ATMのシャッターが下り、窓からは、傾き始めた西陽がフロアに差し込んでいた。萌香は、インカムスピーカーを外し一息吐くと、首を回して背伸びをした。すると、背後から係長が声を掛けて来た。
「長谷川くん」
「はい」
係長は目を細めて和かに笑うと、1枚のクリアファイルを萌香に手渡した。中には、サマーセールのチラシが入っていた。
「新しいフライヤーですか?」
「そう、悪いんだけど、ラックに入れてくれないかな」
「分かりました」
スチールデスクの筆記用具を手早く片付け、クリアファイルを手に待合の長椅子に腰掛けた。ラックから春のフライヤーを取り出し、新しいフライヤーに差し替えようとしたその時、蛍光イエローの付箋がハラリと床に落ちた。萌香の心臓は跳ねた。
(まさか、課長!?)
萌香が立ち上がって見ると、カウンターの向こうには、芹屋隼人が目を細め、デスクに肘を突き、どこか楽しげにこちらを見ていた。
(蛍光ピンクが駄目なら、蛍光イエローですか!?)
芹屋隼人は、これまで萌香に蛍光ピンクの付箋にメッセージを書き、手渡していた。それは時折同僚の目に触れ、2人が付き合っているのではないかと疑惑の目が向けられていた。
(この人は!懲りませんね!)
ついに芹屋隼人は、萌香に『蛍光ピンクの付箋はもう使わないで下さい!』と念を押された。すると今度は、蛍光イエローの付箋でメッセージを寄越して来た。
(き、黄色の方が目立つじゃないですか!?)
職場で内緒の遣り取りをする筈が、これでは今まで以上に目立ってしまう。噂好きな女性行員たちの目を盗むように、萌香は付箋を丸めると、制服のポケットに突っ込んだ。
「お疲れさまでした!」
萌香は足早に廊下に出ると、給湯室の冷蔵庫の陰に隠れて蛍光イエローの付箋を開いて見た。
(これは、このバスに乗れと言う事なのだな?)
暗号を読み解いた萌香が振り返ると、場の空気が読めない180センチメートルの上司が、無邪気な笑顔で立っていた。
「課長!」
「課長じゃありませんよ、隼人ですよ?」
その手は萌香の髪へと伸びた。
「職場では課長です!」
萌香はその手を振り払うと、臙脂色のネクタイを掴み上げ冷蔵庫の陰に引き摺り込んだ。芹屋隼人は目を丸くして驚きながらも、口元は薄っすらと笑みを浮かべている。
「萌香さんは、ここが大好きなんですね」
足元の消火器がゴロゴロと転がった。萌香は、芹屋隼人の耳元に顔を近付けると、小声で怒りを露わにした。
「課長!ピンクが駄目なら黄色って小学生ですか!」
「そう言われても、萌香さんに連絡するにはどうしたら良いんですか?」
「長谷川です!」
そこで萌香は重大な事を失念している事に気が付いた。
「課長、LIME IDって持ってますよね?」
「はい、あります」
萌香はポケットから携帯電話を取り出すと、鼻息も荒く、芹屋隼人の目の前に押し付けた。
「LIME ID交換しましょう!」
「あぁ、それは名案です」
「名案もなにも、気付かなかった私たちが、お馬鹿さんでしたね」
スーツのポケットから携帯電話を取り出した芹屋隼人は、唇を少し尖らせ吹き出すのを我慢しながら目を細めた。
「私はいつ、萌香さんが気付くか待っていたんですよ?」
「ええっ!?」
「付箋でのメッセージ交換も楽しかったですけれどね」
「あれはわざとだったんですか!信じられない!」
そこに、外回りの男性行員たちが群れになって歩いて来た。
「あ、課長お疲れ様です、残業ですか?」
「ご苦労様、もう上がるよ」
「お先に失礼します」
「気を付けて」
芹屋隼人は、振り向きざまに真面目で厳しい面差しになり、行員たちの視線を避けるように、自動販売機のボタンを押しコーヒーを買う真似事をした。
「お疲れ様です」
「お疲れー」
その面々は、まさか萌香と芹屋隼人が特別な関係だと気付く筈もなく、賑やかしく通り過ぎた。
「長谷川さん、またお茶当番?」
「大変だね、お疲れ様ー」
「お疲れ様です」
