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第42話 ファミリーレストラン

 萌香が案内されたのは、一番奥の窓際の席だった。窓の向こうでは信号機が赤色になり、車のテールランプがどこまでも続いていた。そこには、気不味そうな面持ちの孝宏が、小さく手を振っていた。そして、萌香の女性らしい華やかな出立ちを見ると、眉間にシワを寄せ、明らかに不機嫌そうな顔をした。


「なんだよ、俺への当て付けかよ」

「似合うでしょ?」


 萌香は、メニュー表を持つと、ウェイターにアイスティーをオーダーした。孝宏はローズ色のジェルネイルで色付いた爪の動きから目を逸らし、萌香は内心ほくそ笑んだ。


「それで、話ってなに?」

「おまえ、出て行くのか?」

「当たり前じゃない、同棲解消、別れた2人が一緒に暮らす意味なんてある?」

「・・・そうだな」


 萌香は、艶めく爪先でストローの封を開けると、グラスに差した。無機質な氷の音は、2人の冷え切った距離を感じさせた。孝宏の視線は、テーブルの冷めたコーヒーカップに落とされたままだ。


「生活費の事なんだけど」

「今月分からの家賃は自分で払ってね」

「お、おう」


 孝宏は、これまで生活費の殆どを、萌香に賄わせていた。これからは全て自分で行わなければならない。


「光熱費は、銀行口座の引き落としだから、ちゃんと契約しなさいよ」

「おう」

「私の口座は解約するから」

「分かった」


 萌香はグラスを持つと、アイスティーを一口飲んだ。


「話はそれだけ?」

「芹屋さんなんだけど」

「課長?」


 それまで下を俯いていた孝宏だったが、芹屋隼人の名前を口にするなり、顔を上げ、萌香を凝視した。その面持ちからは、切羽詰まったものを感じた。


「芹屋さん、なんか言ってなかったか!?」

「なんかって、なによ」

「なにも、聞いてない・・・のか?」


 孝宏は、萌香が芹屋隼人から、なにも聞いていない事を確認すると、安堵の溜め息を吐いた。


(なんの事?なにが言いたいの?)


 萌香はその表情の変化に不可思議なものを感じ、胸が騒ついた。


(あ、そうだ)


 そこで萌香は、人事課に貼り出されていた辞令を思い出し、孝宏の突然の人事異動について尋ねた。


「富山支店への辞令って、なに?」


 フロアには心地よいラウンジミュージックが流れ、注文のチャイムがウェイターを呼び出した。賑やかな笑い声やカトラリーが皿に触れる音が響いている。


「え?」


 それら全てが消え、時間が止まったような気がした。萌香は一瞬息を呑んだ。


「自分で?」


 萌香は首を傾げながら、驚きの表情で孝宏の顔を覗き込んだ。孝宏は目を伏せ、なにも言わず、無言で頷いた。


「自分で富山支店に異動したいって言ったの!?」

「おう」

「いつから?いつ決めたの?」

「・・・・・昨日、月曜に言った」

「月曜日!?突然すぎるでしょ!」


 孝宏は冷めたコーヒーを飲み干すと、席を立ち、ドリンクバーへと向かった。萌香はその背中を目で追い、孝宏の思い付きとも言える衝動的な行為に怪訝な顔をした。


(・・・もしかして)


 萌香は、孝宏がバイセクシャルである事を知る、数限られた人物だ。


(多分、そうだ)


 孝宏は、注ぎすぎたコーヒーのカップを手に、覚束ない足取りでテーブルに戻って来た。手持ち無沙汰なのか、普段は使わないスティックシュガーの封を切り、サラサラとカップに注いでいる。


