カーテンを開け放ったままの客室からは、明かりの疎らなビル群と、客待ちタクシーの行列が見えた。色とりどりの
(課長たち、どうしたのかな。やっぱり二次会とか行ったのかな)
カウチに寝転び、クッションを抱きしめた萌香の脳裏には、あの夜、イタリアンバルで、芹屋隼人が部下である孝宏に深々とお辞儀をした姿が浮かんでは消えた。
(今頃、孝宏と課長、2人でなにか話しているのかな)
あの時、様子を窺っていた幼馴染の慎介は『孝宏と、おまえの上司は仕事の話をしていた』と言ったが、慎介のぎこちない笑い方に、違和感しか残らなかった。
(課長が孝宏に頭を下げたのは、仕事の話じゃない!)
萌香が溜め息をついた時、静寂を切り取るようにフロントの内線電話が鳴った。萌香の身体は思わず飛び上がった。
(こんな時間になんだろ?)
時計の針は22:00を過ぎている。萌香は怪訝に思いながら、髪の毛を掻き上げるとカウチから起き上がり、電話の受話器を取った。丁寧な言葉遣いのホテルマンが、『長谷川さまにお客さまがいらしています、男性の方です』客室に通しても良いかという確認だった。
(男性)
そもそも男性で、萌香がこのホテルに連泊している事を知っているのは、芹屋隼人と慎介の2人だけだ。慎介が訪ねて来るならLIMEで連絡が入る筈だ。そうとなれば、この深夜の来客は芹屋隼人しかいない。萌香は、念の為その人物の特徴を訪ねてみた。
「お客さまは身長が高く、スーツ姿でございます。ネクタイは臙脂色、髪は黒のオールバックで整えておられます」
萌香は腕組みをして考えた。
(身長高い、スーツ姿、ネクタイは臙脂色、髪の毛は黒でオールバック)
夕方、ホテルの前を通り過ぎた芹屋隼人は、臙脂色のネクタイを締めていた。現在、フロントにいる人物は、芹屋隼人で間違いないと思われた。萌香は息を呑むと、ホテルマンに告げた。
「お通しして下さい」
萌香は、芹屋隼人がエレベーターで7階に上って来るまで、檻の中の動物のように部屋の中を何往復もした。そしてハッ!と思い付き、洗面所に駆け込んだ萌香は一瞬固まった。そして、慌ててアイブロウペンシルで眉を描き、髪の毛を整えた。
(この姿で課長に会うのは恥ずかしいけれど・・・仕方ない)
着衣はホテル備え付けの、パジャマだった。シティホテルらしい、ワッフル生地の白いワンピースで膝下が心許ない。
ピンポーン
客室の呼び鈴が鳴り、萌香の心臓は跳ね上がった。片目を瞑って、ドアの覗き穴から確認すると、やはりそこには、ネクタイの襟元を整える芹屋隼人の姿があった。
「今、今開けます」
「はい」
重いドアが開き、ダウンライトの下に立つ芹屋隼人の手には、コンビニエンスストアの白いポリエチレンの袋がぶら下がっていた。芹屋隼人は後ろ手でドアを閉めると、萌香を抱き締めて頬擦りをした。
「うわっ、課長!タバコ臭い!」
「違います、焼き鳥の匂いです」
「どっちでも良いです!離れて下さい!せっかくシャワーしたのに!」
「良い匂いがします」
萌香が、芹屋隼人を押し除けようとすると、コンビニエンスストアの袋ががさりと足元に落ちた。
「くっさ!課長はアルコール臭いです!」
「ビール、ジョッキに3杯です」
「ワインは強いくせに、ビールには弱いんですね!」
芹屋隼人は目を細め、ご機嫌な笑顔でカウチに倒れ込んだ。
「もう!タクシーに乗ってご自宅にお帰りになられてはどうですか!?」
萌香は、脱ぎ散らかした革靴を揃え、床に落ちたコンビニエンスストアの袋をテーブルの上に置いた。
「嫌だ」
「なにが嫌なんですか!」
芹屋隼人は、コンビニエンスストアの袋を指差し、クッションを枕にしてうんうんと頷きながら、なにやらモゴモゴと呟いている。
「なに、これ、アイスクリームじゃないですか!」
「一緒に食べたくてぇ」
「こんな時間に!」
袋の中には、霜の付いた冷たいアイスクリームが2個、微笑ましく並んで入っていた。
「バニラは好きですか」
「好きですが!」
「私の事は好きですか」
「好きですが!」
「なら、一緒に食べましょう」
芹屋隼人はふらつく手でカウチから起き上がると、目をシパシパさせ、座面をポンポンと叩いて萌香を手招きした。
(課長、ダメだこりゃ)
萌香は、酔っ払いになにを言っても仕方がないと観念し、大きな溜め息を吐き、無言でアイスのカップの蓋を開け、スプーンを添えると芹屋隼人に手渡した。
(こんな時間にアイスとか、有り得ないです、課長!)
