営業時間前、営業課フロアでは、同僚たちによる孝宏へ花束の贈呈が行われていた。これで、吉岡孝宏は富山支店へと異動する。簡単な挨拶を終え、黄色い花束を抱えた孝宏は、芹屋隼人に深く頭を下げた。
「・・・!」
孝宏の顔付きが変わった。
(課長の臙脂色のネクタイ、昨日と同じネクタイだ!)
顔色を変えた孝宏の面持ちを不可思議に思った芹屋隼人だったが、その目が自身のネクタイを凝視している事に気が付いた。咄嗟に、ネクタイを隠す仕草をしてしまい、疑念は現実のものとなってしまった。
(どこかに泊まったんだ)
昨夜の送別会の後、二次会の途中で姿を消した芹屋隼人は、コンビニエンスストアで2個のカップアイスクリームを買っていたと、同僚が話していた。孝宏は思わず、お客さまカウンターで見送りの拍手をしている萌香に振り向いた。萌香は、孝宏の視線に気が付くと、目を逸らした。
(萌香、萌香か!?)
先週、スーツケースを持った萌香が、職場近くのホテルに宿泊していると、女性行員たちが噂話に花を咲かせていた。孝宏は、直感で、芹屋隼人が萌香の泊まっているホテルに向かったと思った。
(萌香と芹屋さんが付き合っているのは、本当だったんだな)
孝宏は、もういちど、深々とお辞儀をした。黄色い花びらが、フロアの床にハラリと落ちた。
キィ、バタン
孝宏は、肩を落とし、萌香と芹屋隼人への思いを胸に秘めたまま、営業課の鉄の扉を閉めた。寂しげな背中が扉の向こうに消えると、玄関のシャッターが音を立てて上がった。眩しい朝の光が差し込み、来客が続々となだれ込んで来た。
「おはようございます、いらっしゃいませ」
インカムスピーカーを付けた萌香は、萌香と芹屋隼人の関係に気付いた孝宏の、驚きで目を見開いた面持ちを振り払うように一瞬目を伏せた。そして、満面の作り笑顔で椅子に腰掛けた。
昼休憩のチャイムが鳴り、萌香は疲れたようにインカムスピーカーを外し、首を回した。そして、手元の伝票をまとめ、スチールデスクに散らばった筆記用具を重い手付きで片付け始めた。
(・・・痛い、いや、重い)
首や肩の凝りも辛いが、腰が重い。なにしろ、昨夜の芹屋隼人との時間はあまりにも濃密で、今もその余韻が熱となって残っている。萌香は、頬を赤らめ、その疼くような甘さを打ち消そうとした。
(あ)
そこで芹屋隼人と目が合った。芹屋隼人は冷静な面差しで、慌てふためく萌香を凝視していた。
(な、なんなの!?)
芹屋隼人は目を細め、萌香の反応を楽しみながら、にやけた笑顔で立ち上がった。そして、デスクから蛍光ピンクの付箋を取り出すと、自身の椅子の背もたれに貼り付け、踵を返してフロアから出て行ってしまった。
(なに!今度はなにを書いたの!)
萌香は慌てて椅子から立ち上がると、周囲を見回した。
(いない!いないよね!?)
そこに、噂好きな女性行員たちがいない事を確認した萌香は、蛍光ピンクの付箋を椅子の背もたれから素早く剥がし、慌てて片手で握り潰すと給湯室に駆け込んだ。
(こんな!契約結婚がバレたらどうするの!)
シワを伸ばすと、蛍光ピンクの付箋には、大きなハートマークに”第一会議室”とだけ書かれていた。これは、『第一会議室で待っている』という意味なのだろう。萌香は呆れと安堵が入り混じった大きな溜め息を吐くと、その場にしゃがみ込んだ。
(こんな物、誰かに見られたらどうするの!?)
その場で深呼吸をして気を取り直した萌香は、エレベーターのボタンを押した。最上階から降りて来るエレベーターは、芹屋隼人が使ったものに違いない。
(本当に!課長はなにを考えているのか分かんない!)
