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第51話 熱い吐息の夜

 アイスクリームカップのバニラアイスはすっかり溶け、甘い匂いが漂った。静寂の後、萌香の背中に回された芹屋隼人の腕は、その肢体をカウチへと横たえた。柔らかな口付けが萌香の唇に降り注いだ。


「あ、課長」


 萌香は、一瞬、体を強張らせ、戸惑いの声で視線を逸らした。


「萌香さん、今夜、良いですか?」


 芹屋隼人は萌香を凝視したが、その瞳には孝宏への後悔と萌香への懇願が滲んでいた。


「あ、あの」


 萌香は、普段とは違う芹屋隼人の気弱な姿に戸惑いが隠せなかった。


(きっと、孝宏の事だ)


 萌香は、芹屋隼人に拒絶された、絶望的な面持ちの孝宏を思い浮かべた。芹屋隼人がこれから萌香を抱こうとする行為は、現実からの逃げや甘えでしかない。


「課長、課長?」


 萌香は小さく呟き、芹屋隼人の傷が、少しでも癒せるのならば受け止めたいと思い、大きな背中に、ゆっくりと腕を伸ばした。シーツの波間に、萌香の柔らかな髪が広がった。


「んっ」


 芹屋隼人の唇は、萌香を深く求めた。やがて萌香の甘い声が漏れ、交わされる熱い口付けは、その耳たぶを喰み、湿り気を帯びながら首筋を伝い降りた。それは鎖骨の窪みを這い、パジャマの襟元へと落とされた。胸元がはだけ、小さな丘が芹屋隼人を誘った。


(あ、臙脂色のネクタイ)


 萌香の目の前に、臙脂色のネクタイがぶら下がった。夕方、臙脂色のネクタイを締めた芹屋隼人の前を歩いていた、孝宏の強張った面持ちと小さく縮こまった背中が頭を過った。


(課長)


 芹屋隼人は萌香に跨ると、一瞬、なにかを躊躇うように目を伏せ、意を決したように臙脂色のネクタイを解いた。ベッドに投げ捨てられた臙脂色のネクタイ。衣擦れの音が萌香の肢体を火照らせ、思わず身を捩った。ワイシャツのボタンが外され、インナーに隠れた胸板が顕になった。


「萌香さん」


 芹屋隼人の低い声がその名前を囁いた。太ももを這い上がる指先が萌香のパジャマの裾を捲り上げ、下着に辿り着いた。その瞬間、熱を帯びた肢体はビクッと震えた。


「アッ」


 やがて2人の熱い息遣いが客室を満たし、次第にベッドの軋む音が激しくなった。



 時計の秒針の音が響く。



 静寂が訪れ、萌香と芹屋隼人は、汗に塗れたままベッドに横たわった。芹屋隼人のディオール オー・ソバージュの香りは、2人の熱い息遣いでより芳醇に客室に立ち込め、情熱の激しさを物語っていた。芹屋隼人は目を細めると、萌香の額に唇を落とした。


はぁ はぁ はぁ


 雫が顎を伝い、萌香の胸元を濡らした。芹屋隼人は、汗で濡れ濡った髪を掻き上げ、萌香の隣に寝転んだ。息が荒く、胸板が激しく上下していた。萌香は恐る恐るその肩に手を添えると、赤らんだ横顔をじっと見た。


「大丈夫ですか?」

「ありがとう、無理させちゃったね」


 芹屋隼人は萌香を力を込めて抱き締めると、耳元で囁いた。


「ありがとう」

「え、いえ。私でお役に立てたのなら嬉しいです」


 萌香は、腕を背中に回すと優しく抱き寄せた。


「ありがとう」


 目を細め優しく微笑むと、もういちど唇を軽く啄んだ。芹屋隼人の瞳の影は薄らぎ、萌香はその穏やかな笑顔に安堵の息を漏らした。


(良かった、いつもの課長だ)


 萌香も目を細め、和やかに笑った。その面差しに愛おしさが込み上がった芹屋隼人は、腕に力を込めると肢体を引き寄せた。


「ちょっ、課長!苦しいです!」

「萌香さんが可愛すぎて、まだ離したくありません!」

「課長!」


 苦しさに足をバタつかせた萌香は、自身が全裸である事に気が付いた。慌ててシーツの中に潜り込むと耳まで赤らめ、目だけを出して頬を膨らませた。


「今夜はこれでおしまいです!」


 萌香はシーツを掴んで顔を出し、芹屋隼人を軽く睨み付けた。


「分かっていますよ」


 芹屋隼人は少し残念そうな顔をすると、軽く溜め息を吐いた。そこで、ふと萌香の顔を見ると、思い付いたように鼻先をトントンと指で叩いた。


「萌香さんは、明日からお仕事に復帰ですよね」

「はい、長い間、お休みをありがとうございました」

「7日間の有給休暇、お引っ越しお疲れ様でした」


 そこで萌香は、引っ越しを終え、孝宏のマンションの郵便受けに落としたシリンダーキーの音を思い出し、視線を落とした。その仕草を見た芹屋隼人は、静かに頷くと萌香の髪を撫でた。萌香は芹屋隼人を見上げると、眉間にシワを寄せた。


