有給休暇も残り1日。萌香は、慎介のアパートで、宅配便の配送伝票に送り主の住所氏名を記入していた。
「これって、孝宏のマンションの住所で良いのかな?」
困惑の表情の萌香は、ボールペンの動きを止めた。その隣で胡座をかいていた慎介は呆れた表情で伝票を覗き込んだ。
「なに寝言、言ってんだよ。実家の住所で良いじゃん」
「そ、そうか」
萌香のボールペンは辿々しく、送り主の住所と自分の名前を書いた。芹屋隼人の住まいは
「いいとこ住んでるじゃん、持ち家ぽくね?」
「そうかな」
確かに、アパートやマンション名は書かれていなかった。そこで、慎介はテーブルに身を乗り出し、興味津々と萌香の顔を覗き込んだ。
「おまえ、いつの間に婚約したんだよ」
「えっ・・・」
ボールペンの動きが止まった。
「今までそんな話なかったじゃん、アパートだって探してたし」
「そ、それは、突然、プロポーズされて」
萌香は視線を逸らし
「名前は!?」
「芹屋さん」
「芹屋なにさんだよ!」
「芹屋隼人さん」
「ふーん、名前イケメンだな」
萌香は、この場は凌げたとばかりに安堵のため息を吐いたが、慎介は目を輝かせた。
「なに、銀行のやつ!?」
「上司なの」
「マジか!部長!?まさかの社長!?」
慎介の、息も付かない矢継ぎ早の質問は止まる事をしらなかった。萌香は、鬱陶しいものを見るような目で、慎介に向き直った。
「部長でも社長でもないわ!おなじ営業課の課長!」
「なんだよ、課長かよ!」
「なによ、課長だと問題ある!?」
「面白くねぇなぁーって」
萌香にとってこの婚約は、面白い、面白くないどころの騒ぎではなかった。課長はただの上司ではなく、実はとある会社の後継者だった。
(その婚約者さんが消えちゃったんだよね〜、ありえないわ〜)
萌香は、忽然と姿を眩ませた、その婚約者の身代わりとして選ばれたのだ。萌香の視線に気付いた慎介はたじろいだ。
「なんだよ」
「いや、あんたに言っても理解出来ないと思って」
「なにがだよ」
「この複雑な乙女心が」
「誰が乙女だよ!」
慎介は失笑し、萌香は手近にあった新聞紙でその頭を叩いた。
「痛ってぇな!そのすぐ殴る癖、やめろよ!」
「うるさい!邪魔しないで!」
萌香は、中指にタコを作りながら、5枚目の配送伝票に名前を書いた辺りで目を細めた。芹屋隼人もこうして同じように住所を書いてくれたのだと思うと、胸のあたりが温かくなった。
「なに笑ってんだよ気味が悪ぃな」
「うるさい!伝票、貼ってよ!」
萌香と慎介は、その後も黙々と作業を続け、12個の大小の段ボール箱に配送伝票を貼った。萌香の右指はジンジンと痛んだが、これからの新しい生活を考えると、胸はワクワクと高鳴った。
「なぁ、萌香」
「なによ」
引っ越しには蕎麦がつきものだと、慎介がカップ麺を準備した。カップ麺に熱湯を注ぐ事5分間、萌香と慎介は腹の虫を鳴らしながら、ローテーブルを囲んで座った。
「気になるんだけどさ」
5分のアラームが鳴り、2人はカップ麺の蓋をぺりぺりと開けた。立ち上る湯気、出汁の香りが食欲をそそった。慎介は、七味唐辛子を振りかけると、ふうふうと蕎麦を啜っている。萌香は箸を持つと、その湯気をぼんやりと見つめた。
(課長なら、もうしばらく待ってるよね)
萌香の脳裏には、テーブルに肘を突いてカップ麺が冷めるのを待つ、猫舌の芹屋隼人の面影が浮かんだ。
「おい、聞いてんのかよ」
「あ、ごめん、なに?」
萌香は、慎介に声を掛けられ我に帰った。
「気になるんだけどさ」
「なにが?」
慎介は口の周りにネギを付けながら萌香を凝視した。萌香は目を細めて失笑すると、慎介にティッシュを手渡し、口元を指差した。
「おう、さんきゅ。でさ、見に行かねぇ?」
「なにを?」
「その、課長んち」
「はぁ!?なんであんたが!」
慎介は両手をぶらぶらさせながら、不敵な笑みを漏らした。
「あ〜、まじ疲れたわ〜」
「あんた、伝票、貼っただけじゃない!」
「あ〜、見たいわ〜」
萌香は一瞬、躊躇った。けれど確かに、萌香も芹屋隼人の暮らしぶりには興味がある。荷物を送り、『さぁ、初めまして仮の住まい』というのも味気なく、心構えも必要だ。萌香は、蕎麦を啜りながら興味がない振りをして、慎介の提案に乗る事にした。
「
萌香と慎介はタクシーの後部座席に乗り込んだ。慎介は、幼稚園児が初めてバスに乗って動物園にゆくような感覚で、腰が座面に着いていない。
(あぁ、ドキドキする!)
