萌香を乗せたタクシーは、ホテルの車寄せに停まった。ドアボーイに恭しく迎え入れられ、フロントでは声を掛けられた。
「長谷川さま、お帰りなさいませ」
「ただいま帰りました」
萌香は一瞬、足を止めて会釈した。なるほど、1週間も泊まっていれば名前も覚えられるだろう。
(あちゃー、名前、覚えられちゃってるし)
しかもこのフロアでは、180センチメートルの、無駄に目立つ道路交通標識のような芹屋隼人と、言い争いの小競り合いを2度も起こしているので、他の宿泊客よりも目立っていたのだろう。
(まさか、今日は来ていないよね)
萌香は、姿勢を低くしてチェックインカウンターの隙間から、ラウンジを覗いて見た。いつも、芹屋隼人が独占していた革のソファには誰も座っておらず、新聞を読んでいる男性が、チラリと萌香を一瞥しただけだった。
(なんだ、いないのか)
気が付けば、芹屋隼人が客室に尋ねて来る事を楽しみにしている自分がいる事に気付き、肩透かしをくらったような萌香は、慌てて顔を赤らめた。そこでふと、視線を窓の外に向けると、見知った顔が群れになってホテルの前を通り過ぎた。
(あれ?営業のみんなだ)
肩を叩きながらはしゃぐその姿は、萌香が勤務している銀行の営業課の男子行員だった。その群れの一歩後ろには、芹屋隼人の静かで穏やかな笑顔もあった。
(課長も行くんだ、珍しい)
芹屋隼人は、上司の接待に付き合う事はあっても、営業課の飲み会に顔を出す事は殆どない。そこで、昼間、芹屋隼人の住まいでお手伝いの奥寺さんから聞いた言葉を思い出した。
『せっかく来て下さったのに、生憎、坊ちゃんは送別会だとか』
萌香は、芹屋隼人が”坊ちゃん”と呼ばれる立場である事に驚き、すっかり忘れていたが、今夜の飲み会は送別会だと言っていた。
(そうだ、きっと孝宏の送別会だ)
それは、富山支店に人事異動する、吉岡孝宏の送別会である事は明らかだった。萌香は、自身がバイセクシャルである事が露見する事を恐れ、富山支店への異動を願い出た、孝宏の短絡的で愚かな行動に、溜め息を吐いた。
(孝宏)
男子行員たちは、ネクタイを緩めながら、繁華街へと向かい、横断歩道を渡った。
(孝宏と課長は、あの夜、何を話してたの?)
偶然、見てしまった、イタリアンバルでの2人の遣り取りに不可思議な思いを抱く萌香は、あの夜の真実を知りたい衝動に駆られ、ホテルのエントランスを飛び出していた。
賑やかな雑踏、煌びやかな夜の街。萌香は、孝宏と芹屋隼人の後ろ姿を、複雑な思いで見送った。
キンキンに冷えたビールジョッキが高々と挙げられ、あちらこちらで交わす音が響いた。男性行員ばかりの酒の席は無礼講だ。
「乾杯ー!」
乾杯の音頭と共に、孝宏は、”あんたが主役”と書かれたタスキを肩に掛けられた。そして、瓶ビールをマイク替わりに握らされ、別れの挨拶とこれからの抱負を一言と背中を叩かれた。
「吉岡!泣いてるんじゃねぇぞ!」
「泣いてねえよ!」
そこは居酒屋の2階で、掘り炬燵式の胡桃の長テーブルが置かれていた。天井は焼き鳥の炭火の煙で燻り、壁一面には色褪せた手書きのメニューが囲むように貼られている。ダウンライトが和の空間と調和し、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「なんでまた、急に異動願いなんか、出したんだよ」
「親父のじいちゃんが、具合が悪いんだよ」
「おまえに、じいちゃんいたんだ」
「おう」
「そりゃ、大変だな。頑張れよ」
嘘も方便、真実を明かす訳にはゆかない孝宏の笑顔は引き攣った。そこで孝宏は、会話を遮るように、鳥の唐揚げに箸を付けた。サクサクとした衣を頬張ると、中からジューシィーな肉汁が染み出し、孝宏はその熱さに四苦八苦していた。テーブルの向に座っていた行員が、枝豆を食べながらすかさず問いただした。
「長谷川はどうするんだ?」
