プシュー
バスのエンジン音が響き、吊り革が左右に揺れた。萌香と芹屋隼人が乗ったバスには、危惧した通り、同じ銀行で働く年配の、やや目付きの鋭い女性行員の姿があった。女性行員は眼鏡のツルを上下させた。
(うわー)
その、女性行員の後ろ姿は、社員食堂で何度か見掛けている。彼女は、”おひとり様”らしく、1階フロア営業課の噂好きの面々とは常に距離を置いていた。
(やっぱりいるじゃないですかー!課長ー!)
彼女が明日、萌香と芹屋隼人が同じバスに乗っていた事を、社員食堂で吹聴して回る事はないだろう。それでもやはり、同じバスに乗車する事は避けるべきだった。萌香が芹屋隼人の顔を睨むと、芹屋隼人は肩を窄め、仕方ないというように口角を上げた。
(あの人・・・経理課の人、だよね)
経理課は2階フロアで滅多に会う事はない。然し乍ら、大きなスーツケースを持った萌香は悪目立ちしている。念には念を入れ、1番後ろの席に移動しようと、段差に足を掛けた瞬間、バスは赤信号で急停車した。
「アッ!」
スーツケースの車輪が宙に浮き、萌香の肢体も前方へと大きく傾いた。
「おっ、と」
芹屋隼人が萌香の華奢な背中を受け止め、ディオールのオー・ソバージュの香りがふわりと全身を包み込んだ。
(課長の匂いだ)
萌香は、思わず顔が赤らんだ。そして顔を見上げると、芹屋隼人は目を細め、優しく微笑んでいた。
(やだ、こんなところで!)
急停車で乗客がざわつき始めた中、萌香は視線を感じ振り向いた。その先には、鋭い目付きの女性行員が、萌香と芹屋隼人の一連の遣り取りを見て、ニヤリと口角を吊り上げていた。
(ちょっ、ちょーっと待って!見てた!?見てたよね!絶対見てた!)
萌香は芹屋隼人の手を振り払うと、意図して声を張り上げた。
「課長!ありがとうございます!」
「あ、あぁ?」
「課長!失礼します!」
芹屋隼人は、萌香の咄嗟の行動に、クスリと笑い首を傾げた。
(やばい!ここは、知らない顔で!)
萌香が、スーツケースを椅子にぶつけながら、混雑を避け四苦八苦していると、女性行員から不意に声を掛けられた。それは面差しに反して柔らかで、落ち着いた声色だった。
「私、次のバス停で降りるから、どうぞ」
(え、なに、なになに!?)
女子行員は、肘掛けに手を突きゆっくり立ち上がると、すれ違い様に萌香の名前を呼んだ。降車のブザーが鳴り、赤いランプが一斉に点った。
「長谷川さん、お疲れさま」
「え、あ!?はい!?お疲れさまです!」
(なになに、なんで私の名前を知ってるのー!?)
萌香の心臓は飛び上がり、息が一瞬、止まった。萌香は、女性行員の背中を目で追いながら、生温かい椅子に座った。やがて、乗客の間をすり抜けた女性行員は、吊り革に掴まっていた芹屋隼人に会釈をして、バスのステップをゆっくりと降りて行った。
(ああ、やはり噂は伝わっていたかーあー)
萌香と芹屋隼人が、蛍光ピンクの付箋で連絡を取り合っていた事を発端に、2人は付き合っているのではないか、婚約したのではないかと、1階の営業課の女性行員の中ではまことしやかに囁かれていた。
(そりゃあ、社員食堂で2人でごはん食べてたら噂になるわよね)
蛍光ピンクの付箋から始まって、社員食堂でのランチ、芹屋隼人は長谷川萌香を陥落すべく、
(なんでこうなったかなー)
噂はやがて真実のように扱われ、いつしか2階の経理課にまで伝わったに違いなかった。実際、遂に陥落した萌香と芹屋隼人は秘密裏に婚約した。噂が噂でなくなり、事実となった今、この婚約を職場で隠し通す事は不可能に近いのではないか?萌香の思考回路は真っ白になってしまった。
(もう、みんなに言っちゃう?)
そこで、何気なく車窓を見下ろすと、そこには目を細めてニッコリと笑いながら、軽く手を振る女性行員の姿があった。萌香の背中に悪寒が走った。
(え、なに、なに、なに!?)