萌香は流れて消える街路樹や、初めて見る街並みに心揺さぶられていた。交差点でタクシーが停まるたびに、このまま直進するのか、右に行くのか左に折れるのかと、運転席のフロントガラスに釘付けになった。
「はい、お客さん。2,870円ね」
「あ、はい」
タクシードライバーの声で目的地に到着した事を知った萌香は、千円札を3枚取り出した。『お釣りは結構です』と丁寧に断ると、ドライバーは頬を緩めて機嫌よくアクセルを踏んだ。
「どっちだと思う?」
萌香が、こぢんまりとした平屋建ての住宅を指差した。
「え、こっちじゃない?」
芹屋隼人が指定した住所には、美しい黄緑色の
「なんじゃこりゃ」
2人は顔を見合わせて、その邸宅を仰ぎ見た。
「こっちが聞きたいわよ」
白い煉瓦造りの壁には緑のアイビーが枝を伸ばし、2階のバルコニーには色彩豊かな花が咲き誇るハンギングがかけられている。石畳の玄関先にはガレージがあり、コマーシャルでしか見た事のない高級車が2台駐車していた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
興味津々の慎介が真鍮の扉を開け、一歩前に踏み出した。抜き足差し足で平屋建ての引き戸を見上げると、
「萌香!」
「あんた、なに考えてんのよ!不法侵入よ!」
慎介は頬を赤らめ、興奮した様子で平屋建ての住宅を指差した。
「芹屋じゃねぇ!」
「は?」
「
「は?」
慎介はその場で飛び跳ね、右の邸宅を指差した。
「萌香!こっちのデケェのが芹屋んちだ!」
「ばっ、馬鹿!声が大きい!」
萌香が、慎介の口を塞ごうとしたところで、平屋建ての奥寺さんちの引き戸がカラカラと開いた。萌香と慎介は逃げる事も隠れる事も出来ず、その場に立ち尽くした。
(不審者確定!通報される!警備保障会社ニャルソック!)
そこには、白髪を高く結あげ、かすりの着物に白い割烹着の、70代前半と思しき女性が、萌香と慎介を前に目を丸くしていた。
「あ、あの、こんにちは」
萌香が、恐る恐る頭を下げると、その女性の表情はパッと明るくなり、草履の音が近付いて来た。
「ようこそいらっしゃいました」
その突然の歓迎に、萌香と慎介は慌てて顔を上げると、もう一度お辞儀をし直した。女性は、萌香の顔を優しく微笑みながら覗き込んだ。
「お顔を上げて下さいませ」
「あ、は、はい」
そこには人生の年輪が刻まれた和やかな面差しがあった。萌香が名乗ろうとすると、奥寺さんは萌香の名前を口にした。
「長谷川萌香さんですね?」
「あ、はい」
(なんで知ってるのー!?)
奥寺さんは、慎介を一瞥するとにこやかに首を縦に振った。
「あ、俺、私は田辺慎介です。萌、長谷川さんの幼馴染です」
「そうですか、そうですか」
萌香が、奥寺さんを凝視していると、彼女は割烹着のリボンを結び直しながら家へと招き入れた。
「お茶でもどうぞ」
「あ、あの課長、芹屋さんは」
慎介が、周囲を見回していると、邸宅の扉の脇に
「萌香!あっちが芹屋隼人の家だぞ!」
「アッ!しっ!失礼でしょ!」
萌香が、唇の前で指を立て、慎介を諫めたが、興奮収まらずといった感じでその場で足踏みをしている。それを微笑ましく見ていた奥寺さんは、萌香と慎介を家の中に招き入れた。
(・・・・この人はいったい何者!?)
萌香が、玄関の
「さぁさぁ、どうぞどうぞ」
こざっぱりとした和室の座卓に正座した萌香と慎介は周囲を見回した。奥寺さんは備え付けのキッチンでヤカンに水を入れていた。
「せっかく来て下さったのに、生憎、坊ちゃんは送別会だとか」
「ぼ、坊ちゃん?」
萌香は我が耳を疑った。
「坊ちゃん・・・とはどなたの事でしょうか?」
「隼人さんの事ですが?」
奥寺さんは、当然の事のように頷きながら、ヤカンをコンロの火に掛けた。
「は、はぁ!?」
「なに、おまえんとこの課長ってお坊ちゃんなの!?」
慎介は萌香に詰め寄り、背中を叩いた。
「しっ!」
確かに、芹屋隼人はいずれ会社を継ぐと言っていた。けれど父親は市役所の職員で、母親は保育士だと聞いている。万が一、芹屋隼人の両親と同居であったとしても、こんな邸宅に住む事になるとは思いも寄らなかった。