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第53話 待ち合わせ

 ATMのシャッターが下り、窓からは、傾き始めた西陽がフロアに差し込んでいた。萌香は、インカムスピーカーを外し一息吐くと、首を回して背伸びをした。すると、背後から係長が声を掛けて来た。


「長谷川くん」

「はい」


 係長は目を細めて和かに笑うと、1枚のクリアファイルを萌香に手渡した。中には、サマーセールのチラシが入っていた。


「新しいフライヤーですか?」

「そう、悪いんだけど、ラックに入れてくれないかな」

「分かりました」


 スチールデスクの筆記用具を手早く片付け、クリアファイルを手に待合の長椅子に腰掛けた。ラックから春のフライヤーを取り出し、新しいフライヤーに差し替えようとしたその時、蛍光イエローの付箋がハラリと床に落ちた。萌香の心臓は跳ねた。


(まさか、課長!?)


 萌香が立ち上がって見ると、カウンターの向こうには、芹屋隼人が目を細め、デスクに肘を突き、どこか楽しげにこちらを見ていた。


(蛍光ピンクが駄目なら、蛍光イエローですか!?)


 芹屋隼人は、これまで萌香に蛍光ピンクの付箋にメッセージを書き、手渡していた。それは時折同僚の目に触れ、2人が付き合っているのではないかと疑惑の目が向けられていた。


(この人は!懲りませんね!)


 ついに芹屋隼人は、萌香に『蛍光ピンクの付箋はもう使わないで下さい!』と念を押された。すると今度は、蛍光イエローの付箋でメッセージを寄越して来た。


(き、黄色の方が目立つじゃないですか!?)


 職場で内緒の遣り取りをする筈が、これでは今まで以上に目立ってしまう。噂好きな女性行員たちの目を盗むように、萌香は付箋を丸めると、制服のポケットに突っ込んだ。


「お疲れさまでした!」


 萌香は足早に廊下に出ると、給湯室の冷蔵庫の陰に隠れて蛍光イエローの付箋を開いて見た。


香林坊こうりんぼうバス停 県庁行き 18:10


(これは、このバスに乗れと言う事なのだな?)


 暗号を読み解いた萌香が振り返ると、場の空気が読めない180センチメートルの上司が、無邪気な笑顔で立っていた。


「課長!」

「課長じゃありませんよ、隼人ですよ?」


 その手は萌香の髪へと伸びた。


「職場では課長です!」


 萌香はその手を振り払うと、臙脂色のネクタイを掴み上げ冷蔵庫の陰に引き摺り込んだ。芹屋隼人は目を丸くして驚きながらも、口元は薄っすらと笑みを浮かべている。


「萌香さんは、ここが大好きなんですね」


 足元の消火器がゴロゴロと転がった。萌香は、芹屋隼人の耳元に顔を近付けると、小声で怒りを露わにした。


「課長!ピンクが駄目なら黄色って小学生ですか!」

「そう言われても、萌香さんに連絡するにはどうしたら良いんですか?」

「長谷川です!」


 そこで萌香は重大な事を失念している事に気が付いた。


「課長、LIME IDって持ってますよね?」

「はい、あります」


 萌香はポケットから携帯電話を取り出すと、鼻息も荒く、芹屋隼人の目の前に押し付けた。


「LIME ID交換しましょう!」

「あぁ、それは名案です」

「名案もなにも、気付かなかった私たちが、お馬鹿さんでしたね」


 スーツのポケットから携帯電話を取り出した芹屋隼人は、唇を少し尖らせ吹き出すのを我慢しながら目を細めた。


「私はいつ、萌香さんが気付くか待っていたんですよ?」

「ええっ!?」

「付箋でのメッセージ交換も楽しかったですけれどね」

「あれはわざとだったんですか!信じられない!」


 そこに、外回りの男性行員たちが群れになって歩いて来た。


「あ、課長お疲れ様です、残業ですか?」

「ご苦労様、もう上がるよ」

「お先に失礼します」

「気を付けて」


 芹屋隼人は、振り向きざまに真面目で厳しい面差しになり、行員たちの視線を避けるように、自動販売機のボタンを押しコーヒーを買う真似事をした。


「お疲れ様です」

「お疲れー」


 その面々は、まさか萌香と芹屋隼人が特別な関係だと気付く筈もなく、賑やかしく通り過ぎた。


「長谷川さん、またお茶当番?」

「大変だね、お疲れ様ー」

「お疲れ様です」


 萌香は会釈をするとシンクに手を伸ばし、未使用の湯呑み茶碗を洗い始めた。足音が長い廊下を進み、営業フロアの鉄のドアが閉まった。萌香が溜め息を吐くと、芹屋隼人も大きな溜め息を吐いた。給湯室にふたたび静けさが戻った。