ポーン
苛立ちを隠しながらエレベーターに乗り込んだ萌香は、最上階の会議室フロアへと向かった。これから一体、どんな無理難題を吹っ掛けられるのかと思うと、自然と眉毛が八の字になり、口角は下がった。
ポーン
(誰もいない)
昼休憩の時間帯に、最上階のフロアに来る行員は少ない。稀に、午後一番の会議の準備で人の出入りはあるが、そこは芹屋隼人らしく確認済みだった。どの会議室も静けさに包まれ、人の気配はなかった。
(第一会議室ね、第一、第一)
萌香のパンプスの音だけが、長く薄暗い廊下に響いた。萌香が第一会議室の前まで来ると、微かだが室内に人の息遣いを感じた。ところが、ドアは引っ張っても開く気配がなく萌香は苛立ちを覚えた。
「課長!ふざけてないで開けて下さい!」
鍵の掛かっていないドアはびくともしなかった。萌香は足を踏ん張り、歯を食いしばってドアノブを引いた。中から、押し殺したような含み笑いが聞こえて来た。
「・・って言って下さい」
「課長!なんですか!?」
激しくドアを叩くと、返事が返って来た。
「課長!」
「好きですって言って下さい」
「はぁ!?」
その語尾は照れ臭そうで、鳥肌が立った。萌香は、契約とはいえ、婚約している間柄で、今更、なにを言っているのかとうんざりした。
「課長!そんな下らない事で、呼び出したんですか!?」
「下らない事ではありません!」
「なに、偉そうに言ってるんですか!」
萌香がドアノブを離すと、ドアは勢いよく開き、中から180センチメートルの傍迷惑な道路交通標識が転がり出て来た。
「課長!良い加減にして下さい!」
萌香は、鬼のような形相で仁王立ちし、芹屋隼人を見下ろしたが、彼は床に寝転んだまま動かなかった。
「課長」
「あ、パンツ」
「パンツじゃありません!セクハラで訴えますよ!」
芹屋隼人が目を細め、ブラリと両腕を差し出したので、萌香はその手を掴んだ。
(なんで、私がこんな事を!)
そして、相変わらず筋肉質な身体は重く、引き起こすのに難儀した。
「甘えないで下さい」
「ちょっと、悪戯しただけですよ」
芹屋隼人はスーツの埃を払いながら立ち上がると、第一会議室の中へどうぞとばかりに手を差し伸べた。萌香は口を尖らせ、頬を膨らませた。
「さぁ、会議でもしましょうか」
「なんの会議ですか?」
萌香は戦々恐々と椅子に腰掛けた。2人だけの部屋に鍵が閉まる音が響き、萌香の心臓は大きく跳ねた。芹屋隼人は、壊れものを扱うように萌香を背中から優しく抱き締めた。萌香は、耳に伝わる芹屋隼人の鼓動に胸がときめき、頬が赤らむのを感じた。
「萌香さん、隼人と呼んで下さい」
「課長」
「隼人ですよ」
萌香はゴクリと唾を呑み込み、ゆっくりと噛み締めるようにその名前を呟いた。芹屋隼人は目を細めると、優しく微笑んだ。
「隼人、さん」
「はい」
(優しい、声)
「萌香さん、こっちを向いて」
指先が萌香の頬に触れ、そっと顔を上げさせた。
「あっ・・・」
温かな唇が萌香を包み込み、それは浅く、深く求められた。萌香の鼓動は波打ち、手足から力が抜けて行くような感覚に陥った。
(課長)
名残り惜しそうに離れる唇、萌香は恥ずかしそうに目を伏せた。しばらくの静寂の後、芹屋隼人も椅子に腰掛け、萌香の手を握った。
「萌香さん、大事なお話があります」
萌香は夢から醒めたような面差しで、芹屋隼人を見た。
「え、なんですか?」
「萌香さんは、どうして婚約指輪を嵌めて下さらないのですか?」
「え!?」
それは、恨めしそうな目で萌香の左手の薬指を見た。萌香は言葉に詰まり、両手を胸の前で左右に振った。
「あんな立派な指輪!私には、無理です!」
「お渡しした時も、あまり喜ばれていなかったようですし」
「あれには!理由があって!!」
萌香は、婚約指輪を受け取った夜、自分たちが契約結婚を交わしただけの関係である事を痛感した。そして、芦屋隼人に惹かれている自分がいる事に気付いた。その、テーパーカットの眩いダイヤモンドの指輪は、美しかったが悲しさが込み上げた。
「やはり、お気に召されなかったんですね」
「気に入っています!素敵です!」
そんな切ない思いを知ってか知らずか、芹屋隼人は肩を落とし項垂れてしまった。焦りが隠せない萌香は、その顔を覗き込んだ。
「それに!みなさん、私たちが結婚するなんて知りませんし!」
「じゃあ、発表しましょう!」
芹屋隼人は萌香を凝視した。
「なにをですか!」
「婚約した事をです!」
芹屋隼人は椅子から立ち上がろうと中腰になったが、萌香に手首を握られ、ふたたび椅子に腰掛けた。
(だって、私と課長は契約結婚なんだから!)
萌香は慌てて、芹屋隼人の手を握った。
「だっ、駄目です!ただの契約ですから!」
「契約?」
「そうです!」
萌香は、芹屋隼人に惹かれ始めている自分自身の感情に蓋をするように、『これは契約結婚なのだ』と繰り返した。すると、屋隼人は天井を見つめ、顔を手で覆った。そこにはどこか諦めに似たものがあった。
「あぁ、そうでした、契約でした」
萌香はその腕を握ると、力を入れて前後に振り、切実に訴えた。
「だから、蛍光ピンクの付箋も駄目です!」
「それも駄目なんですか?」
「駄目です!」
二人はしばらく黙ったまま、手を握り合っていた。すると、遠くから昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。