萌香が渋々、アイスクリームをスプーンですくっていると、芹屋隼人がその顔を覗き込んだ。ギョッとして振り向くと、口を鳥のヒナのように開けている。
「な、なんですか」
「はい、あ〜んです」
「・・・・課長」
萌香は呆れつつ、スプーンを突っ込んだ。
「ふグッツ!」
「美味しいですか!?」
「もうちょっと、優しくできませんか」
「ご自分でお召し上がりください!」
カウチに並んで腰掛け、深夜にアイスクリームを食べるシュールさに、萌香は小さく笑った。
「・・・・・」
萌香は、アイスクリームのカップが半分になった頃、意を決して、イタリアンバルでの疑問をもういちど投げ掛けてみた。
「課長、あれは、お仕事の話じゃないですよね」
ランプシェードの逆光の中、やや酔いが冷めた芹屋隼人は食べ掛けのアイスクリームのカップをテーブルに置いた。
「あれは、とはなんの事でしょうか?」
芹屋隼人は萌香を一瞥すると、視線をテーブルに落とした。
「誤魔化さないで下さい」
アイスクリームのカップをテーブルに置くと、テーブルに水滴が滲んだ。
「イタリアンバルでの事です」
「あぁ、そのお話ですか」
「課長が、たか・・吉岡さんにお辞儀をしていたのはどうしてですか!?」
萌香は低い声で語気を強めた。芹屋隼人は軽く溜め息を吐くと、どこまで萌香に話すべきか迷いながら、ゆっくりと向き直った。
「まえにもお話ししましたが、あれは私と吉岡くんの問題です」
「それは、それは分かりますが!」
芹屋隼人はカウチの背もたれに寄り掛かると、天井を見上げた。そして目を瞑り、静かに呟いた。
「ひとつだけ言える事は、吉岡くんとお別れをして来ました」
「それは、送別会ですから」
萌香は、なにを言っているのか分からないと、眉を顰めながら首を傾げた。
「いえ、上司と部下ではなく、ひとりの人間としてお別れをして来ました」
「ひとりの人間、ですか?」
「はい、私は吉岡くんの言葉を受け入れる事が出来ませんでした」
「吉岡さんの言葉?」
芹屋隼人は、目を細めると悲しげな面持ちで萌香を見つめた。
「少し、悲しくなりました」
「悲しく、ですか?」
「だから、萌香さんに会いに来ました」
低い声が萌香を包んだ。
「萌香さんの、顔が見たくて」
「そうだったんですね」
萌香は息を呑んだ。
「・・・・・・」
ランプシェードの明かりが揺らめき、2人の影が柔らかく滲んだ。芹屋隼人は一瞬黙り、その腕を萌香の背中に回した。抱き締められたその顔は見えなかったが、芹屋隼人の肩が小刻みに震えていた。
(課長、泣いてる?)
萌香は、初めて見る、気弱な芹屋隼人の背中を優しく撫でた。そして萌香は思った。
(個人的な、お別れ)
確かに、孝宏は芹屋隼人の言葉に素直に従った。それは尊敬する上司と部下という間柄だと思っていた。然し乍ら、孝宏は、芹屋隼人が愛用しているパフューム、ディオールのオー・ソバージュを身に付け始めるなど、尊敬の域を遥かに超えていると、萌香は気付いた。
(まさか)
萌香と芹屋隼人が笑い合う機会が増えた頃から、孝宏は、自宅で殆ど口も聞かず、社員食堂でも無視するようになった。萌香は意味が分からず、戸惑いが隠せなかった。
(まさか)
孝宏の、異様な行動は日に日に顕著となり、芹屋隼人のビジネスバッグや革靴を揃いで買い求め、ネクタイの結び方まで模倣するようになっていた。
(まさか)
萌香は、ある仮説に辿り着き、目を見開き息を呑むと、顔色を変えた。
(まさか)
孝宏がバイセクシャルである事が明らかになった今、芹屋隼人がイタリアンバルで深々とお辞儀をしていた理由はただひとつ。孝宏が、芹屋隼人にその思いを打ち明けたに違いなかった。
(孝宏が本当に好きだったのは、課長だったのね)
孝宏と芹屋隼人の出会いは6年前の新人研修だった。萌香の脳裏には、『芹屋課長が俺のトレーナーだったんだ』と目を輝かせて話していた、あの日の孝宏の笑顔が浮かんでは消えた。
(私、孝宏の事、なんにも分かっていなかったんだな)
萌香は悲しげな笑みを漏らした。
「課長、そのままで聞いて下さい」
「・・・え」
萌香は、芹屋隼人の背中に回した腕に力を込め、その耳元で囁いた。
「私たち、秘密が出来ましたね」
「秘密?」
「誰にも言わない、2人だけの秘密です」
芹屋隼人の身体に力が入り、一瞬、息を呑んだ。
「萌香さんは、知っていたんですか?」
「なんの事でしょう?」
萌香の心中は、孝宏への憐れみと、芹屋隼人への想いが交差し、複雑だった。叶うはずのない恋情を抱き続けた孝宏を思うと胸は切なく、萌香はぎゅっと目を瞑った。