「え?萌香か?」
「当たり前だろ、他に誰がいるんだよ」
孝宏は、鳥の唐揚げを丸呑みした。喉を熱い塊が落ちていった。
「おまえら、同棲してたろ?長谷川も連れて行くのか?」
「萌香は、連れて行かねぇ」
「なんで!?結婚するんじゃなかったのか!?」
孝宏は視線を逸らしたが、女っ気のない酒宴は一気に盛り上がった。
「別れた」
「別れた!?3年も同棲していて!?」
その隣で、ポテトサラダを銘々の皿に取り分けていた行員が、メガネのツルを上げながらボソリと呟いた。
「長谷川さん、最近、芹屋課長と仲が良かったみたいですからねぇ」
「そうだったかな?」
萌香と芹屋隼人の話題は、孝宏を置いてきぼりにして、どんどん膨らんでいった。
「ほら、このまえの社員食堂のこんにゃく発言」
「あぁ、おばちゃんたちが騒いでた
「長谷川が、婚約をこんにゃくって誤魔化したってやつ」
「苦しいわー、誤魔化せてねぇし」
ドッと笑いが巻き起こったが、孝宏の面持ちは冴えなかった。
「長谷川と課長が、婚約したって話、おまえ、知ってた?」
孝宏は、萌香に自身がバイセクシャルだと知られてからは、外回りの仕事ばかりで営業課に顔を出す事はなかった。当然、社員食堂での出来事など知る由もなかった。
「萌香と芹屋さんが・・・婚約した?」
その衝撃の大きさに、孝宏のビールジョッキを持つ手が震えた。
「なに、おまえ、課長の事、名前呼びなのか?」
「あ、あぁ。新入社研修のチームトレーナーだったんだ」
「へぇ、初耳!」
隣にいた行員が、指折り数え出した。
「6年も前の事じゃん、よく覚えてたな」
「あ、あぁ。」
「俺、もう忘れたわ」
「俺も、顔も覚えてねぇわ」
「・・・そ、そうか?」
孝宏は、テーブルの端で部下と歓談する芹屋隼人の面差しを一瞥した。孝宏と萌香の破局の原因が芹屋隼人だという事で話題は一件落着、それぞれがビール瓶や烏龍茶の瓶を片手に散らばって行った。
(芹屋さんが婚約・・・・)
肩にタスキを掛け、どこか間抜けな孝宏は、1人上座でポテトサラダを摘んでいた。既にビールジョッキは温く、口にしても不味かった。そこへ、冷えたビールジョッキを持った人影が座った。
「芹屋さ・・課長」
芹屋隼人は目を細めると、優しい目で微笑みビールジョッキを孝宏に手渡した。孝宏の心臓は緊張で跳ね上がった。
「吉岡くん、ご苦労さまでした」
「課長」
ジョッキがカツンと重なり、芹屋隼人はビールに口を付けた。孝宏は、イタリアンバルで吐露した、芹屋隼人への持て余した思いを飲み干すように天井を仰いだ。そこで芹屋隼人がテーブルに肘を突き、他の行員に聞こえない声色で孝宏に話し掛けた。
「君が富山支店への異動を願い出たのは、私が原因だろうか?」
「え」
孝宏は視線を逸らせた。
「そんな訳では・・あり・・ません」
孝宏は、空になったビールジョッキをテーブルに置くと、ゆっくりと俯いた。芹屋隼人は淡々と続けた。
「いつでも、戻って来て下さい」
「・・・・」
孝宏は縋るような目で、芹屋隼人を凝視した。
「私は、君からの告白を、誰にも話したりはしません」
そこで、孝宏の顔は赤らんだ。掘り炬燵の死角で、芹屋隼人の小指が、孝宏の小指に触れた。
「指切りげんまんです。約束します」
孝宏の口元は歪み、眉間にシワが寄った。今にも泣き出しそうな面差しに、芹屋隼人はふっと微笑んだ。孝宏は、目線をテーブルに落としながら、声を震わせて呟いた。
「芹屋さん、手、握って良いですか」
「・・・・」
「気持ち悪いですよね」
「今夜だけですよ」
孝宏は、芹屋隼人の優しげな声色に目を見開いた。
「良いんですか」
「はい」
孝宏は、恐る恐るその手を握り、その温かさにギュッと目を閉じた。
(これが、これが芹屋さんの手)
「吉岡くん、元気で」
その手は、砂時計が時を刻むようにゆっくりと離れた。
「芹屋さん」
「富山でも頑張って」
「・・・あ」
孝宏は、