萌香は会釈をするとシンクに手を伸ばし、未使用の湯呑み茶碗を洗い始めた。足音が長い廊下を進み、営業フロアの鉄のドアが閉まった。萌香が溜め息を吐くと、芹屋隼人も大きな溜め息を吐いた。給湯室にふたたび静けさが戻った。
「・・・・・」
給湯室には無言でLIME IDを交換する2人の姿があった。
「課長、
萌香が、蛍光イエローの付箋に書かれたメッセージを思わず口にすると、芹屋隼人は唇の前で指を立てて目を細めた。
「アッツ、そうでした!」
つい、LIMEでのメッセージの遣り取りを忘れた萌香に、芹屋隼人は目を細めて頷いた。暫くすると、萌香の携帯電話がLIME ID の着信を知らせた。画面をタップすると、”萌香ちゃんLOVE”と、真っ赤なハートを抱えたクマのスタンプが飛び跳ねていた。
なんですかこれは!(既読)
いつかLIMEする時に使おうと思って購入しておきました
恥ずかしいからやめて下さい!(既読)
エレベーターのボタンを押すと、次のメッセージが届いた。
香林坊のバス停で待ち合わせです
課長のご自宅に行くんですよね(既読)
そうです
でも!待ち合わせって!誰かに見られたらどうするんですか!(既読)
(課長って、本当になにも考えていないの!?)
考えていませんでした
考えて下さい!(既読)
萌香の提案で、バス停では距離を置いて並び、バスの中では別々の椅子に座る事になった。けれど、萌香は芹屋隼人に素気のない態度を取りつつも、心の中はこれからの暮らしが楽しみで仕方がなかった。
(なんだかすごく、ワクワクする!)
ロッカールームで勢いよくスーツケースを開いた萌香は、白襟に紺のワンピースを選んだ。袖を通し、髪をブラッシングした。次に鏡を見るとスカートのシワを整え、一回転した。
(よしっ、派手じゃないよね?)
芹屋隼人との契約結婚の交換条件として、住まいをなくした萌香は、芹屋家の世話になる事となった。勿論、そこには芹屋隼人の家族も住んでいる。
(お父さんってどんな人かなぁ、課長みたいに格好いいのかな)
芹屋隼人の父親は市役所に勤務していると聞いていた。萌香の想像は膨らみ、上品なスーツにネクタイをキュッと締めた長身の男性を思い浮かべた。
(お母さんは保育士さんだっけ?優しい人だと良いなぁ)
母親は保育士でラッコ組の担任だと聞いている。
(ラッコのぬいぐるみとか持っているのかな)
いや、ラッコのぬいぐるみはどうでも良い。萌香は、第一印象が肝心と、K18のピアスは外し、口紅はベージュ系を選んだ。そして、芹屋隼人から入手した情報を元に、手土産の菓子折りは黒羊羹の詰め合わせを選んだ。
「では、行きますか!」
萌香は腰に手を当て、握り拳を振り上げた。萌香は、3年に亘る同棲生活の破局という、辛く悲しい思い出が詰まったスーツケースを引き摺っていた。けれど、これからの新しい暮らしへと羽ばたく足取りは軽く、赤信号の待ち時間もソワソワと落ち着かなかった。
(あれ?)
バス停の行列に、芹屋隼人の姿はなかった。
(課長、まだ来てないんだ。遅いなぁ)
バス停では、ショーウィンドーに映る姿に目が留まり、髪を手櫛で整え、目尻を下げ口角を上げて笑顔の練習をした。それは傍目には
(え、やばっ)
恐る恐る振り向くと、そこには目を細め、微笑む芹屋隼人の姿があった。ビジネスバッグを手に、口元を隠している。
(ひどい!そんなに笑わなくたって良いじゃない!)
萌香が口を尖らせて頬を膨らませると、芹屋隼人はポケットから携帯電話を取り出した。
ピコン
画面をタップすると、また真っ赤なハートを抱えたクマのスタンプが飛び跳ねていた。
笑わないでください!(既読)
ごめんなさい、つい可愛くて
次、笑ったら絶交ですからね!(既読)
絶交、小学生ですか
萌香は相変わらず頬を膨らませていたが、芹屋隼人は首を傾げると目を細めて優しく微笑んだ。
プシュー
バスの扉が開き、萌香のパンプスは新しいステップに踏み出した。