その女性行員は社員食堂ですれ違う程度の、初対面と言って良いほどの存在だった。それが『長谷川さん』と名前を呼び、こうして手を振っている。
発車します 吊り革にお掴まりください ピー
バスが動き出しても、女性行員は萌香を目で追って手を振り続けている。萌香は苦笑いをして小さく手を振った。
(あー、ビックリした)
動き出す街の景色、舗道は帰路を急ぐサラリーマンの波が続いている。
(これを持った私が、課長と同じバスに乗り合わせる偶然なんてないよねー、ないわー)
萌香は、大きなスーツケースをまじまじと見た。
ピンポーン
次は、県庁前、県庁前。
お降りの方は、お手元のブザーでお知らせ下さい。
車窓からの景色は、忙しないビル街から静かな郊外へと移り変わり、ポツポツと明かりが灯った住宅が、家族の帰りを待っていた。満員だった乗客も姿を消し、無口な学生が携帯電話を弄っている。
ピンポーン
次は、
お降りの方は、お手元のブザーでお知らせ下さい。
茜色の空はやがて紺色に変わり、一番星が輝いていた。バスの車内にはエンジン音だけが響き、吊り革が左右に揺れていた。周囲をゆっくりと見回した芹屋隼人が、静かに萌香に近付くと、傍の吊り革に掴まった。
「萌香さん」
「はい」
萌香は、初めて見る景色に心奪われ、芹屋隼人に振り向く事なく、流れては消える車窓に釘付けになっていた。
「萌香さんは、先程の女性とお知り合いですか?」
「いいえ、社員食堂ですれ違ったくらいです」」
「『長谷川さんに宜しくお伝え下さい』とおっしゃいました」
その瞬間、萌香は驚き芹屋隼人を仰ぎ見た。
「な、なんで!?」
「さぁ、私にも分かりません」
萌香は、スーツケースの持ち手をギュッと握って、芹屋隼人の顔を凝視した。そして、ゆっくりと口を開いた。
「やっぱり、課長が前に言ったように、公表した方が良いんでしょうか」
「なにをですか?」
「婚約の事です」
芹屋隼人は一瞬考え込んだ。
「そうですね。婚約指輪も差し上げた事ですし」
「はい、頂きました」
萌香は眉間にシワを寄せながら、困惑気味に目線を逸らした。芹屋隼人は吊り革に揺られながら、目を細めて口元を緩めた。
「私としては、婚約した事を、今すぐ!今すぐ、ここで叫びたい!」
「やめて下さい、運転手さんが驚きますから」
芹屋隼人をキッと睨んだ萌香の表情が、次第に不安気な色を醸し出した。その変化に気付いた芹屋隼人は、萌香の隣に座った。
「どうしたんですか?」
その温かな手は、萌香の冷たい指先を優しく握った。
「でも、私たち、契約結婚ですよね?」
「そうです、契約結婚です」
芹屋隼人の手に力が入り、革靴に力が入った。ザリザリとした砂が、萌香の中に落ちてゆくような気がした。芹屋隼人は車窓に目を逸らし、遠くを見つめながらそう呟いた。
ピンポーン
次は、
お降りの方は、お手元のブザーでお知らせ下さい。
「萌香さん、このバス停でおります」
芹屋隼人は、気不味い空気を消し去るように、降車ボタンを押した。バスの車内にブザーが鳴り響き、赤いランプが一斉に灯った。
「萌香さん、降りましょう。持ちますよ」
けれど萌香はそれを断り、重いスーツケースを持ち上げてステップを降りた。芹屋隼人は戸惑いが隠せず、その後を追った。
「どうしたんですか?」
「なんだかちょっと胸がムカムカして」
萌香は視線を舗道へと落とした。
「気持ち悪いんですか!?車酔いですか!?」
「違います!」
萌香は声を荒げた。
「どうしたんですか?」
芹屋隼人に惹かれ始めた萌香は、この婚約が仮のもので、結婚も期間限定の契約なのだという事実に押し潰されそうになった。
(分かってる、分かってる、けど!)
萌香は、次の言葉が見つからないまま、押し黙ってしまった。
「スーツケース、持ちますよ」
「・・・・・」
この契約結婚は、互いの合意の上で結んだものだ。それをなにを今更、不貞腐れているのか。萌香は、自分が駄々をこねた子どものように思え、恥ずかしさで顔を赤らめた。
「ごめんなさい」
けれど、どこか素直になれず、手土産の黒羊羹が入った紙袋を手渡した。
「これ!持って下さい!」
「これですか?」
紙袋をグッと押しつけた。
「持って下さい!」
「そうですか」
芹屋隼人は、頑として一歩も譲らない萌香に呆れつつも、目を細め、和やかに微笑んで紙袋を手に取った。紙袋の中身は、スーツケースに比べてはるかに軽かった。
「萌香さん、なにか怒ってますか?」
「いえ!自分に怒ってます!」
芹屋隼人は、スーツケースと紙袋を交互に見て、困惑した表情で溜め息を吐いた。
「そうなんですね」
「はい!」
萌香はスーツケースの持ち手をグッと握ると、足早に歩き出した。
「萌香さん!どこに行くんですか!」
「あ、そうでした」
芹屋隼人は、横断歩道を指差した。
「私の家はあっちです」
「はい」
「覚えて下さいね」
「はい」
横断歩道の信号が青色に変わり、萌香の足は白線へと踏み出した。今夜から、萌香は芹屋隼人の家で暮らす。契約結婚の日々が始まった。