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第47話 絡める指先

 背中から抱き締められた萌香は、芹屋隼人の鼓動とその息遣いに、これまで感じた事のない安心を覚え、初めて心から安らいだ。


「萌香さん、大丈夫ですか?」


 芹屋隼人は穏やかな声で、萌香を気遣った。



静かな時間は、緩やかな川のように流れ、いつしか萌香の涙の雫も乾いた。


「ごめんなさい・・・自分でも驚いています」


 萌香の中で、契約結婚がどういうものか理解し、芹屋隼人に本当の婚約者がいる事を知っていたにも拘らず、嘘偽りの婚姻届と婚約指輪を指に嵌めた途端、衝動的な悲しみが襲い、差し出されたハンカチを叩き落としていた。


「萌香さん、私はあなたに重い荷物を背負わせるのかもしれない」


 芹屋隼人はカーペットに跪き、萌香のきつく握った拳を優しく包んだ。その手のひらの温かさに、萌香の胸は締め付けられた。


「それでも、この契約を受けてくれるだろうか?」

「・・・課長」

「身勝手な話だが、私には、萌香さんしか考えられない」


 これが本当のプロポーズならばどんなに嬉しいだろう。けれど現実を呑み込むように、萌香は大きく息を吸って深く吐いた。


「わかりました」


 萌香は、意を決したようにその目を見つめ、口角を上げた。精一杯の笑顔だった。すると、芹屋隼人の張り詰めていた糸が緩み、安堵の溜め息を吐いた。


「ありがとう」

「私こそ、ありがとうございます。こんな綺麗な指輪、初めて見ました」

「喜んで頂けて、嬉しいです」


 そこで萌香は目を伏せて手のひらをゆっくりと開いた。左手の薬指には、ダイヤモンドの婚約指輪が光を弾いていた。


「でも・・・この指輪は、お返しするんですよね?」


 萌香は、婚約指輪を返す時が2人の別れだと思っていた。芹屋隼人は一瞬息を呑み、萌香の指に自らの指を絡めた。


「萌香さんが、嫌でなければ受け取って下さい」

「もし、要らないと言ったら?」

「考えてもいませんでした」


 芹屋隼人は肩をすくめると、目を細めて少し悲しげに微笑んだ。


「・・・課長らしいですね」

「褒め言葉だと受け取っておきます」

「褒めていませんよ?」


 萌香は、重苦しい雰囲気を取り払うように、頬を膨らませながら口を尖らせた。ランプシェードの明かりが、2人を柔らかく包み込み、自然と微笑みが溢れた。


「コーヒーでも飲みましょうか」

「あ、私が」

「萌香さんは座っていて下さい、それともその顔を洗いますか?」


 芹屋隼人の言葉に驚いた萌香は、ソファから立ち上がり、慌てて洗面所に駆け込んだ。萌香は、言葉を失った。


(う、嘘でしょ?)


 萌香の顔は、涙でアイラインが滲み、黒い輪はまるでタヌキかレッサーパンダのようだった。まさか自分が、こんな間抜けな顔で芹屋隼人の告白を聞いていたとすれば、彼は余程、笑いの忍耐能力に長けているとしか言いようがなかった。


「みっ、見ちゃ駄目ですよ!」

「どうしたんですか?」

「とにかく、こっちは見ないで下さい!」


 萌香は、リュックサックのメイクポーチを素早く取り出すと、洗面所に駆け込み鍵を掛けた。そのおどけた様子を見ていた芹屋隼人は、笑いを堪えるのに必死で、肩を小刻みに震わせた。


(あぁ、もう信じられない!ファンデーションもよれてるし!)


 萌香は、メイクと一緒に涙を洗い流すと、アイブロウペンシルで眉を描き、気持ちを落ち着けて淡いピンクの口紅を塗った。けれど、あまりに慌てて顔を洗ったので、パーカーの紐が濡れてしまい気持ちが悪かった。


(最低!)


 パーカーの紐の湿り気を、タオルで吸い取りながらフロアに戻ると、芹屋隼人が、コーヒーミルで珈琲豆を挽いていた。その芳醇で力強い香りは、涙で惚けていた頭をスッキリと目覚めさせてくれた。