「私が誰かに言うとでも思ってたの?」


 孝宏のコーヒースプーンは動揺し、テーブルに茶色い水溜りを作った。孝宏は視線を逸らし、その指先は小刻みに震えていた。


「そ、れは」

「あんたの趣味なんて、興味ない」

「萌香」

「私が誰かに言うと思って、富山支店に行こうと思ったの?」

「・・・・・」

「単純ね」


 孝宏はテーブルに視線を落とし、肩を震わせた。萌香は、小さく身体を縮こめた孝宏の姿に、情けなさすら感じた。


「逃げたのね」

「逃げてなんかいねぇよ」

「怖かったんじゃないの?」

「・・・・・・」

「私があんたの事を、誰かに言うんじゃないかと思って、怖かったんでしょ?」


 孝宏の両手は握り拳を作り、膝の上で小刻みに震えた。そして、目をきつく瞑ると、小さく頷いた。


「・・・・・」


 萌香は大きな溜め息を吐き、アイスティーを一口飲んだ。時間が経ったアイスティーは温く味がしなかった。


「言わないわ、約束する」


 孝宏は顔を上げ、萌香を凝視した。


「言わないわ」

「さんきゅ」

「その代わり、あんたもバレない様にしてよね」


 萌香は孝宏の顔を、ローズ色の爪先で指差した。


「え?」

「元同棲相手が、とか最悪だから」

「お、おう」


 孝宏はぶっきらぼうに返事をすると、甘ったるいコーヒーを口にした。それは孝宏の味覚には合わなかったらしく、眉間にシワを寄せていた。


「・・・・・」


 萌香はグラスを持ったまま、視線を逸らした。それにしても、萌香には気になる事があった。


(孝宏と、課長・・・)


 あの夜、イタリアンバルで、孝宏が芹屋隼人となにを話していたのか、なぜ課長が部下に対して、深々とお辞儀をして店を出て行ったのか、萌香には、それが理解出来なかった。


「課長と、なにを話してたの?」

「なんだよ、いつ」

Benvenutoベンベヌートってイタリアンバルのカウンターで」


 孝宏の顔色が変わり、すぅと息が止まった。嘘を吐く時の仕草だ。


「おまえもいたのか?」

「慎介に誘われて飲んでたの、気付かなかった?」

「気付かなかった」

「課長と、なにを話していたの?」


 孝宏の肩が、ビクッと動いた。


「仕事の話だよ」

「なんの仕事?」

「契約が取れなくて、相談に乗って貰ってた」


 萌香は、生温いアイスティーを一気に啜り上げた。孝宏の目は忙しなく動き、なにか言い訳を探そうとしているようだった。


「でも、どうして課長があんたにお辞儀をしたの?おかしくない?」

「それは、ちょっと言えない」

「そっか、言えないか」

「言えない」


 萌香はテーブルに肘を突き、和かに食事を楽しむ大勢の客を見回した。そして、孝宏を一瞥した。


「秘密、あるのかな?」

「え!?」

「ここにいる人たちにも、誰にも言えない秘密があるのかな」


 孝宏は、もう残り少ないコーヒーをスプーンでかき混ぜ始めた。


「し、しらねぇよ」

「私にも秘密が出来たもんね」

「なんの秘密だよ」

「あんたが、って事よ」


 萌香が、ドリンクバーへ行こうとグラスを持って立ち上がった時、孝宏は、その面差しを見上げて呟いた。


「美味くないんだ」

「そのコーヒーが?」

「豚の生姜焼き、食堂で食っても美味くないんだ」

「生姜焼き?」

「おまえの作った味と、全然違うんだ」


 萌香は、グラスをテーブルに静かに置くと、ショルダーバッグを肩に掛けた。


「当たり前でしょ。あんたの為に作ってたからね」

「・・・・萌香」

「愛情ってやつよ」


 孝宏は黙り込み、今にも泣き出しそうな顔をした。


「孝宏、なにか言うことはある?」

「・・・・・」


 萌香は踵を返して店を出た。結局、孝宏から、謝罪の言葉は一言もなかった。萌香はショルダーバッグの肩紐を握り締めると、後ろを振り返る事なくタクシーに手を上げた。


「お客さん、どこまで?」

香林坊こうりんぼうまでお願いします」


 萌香は一瞬立ち止まり、意を決したようにタクシーの後部座席に乗り込んだ。


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