「・・・・・」


 給湯室には無言でLIME IDを交換する2人の姿があった。


「課長、香林坊こうりんぼうバス停 県庁行き 18:10 って、課長のお家に行くバスですよね?」


 萌香が、蛍光イエローの付箋に書かれたメッセージを思わず口にすると、芹屋隼人は唇の前で指を立てて目を細めた。


「アッツ、そうでした!」


 つい、LIMEでのメッセージの遣り取りを忘れた萌香に、芹屋隼人は目を細めて頷いた。暫くすると、萌香の携帯電話がLIME ID の着信を知らせた。画面をタップすると、”萌香ちゃんLOVE”と、真っ赤なハートを抱えたクマのスタンプが飛び跳ねていた。




なんですかこれは!(既読)


いつかLIMEする時に使おうと思って購入しておきました


恥ずかしいからやめて下さい!(既読)



 エレベーターのボタンを押すと、次のメッセージが届いた。



香林坊のバス停で待ち合わせです


課長のご自宅に行くんですよね(既読)


そうです


でも!待ち合わせって!誰かに見られたらどうするんですか!(既読)


(課長って、本当になにも考えていないの!?)


考えていませんでした


考えて下さい!(既読)




 萌香の提案で、バス停では距離を置いて並び、バスの中では別々の椅子に座る事になった。けれど、萌香は芹屋隼人に素気のない態度を取りつつも、心の中はこれからの暮らしが楽しみで仕方がなかった。


(なんだかすごく、ワクワクする!)


 ロッカールームで勢いよくスーツケースを開いた萌香は、白襟に紺のワンピースを選んだ。袖を通し、髪をブラッシングした。次に鏡を見るとスカートのシワを整え、一回転した。


(よしっ、派手じゃないよね?)


 芹屋隼人との契約結婚の交換条件として、住まいをなくした萌香は、芹屋家の世話になる事となった。勿論、そこには芹屋隼人の家族も住んでいる。


(お父さんってどんな人かなぁ、課長みたいに格好いいのかな)


 芹屋隼人の父親は市役所に勤務していると聞いていた。萌香の想像は膨らみ、上品なスーツにネクタイをキュッと締めた長身の男性を思い浮かべた。


(お母さんは保育士さんだっけ?優しい人だと良いなぁ)


 母親は保育士でラッコ組の担任だと聞いている。


(ラッコのぬいぐるみとか持っているのかな)


 いや、ラッコのぬいぐるみはどうでも良い。萌香は、第一印象が肝心と、K18のピアスは外し、口紅はベージュ系を選んだ。そして、芹屋隼人から入手した情報を元に、手土産の菓子折りは黒羊羹の詰め合わせを選んだ。


「では、行きますか!」


 萌香は腰に手を当て、握り拳を振り上げた。萌香は、3年に亘る同棲生活の破局という、辛く悲しい思い出が詰まったスーツケースを引き摺っていた。けれど、これからの新しい暮らしへと羽ばたく足取りは軽く、赤信号の待ち時間もソワソワと落ち着かなかった。


(あれ?)


 バス停の行列に、芹屋隼人の姿はなかった。


(課長、まだ来てないんだ。遅いなぁ)


 バス停では、ショーウィンドーに映る姿に目が留まり、髪を手櫛で整え、目尻を下げ口角を上げて笑顔の練習をした。それは傍目には可笑おかしかったらしく、数人後ろで吹き出す声が聞こえた。


(え、やばっ)


 恐る恐る振り向くと、そこには目を細め、微笑む芹屋隼人の姿があった。ビジネスバッグを手に、口元を隠している。


(ひどい!そんなに笑わなくたって良いじゃない!)


 萌香が口を尖らせて頬を膨らませると、芹屋隼人はポケットから携帯電話を取り出した。


ピコン


 画面をタップすると、また真っ赤なハートを抱えたクマのスタンプが飛び跳ねていた。




笑わないでください!(既読)


ごめんなさい、つい可愛くて


次、笑ったら絶交ですからね!(既読)


絶交、小学生ですか




 萌香は相変わらず頬を膨らませていたが、芹屋隼人は首を傾げると目を細めて優しく微笑んだ。


プシュー


 バスの扉が開き、萌香のパンプスは新しいステップに踏み出した。

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