萌香は、今夜の宿として、銀行の並びにあるシティホテルに予約を入れた。それは先日の、薄暗くタバコ臭いビジネスホテルとは比べ物にならなかった。白い壁に明るい館内、客室まで続く廊下のカーペットにはシミひとつなく、清潔で洗練されたものだった。それは、孝宏と会う気の重さを、少しばかり軽くしてくれた。
(排水溝の臭いがしない、当たり前か)
数日前の惨めな夜が嘘のようだ。萌香は、カーテンを開け放つと、シワひとつないシーツのベッドに腰掛け、夕暮れの空を見上げた。柔らかなマットレスは傷付いた萌香を優しく包み、街の喧騒から遮断されたこの場所は、萌香の思考を明確にした。
(孝宏は、今更、私になにを話したいの?)
萌香は、孝宏がバイセクシャルであったという、この3年間の嘘偽りに塗れた同棲生活が、脆く崩れてしまった事を、未だ消化し切れていなかった。
(そうだ。着替えなきゃ)
孝宏の人事異動を知り、慌てて職場のロッカールームを飛び出して来た萌香は、銀行の制服を着たままだった。萌香は、スーツケースの蓋を開けると、その場にしゃがみ込んでしばらく考えた。
(思いっきりメイクして行こうかな)
これまでの3年間、孝宏に言われるがまま、ゴミ箱に色鮮やかな口紅を捨て、飾り気のない無地の服を着た。今でもあの時の、孝宏の満足げな顔が目に浮かぶ。
(本当は真っ赤なネイルだって塗りたかった)
まさかそれが、男性を好む孝宏の性癖だとは思いも寄らなかった。孝宏が求めたのは、中性的な姿形の萌香の外見だった。
(まさか、そんな目で私を見ていたなんて)
そして、この3年間の同棲生活は、孝宏が、バイセクシャルである事を隠す為の隠れ蓑だった。その事実を知った萌香は愕然とし、マンションを飛び出していた。
(・・・酷い)
萌香は、スーツケースから真新しい、ジョーゼットシフォンのワンピースを取り出した。それはまだ、ショップバッグの中に畳まれたままで、半年前に孝宏に内緒で買った物だった。その時は、孝宏に隠し事をした後ろめたさを感じたが、今となれば些細な反抗だった。
「可愛い、やっぱり可愛い・・・」
萌香は、ショップバッグからワンピースを、緊張の面持ちで恐る恐る取り出した。身体の前に当て鏡の前に立つと、その姿はまるで別人で、新しい一歩を踏み出せたような気がした。大きく開いた襟元は萌香の美しいデコルテラインを際立たせ、落ち着いたスモーキーローズは色白の肌によく似合った。
「綺麗な色!やっぱり買って正解!」
萌香は急いで堅苦しい制服のボタンを外すと、ベッドの上に投げ置いた。
(このワンピースを着て行ったら、孝宏はどんな顔をするだろう)
孝宏の反応を予想した萌香は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
(ワンピースを着るだけなのに、なんだか緊張する)
ワンピースを、ゆっくりと頭から被り、袖を通す。さらさらとしたジョーゼット生地が肌に心地良く、指先でその感触を味わった。萌香は、期待と喜びを噛み締めながらボタンを留め、ワンピースの形を整えるとウェストのリボンを結んだ。
「あれ?」
リボンの結び目が歪で、萌香は何度か結び直した。前は上手く結べていたリボンも、いつしか結べなくなっていた事に気付いた萌香は苦笑した。
(次は髪)
萌香は、ドレッサーに向かうと、スワロフスキーが光を弾くヘアバレッタを取り出した。スモーキーな半透明のローズに、キラキラと輝くピンクのスワロフスキーの粒が雫の様に落ちている。萌香は、その美しさの虜となった。これも、ローズ色のワンピースと揃いで買った。
(孝宏が、アクセサリーを嫌ったのも、女に見えたから、か)
萌香は自嘲的な笑いを浮かべ、『馬鹿みたい』だと呟いた。
(スッキリと纏めようかな)
緩やかなカールの髪を無造作にハーフアップにして捻ると、後頭部で纏めた。初めて使うバレッタは、バネが強くその感触に気が引き締まった。鏡の中には、優しさを感じさせつつ、引き締まった面差しの萌香が唇をきつく噛み、孝宏への言葉を探していた。
(あ、そうだ)
萌香はメイクポーチの中から、芹屋隼人から贈られたローズ色のジェルネイルを取り出した。芹屋隼人は『萌香さんに似合うと思って選びました』と、目を細めて微笑んだ。その時、小さなガラスの小瓶から溢れ出す温かな思いを感じた萌香は、喜びと嬉しさで息をするのも忘れた。
(課長からもらったネイルも付けて行こうかな)
孝宏が嫌悪する女性らしさを見せ付けようと、眉を顰め嫌がる顔を想像し、悪戯心も手伝って、萌香はジェルネイルを爪に塗り始めた。2本、3本、孝宏への恨み辛みを込めてみたが、最後の小指を塗り終える頃には、自分だけの時間を楽しんでいる事に気付き、それはどうでも良い事になっていた。
「さて!行きますか!」
萌香はパンプスをハイヒールに履き替え、ショルダーバッグを肩に掛けた。エレベーターのボタンを押す萌香の胸は、緊張で激しく脈打った。扉が閉まる。箱の中の鏡に、彩られた自分の姿が映った。
(大丈夫かな、変じゃないかな・・・)
萌香は、口角を上げ、作り笑いをしてみたが、平生と違う華やかな自分の姿に違和感を感じた。鏡に向かい後れ毛を指先で整えると、ショルダーバッグの肩紐を持つ手に力が入った。
ポーン
エレベーターの扉が開くと、ワッと光の渦と人の騒めきが萌香に押し寄せ、一瞬目が眩んだ。チェックインする観光客の波間を、薔薇の花弁のような萌香が押し流されて行った。誰も萌香を不思議な目で見る事はなかった。萌香は、自分の出立ちが世間から浮いていない事を確認し、安堵の溜め息を吐き胸を張った。そしてタクシーに手を挙げた。
「お願いします」
「どちらまで」
「
夕日はとうに海の向こうに沈み、紺色の空に一番星が光る頃、萌香はタクシーの後部座席で帰路を急ぐサラリーマンの姿を見ていた。
(この人たちにも、孝宏みたいな秘密があるのかな)
萌香は、孝宏は誠実で優秀な銀行員だと思っていた。
(嘘みたい)
それがまさか、勤務時間中にマッチングアプリで知り合った男性とホテルを利用していたとは夢にも思わなかった。萌香は静かに目を閉じた。