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第40話 スーツケース

 ATM機のシャッターがガラガラと降り、客のいない待合ソファは寂しげな顔をした。営業課フロアの気忙しさは落ち着きを取り戻した。萌香はインカムイヤホンを取り外し、首を回して肩の凝りをほぐした。


(あぁ・・・今日も疲れた)


 内線電話が回って来る時以外は静かで、パソコンのキータッチの音と、書類をファイリングする紙の音がカサカサと聞こえるだけだ。萌香が伝票を揃え終えたところで、終業時刻を報せるチャイムが鳴った。


「お先に失礼します」

「はい、お疲れさま」


 萌香が席から離れると、数名の女性行員もおもむろに椅子からガタガタと立ち上がった。


「お疲れさまです」

「ご苦労さまです」


 萌香が通りすがりに会釈をすると、芹屋隼人は目を細めて口角を上げ、蛍光ピンクの付箋をチラつかせた。付箋には、<すきだよ>の文字が並び、萌香の顔は思わず赤らんだ。


(・・・また!もう!)


 女性行員たちは、萌香と芹屋隼人の些細なアイコンタクトを見逃さなかった。そして、皆、声を揃えて『お疲れさまでーす』と萌香に次いでエレベーターに乗り込んだ。


「・・・・」


 エレベーターの箱の中では誰も言葉を発しなかったが、言いようのない高揚感で満たされていた。萌香は、背中にチクチクと痛い視線を感じ、これから起こるであろう出来事に、胸がドキドキした。


バタン


 案の定、女性ロッカールームのドアが閉まった途端、萌香は窓際の壁に追いやられ、パンプスの踵がソファベンチの脚に当たった。萌香を取り囲む女性行員たちの目はモンシロチョウに鎌を振り翳すカマキリのようで、鬼気迫るものがあった。


「な、なんですか?」

「やっぱり、長谷川さん、芹屋課長と付き合ってたのね」


 その声の主は、社員食堂の隣のテーブルで、ラーメンを啜っていた年配の女性行員だった。


「それは、誤解です!」

「こんにゃく芋って、婚約者の事でしょ?」


 萌香の心臓は大きく跳ねた。


(そ、それはそうなんですが!契約ですから!)


 その背後では、芹屋課長推しの若い女性行員が、驚きで口を覆い、ポロポロと涙を溢し始めた。


(ええっ!ちょ、泣いてる!)


 同僚はその肩に手を置き、ボックスティッシュを手渡していた。


「や、本当に、婚約者ではなくて、こんにゃく芋で」

「嘘だね!」


 そんな萌香の反論も虚しく、グイグイと一斉に詰め寄って来た。


「付箋でなにか遣り取りしてるでしょ?」

「あれは!事務的なもので!」

「じゃあ、あの予約席はなに?」

「悩み事があって、相談に乗ってもらっていたんです!」


 そのやり取りを見ていた数人が、小声で萌香を見た。


「相談ってあれ?」

「そう、吉岡さんの・・・」


 年配の行員は萌香を凝視し、口を尖らせた。


「ふーん、そうなの?」

「は、はい!」


 ただ、萌香は、芹屋隼人から定期的に届く、蛍光ピンクの付箋については言い逃れする事が出来なかった。


(もう!課長のせいでこんな事に!)


 芹屋隼人の画策にハマった萌香は、こうして外堀から埋められていった。追い詰められた萌香は、ほんの僅かな隙間から顔を出し、その輪から抜け出す事に成功した。


「ぷはっ!」


 萌香は、ロッカーから震える手でスーツケースを取り出すと、慌てふためき制服を着替える事もなく、緊張の面持ちでドアノブを握った。


「お疲れさまでした!」


 その時、萌香と芹屋隼人の仲を妬んだ同僚が、驚きの一言を発した。


「課長と婚約したから、吉岡くんと別れたんだ!」

「吉岡さん、かわいそう」

「だから富山支店に行っちゃうんだ」


 萌香はカマキリの集団へと向き直った。


「・・・・え・・富山、富山支店?なんの事ですか?」

「人事異動だって。今日、人事課の掲示板に張り出されていたよ」


 萌香は目を見開いた。


(え!?孝宏が富山支店に異動!?このタイミングで!?)


 萌香は耳を疑った。


「知らなかったの?」

「一緒に住んでたんだよね?聞いてなかったの?」


 そんな、興味本位な言葉は耳を素通りした。


「ごめんなさい!お先に失礼します!」


 萌香は踵を返し、ロッカールームを飛び出した。


(嘘でしょ!?孝宏が異動!?)


 萌香との同棲生活の解消が、孝宏の人事異動に繋がるとは到底、思えなかった。今回の人事異動は、あの夜、孝宏と芹屋隼人がイタリアンバルでなにを話していたのか、そこにヒントがある筈だ。


(孝宏、あの時、課長となにを話していたの?なにが原因なの!?)


 萌香の脚はもつれ、小刻みに震えているのが分かった。手に持ったスーツケースをいつもより重く感じた。エレベーターホールに向かったが、その箱はなかなか上がって来る気配はなく、廊下の奥の階段を使う事にした。


「ん、もう!」


 萌香の手は階段の手すりを握った。ざらざらとした金属の感触、スーツケースが段にぶつかる音は、3年間の記憶を叩き付ける様だった。6階の人事課に辿り着く頃には、萌香の脇には汗が滲んでいた。


ハァハァハァ


 肩で息をしながら、萌香は掲示板を見上げた。確かにそこには、1枚の紙が貼られていた。


「・・・人事異動」


 そこには、辞令 吉岡孝宏 富山支店 命ずる そんな文字が並んでいた。


(・・・・嘘でしょ?)


 萌香が掲示板を呆然と眺めていると、ショルダーバッグの中でLIME通話の着信音が鳴った。孝宏からだった。机に叩きつけた写真、ハラハラと舞い落ちる騙された3年間を思い出し、萌香は息を呑んだ。通話ボタンを押す指先が震えた。


「も、もしもし」


 携帯電話の向こう側から、孝宏の唾を呑み込む音が聞こえた。


「もしもし、俺だけど」


 孝宏の声は、萌香への負い目からか、いつもの太々しさは無く、気弱で掠れていた。


「うん」

「・・話したい・・・事があるんだ、あえ・・・ないかな」

「話したい事?なに?」

「・・・あの」


 萌香の脳裏にイタリアンバルの夜が過ぎり、胸が締め付けられた。その、一瞬のに不安を感じたのか、孝宏は慌てて言葉を続けた。


「生活費の支払いとか、教えてくれ」

「生活費?」


 それはそうだ。光熱費や家賃は全て萌香が賄っていた。これからは孝宏が自分で支払わなくてはならない。だからと言って、生きていく上で必要な経費など子どもではないのだから、分かるだろう。明らかに、萌香に会う為の口実だと思った。


「・・・分かった、どこで会う?」

「俺んちは」


 萌香の声は、冷ややかに突き放した。


「勘弁して。賑やかなところが良い」

「じゃあ、ファミリーレストランで」


 萌香と孝宏は24時間営業のファミリーレストランで会う事になった。


(話って、なんだろう)


 萌香は、夕日が落ちるビルの谷間を、スーツケースを引いて歩いた。その心は、ガラガラと歪な音を立てて揺れていた。

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