
「光熱費は、銀行口座の引き落としだから、ちゃんと契約しなさいよ」
「おう」
「私の口座は解約するから」
「分かった」
萌香はグラスを持つと、アイスティーを一口飲んだ。
「話はそれだけ?」
「芹屋さんなんだけど」
「課長?」
それまで下を俯いていた孝宏だったが、芹屋隼人の名前を口にするなり、顔を上げ、萌香を凝視した。その面持ちからは、切羽詰まったものを感じた。
「芹屋さん、なんか言ってなかったか!?」
「なんかって、なによ」
「なにも、聞いてない・・・のか?」
孝宏は、萌香が芹屋隼人から、なにも聞いていない事を確認すると、安堵の溜め息を吐いた。
(なんの事?なにが言いたいの?)
萌香はその表情の変化に不可思議なものを感じ、胸が騒ついた。
(あ、そうだ)
そこで萌香は、人事課に貼り出されていた辞令を思い出し、孝宏の突然の人事異動について尋ねた。
「富山支店への辞令って、なに?」
フロアには心地よいラウンジミュージックが流れ、注文のチャイムがウェイターを呼び出した。賑やかな笑い声やカトラリーが皿に触れる音が響いている。
「え?」
それら全てが消え、時間が止まったような気がした。萌香は一瞬息を呑んだ。
「自分で?」
萌香は首を傾げながら、驚きの表情で孝宏の顔を覗き込んだ。孝宏は目を伏せ、なにも言わず、無言で頷いた。
「自分で富山支店に異動したいって言ったの!?」
「おう」
「いつから?いつ決めたの?」
「・・・・・昨日、月曜に言った」
「月曜日!?突然すぎるでしょ!」
孝宏は冷めたコーヒーを飲み干すと、席を立ち、ドリンクバーへと向かった。萌香はその背中を目で追い、孝宏の思い付きとも言える衝動的な行為に怪訝な顔をした。
(・・・もしかして)
萌香は、孝宏がバイセクシャルである事を知る、数限られた人物だ。
(多分、そうだ)
孝宏は、注ぎすぎたコーヒーのカップを手に、覚束ない足取りでテーブルに戻って来た。手持ち無沙汰なのか、普段は使わないスティックシュガーの封を切り、サラサラとカップに注いでいる。
「私が誰かに言うとでも思ってたの?」
孝宏のコーヒースプーンは動揺し、テーブルに茶色い水溜りを作った。孝宏は視線を逸らし、その指先は小刻みに震えていた。
「そ、れは」
「あんたの趣味なんて、興味ない」
「萌香」
「私が誰かに言うと思って、富山支店に行こうと思ったの?」
「・・・・・」
「単純ね」
孝宏はテーブルに視線を落とし、肩を震わせた。萌香は、小さく身体を縮こめた孝宏の姿に、情けなさすら感じた。
「逃げたのね」
「逃げてなんかいねぇよ」
「怖かったんじゃないの?」
「・・・・・・」
「私があんたの事を、誰かに言うんじゃないかと思って、怖かったんでしょ?」
孝宏の両手は握り拳を作り、膝の上で小刻みに震えた。そして、目をきつく瞑ると、小さく頷いた。
「・・・・・」
萌香は大きな溜め息を吐き、アイスティーを一口飲んだ。時間が経ったアイスティーは温く味がしなかった。
「言わないわ、約束する」
孝宏は顔を上げ、萌香を凝視した。
「言わないわ」
「さんきゅ」
「その代わり、あんたもバレない様にしてよね」
萌香は孝宏の顔を、ローズ色の爪先で指差した。
「え?」
「元同棲相手が、とか最悪だから」
「お、おう」
孝宏はぶっきらぼうに返事をすると、甘ったるいコーヒーを口にした。それは孝宏の味覚には合わなかったらしく、眉間にシワを寄せていた。
「・・・・・」
萌香はグラスを持ったまま、視線を逸らした。それにしても、萌香には気になる事があった。
(孝宏と、課長・・・)
あの夜、イタリアンバルで、孝宏が芹屋隼人となにを話していたのか、なぜ課長が部下に対して、深々とお辞儀をして店を出て行ったのか、萌香には、それが理解出来なかった。
「課長と、なにを話してたの?」
「なんだよ、いつ」
「
孝宏の顔色が変わり、すぅと息が止まった。嘘を吐く時の仕草だ。
「おまえもいたのか?」
「慎介に誘われて飲んでたの、気付かなかった?」
「気付かなかった」
「課長と、なにを話していたの?」
孝宏の肩が、ビクッと動いた。
「仕事の話だよ」
「なんの仕事?」
「契約が取れなくて、相談に乗って貰ってた」
萌香は、生温いアイスティーを一気に啜り上げた。孝宏の目は忙しなく動き、なにか言い訳を探そうとしているようだった。
「でも、どうして課長があんたにお辞儀をしたの?おかしくない?」
「それは、ちょっと言えない」
「そっか、言えないか」
「言えない」
萌香はテーブルに肘を突き、和かに食事を楽しむ大勢の客を見回した。そして、孝宏を一瞥した。
「秘密、あるのかな?」
「え!?」
「ここにいる人たちにも、誰にも言えない秘密があるのかな」
孝宏は、もう残り少ないコーヒーをスプーンでかき混ぜ始めた。
「し、しらねぇよ」
「私にも秘密が出来たもんね」
「なんの秘密だよ」
「あんたが、って事よ」
萌香が、ドリンクバーへ行こうとグラスを持って立ち上がった時、孝宏は、その面差しを見上げて呟いた。
「美味くないんだ」
「そのコーヒーが?」
「豚の生姜焼き、食堂で食っても美味くないんだ」
「生姜焼き?」
「おまえの作った味と、全然違うんだ」
萌香は、グラスをテーブルに静かに置くと、ショルダーバッグを肩に掛けた。
「当たり前でしょ。あんたの為に作ってたからね」
「・・・・萌香」
「愛情ってやつよ」
孝宏は黙り込み、今にも泣き出しそうな顔をした。
「孝宏、なにか言うことはある?」
「・・・・・」
萌香は踵を返して店を出た。結局、孝宏から、謝罪の言葉は一言もなかった。萌香はショルダーバッグの肩紐を握り締めると、後ろを振り返る事なくタクシーに手を上げた。
「お客さん、どこまで?」
「
萌香は一瞬立ち止まり、意を決したようにタクシーの後部座席に乗り込んだ。