「これで、良かったんですよね?」


 芹屋隼人はなにも言わず、目を細めてゆっくりと頷いた。男性の恋人がいる孝宏との未来は決して明るいものではなかった。その上、孝宏がバイセクシャルでマッチングアプリを利用していた事を知り、別れを決めたあの夜を振り返った萌香は、自分の決断が間違っていなかったと、そう背中を押して欲しかった。


「はい」


 萌香は、芹屋隼人の胸の温もりに縋るように顔を埋めた。芹屋隼人は微笑み、腕を伸ばすと優しくその肩を包み込んだ。息遣いが近い。2人は互いの鼓動を感じながらベッドに横たわっていた。


「あ」


 静かな時間が途切れ、萌香が芹屋隼人の顔を見上げた。芹屋隼人は不思議そうに首を傾げ、微笑んだ。萌香は、孝宏との生活を終え、芹屋隼人との新しい暮らしの始まりに思い及んだ。


「明日から、私、芹屋さんの家に住むんです・・・か?」

「そうですよ」


 芹屋隼人は当たり前の事を、なにを今更といった雰囲気でベッドから起き上がった。萌香も慌ててベッドから起き上がると、パジャマを羽織りボタンを留めて座り直した。芹屋隼人は、萌香の慌てぶりを愛おしそうに眺め、目を細めた。


「荷物はもう、送られましたか?」

「はい」

「では、明日には届きますね」


 芹屋隼人は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、蓋を開けて萌香に手渡した。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 受け取ったペットボトルはヒヤリと冷たく、それは全身へと伝わった。喉を滑り落ちる水は火照った身体の熱を鎮め、萌香は現実に引き戻された。


「あの、課長」

「なんでしょうか?」


 芹屋隼人は、ペットボトルの水を一気に飲み干し、萌香に振り返った。


「課長のお父さまは市役所にお勤めされているんですよね?」

「そうです」

「お母さまは保育士さんだとお聞きしました」

「ラッコ組の担任です」


 ソファに座った芹屋隼人は、満面の笑みでそう答えたが、萌香には納得がいかない事ばかりだった。昼間、芹屋隼人に内緒で訪れて見た住まいは、一般的な住居ではなかった。


「ラッコ組はどうでも良いんです」


 黄緑が鮮やかなコニファー針葉樹に囲まれた、白い煉瓦造りの二階建ての邸宅の壁には緑のアイビーの蔦が伸び、ベランダには、色とりどりの花が咲き乱れていた。


「課長、あれはお家ではありません」


 芹屋隼人は、なにを言っているのか理解出来ないという顔で腕を組み、首を傾げた。


「あれは私の家ですよ?」


 萌香は目を丸くして、シーツを握ると声を大にした。


「あれはお家ではなく、お屋敷です!」

「お屋敷、お化け屋敷みたいですね」


 芹屋隼人は口元を歪めると、吹き出して笑った。


「笑い事じゃありません!」


 萌香はベッドから降りると、その顔に詰め寄り肩を揺さぶった。芹屋隼人の首はガクンガクンと前後した。もう止めてとばかりに萌香の両手首を握ると、芹屋隼人はその顔を引き寄せ、口付けた。萌香の頬は赤らんだ。


「ゴッ!誤魔化されませんからね!」


 萌香は、芹屋隼人を突き放した。芹屋隼人は、肩をすくめて目を細めた。


「私の家を見て来られたんですか?」

「あ」


 気不味い面持ちの萌香は、パジャマの裾を握ると、観念したようにゆっくりと頷いた。


「ちょっと、見てみたくなって」

「そうですか」

「ごめんなさい」

「良いんですよ、奥寺さんは居ましたか?」


 萌香は、芹屋隼人の住まいに隣接した平屋建ての家から出て来た、かすりの着物に白い割烹着、白髪混じりの女性の顔を思い浮かべた。


「はい、お茶をご馳走になりました。あの方は、ご親戚の方ですか?」


 芹屋隼人は目を細め、口角を上げると当然のように驚きの言葉を口にした。それを聞いた萌香は、聞き間違えたか、ともう一度確認した。


「う、ば」

「そうです、私の乳母で、今は家の細々とした仕事をお任せしています」

「家政婦さんという事でしょうか」

「家政婦」


 芹屋隼人は眉間にシワを寄せて腕組みをした。


「奥寺さんは家族同然ですが、一般的にはそうなりますね」


 萌香は、サラリーマンの父を持つ、一般家庭で育った。家政婦、ましてや乳母など、テレビドラマか、映画の世界の話だった。萌香は、目の前のソファで脚を組む男性が、異次元の存在である事を知った。


「どうされましたか?」

「私、こんな人と契約結婚しちゃったんですか?」


 芹屋隼人の、自由奔放な本物の婚約者が戻るまでの期限付きの契約結婚とはいえ、萌香は、あの邸宅に住む自分の姿を想像する事は、到底出来なかった。


「こんな人とは失礼ですね」


 萌香は、少しばかり機嫌を損ね、眉を顰めた芹屋隼人を前に、これからの生活に思いを馳せ、呆然と立ち尽くした。


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