「お帰りなさい」

「ただいま帰りました!」


 どこから帰って来たというのだろう。すっかり整った顔の萌香の姿に気付いた芹屋隼人は、その変身ぶりに失笑しそうになるのを堪えた。


「萌香さん、座っていて下さい」

「自分で挽くんですね、初めて見ました。いい香りですね」

「はい、良い香りです」


 コーヒーフィルターからポタリポタリと落ちるジャマイカの雫は、2人の時間をゆっくりと刻んだ。


「お待たせしました」

「ありがとうございます」


 コーヒーカップをテーブルに置いた芹屋隼人は、萌香の向かいのソファに深く腰掛け、彼女を優しく見つめた。


「あ、あんまり見ないで下さい」

「なぜですか?」

「恥ずかしいです」


 萌香は、照れくさそうに頬を赤らめながら、視線を逸らした。


「あぁ、タヌキだったからですか!?」

「言うと思った!」

「思いましたか?」

「課長にはデリカシーがありません!」


 萌香は、芹屋隼人のニヤけた顔を睨みつけながら、コーヒーを啜った。


「課長、コーヒー飲まないんですか?」

「あぁ、猫舌なんですよ」

「そうなんですか、知りませんでした」


 萌香は、芹屋隼人のまだ見ぬ顔や、日常の些細な事を知り、共に積み重ねていける事に幸せを感じ、温かい気持ちになった。それは手にしたコーヒーカップのようで萌香の心を優しく満たした。


「萌香さん、どうしましたか?」


 顔を挙げると、目を細めで微笑む芹屋隼人の面差しがあった。


「いえ、幸せだと思って」

「幸せ、ですか?」


 芹屋隼人は、一瞬、驚いたような顔をして、柔らかく聞き返した。


「はい、課長と一緒にいると幸せで、嬉しいです」


 萌香は、左の薬指のダイアモンドよりも眩い目で笑った。ふとそこで、スーツケースに目を留めた芹屋隼人が怪訝そうな顔をした。


「そういえば萌香さん」

「な、なんですか?」


 萌香は、その面持ちの変化に思わず身構えた。


「お引っ越しされたんでしたよね?」

「は・・・・い」

「次のお住まいは、どちらに?」

「そ、れが」


 萌香は、自分が希望する条件の賃貸物件が見つからない事を話した。


「萌香さんが希望する条件とはなんですか?」

「ええと、部屋は2階で、バストイレは別で・・・」


 萌香が指折り数えた条件に、芹屋隼人は、然もありなんと腕組みをして頷いた。


「吉岡さんのマンションから持ち出された荷物は、どうされたのですか?」

「ええと、それが・・・」


 萌香は、孝宏のマンションから持ち出した自分の荷物は、幼馴染の部屋に預けてある旨を説明した。芹屋隼人の眉がピクリと動いた。


「幼馴染とは、勿論、女性ですよね?」


 一瞬の間の後、萌香はおずおずと答えた。


「すみません、男性です」


 萌香の荷物の預け先が、男性の部屋だと知った芹屋隼人の顔色が変わった。


「幼馴染の方の名前は、慎介さん」

「はい」

「もし、その慎介さんが、ダンボールを開けたらどうするんですか!?」

「そんな、ダンボールを開けるなんて面倒な事、しませんよ!」


 芹屋隼人は腕組みをすると、天井を見上げて暫し考え込んだ。


「ダンボールを開けて、お洋服の匂いをクンクンするとか!」

「それは、課長の趣味なのでは!?」


 萌香は、芹屋隼人がまた突拍子もない事を言い出したと、眉間にシワを寄せて口元をへの字にした。けれど本人は至って真剣な様子で、テーブルに肘を突いて唸っている。


「萌香さん」

「はい」

「契約結婚の萌香さんのメリットとして、同棲解消後の生活が安定するまで私がフォローするとお約束しましたよね!?」


 芹屋隼人はテーブルから身を乗り出し、萌香に迫った。萌香は目を細めて記憶を手繰り寄せ、ああ!と手を叩いた。


「契約結婚に、もれなく付いてくる特典でしたよね?」

「特典、そんな雑誌の付録みたいに言わないで下さい」

「ごめんなさい」


 芹屋隼人はおもむろに立ち上がり、背広のポケットから鍵を取り出した。


「これをどうぞ」

「これはなんの鍵ですか?」


 ダウンライトの下で鈍く光るシリンダーキーは、玄関の鍵だと思われた。


「これは、玄関の鍵ですか?」

「はい」


 芹屋隼人は静かに頷いた。


「どこの玄関の鍵ですか?」


 萌香は鍵を手に取ると、クルクルと回して見た。


「私の家です」


 芹屋隼人は穏やかな声で言った。


「課長の家」

「はい」

「なぜ、課長の家の鍵が、ここにあるんですか?」


 萌香は首を傾げ、コーヒーを一口含んだ。芹屋隼人は、萌香を凝視した。


「一緒に住みましょう」

「は・・・い!?」


 萌香は目を白黒させて、コーヒーを飲み込んだ。


「婚約者が一緒に住まないなんて不自然です!」


 芹屋隼人は、テーブルをガタガタさせて動かした。白いコーヒーカップがカタカタと揺れ、コーヒーがカップソーサーに染みを作った。


「一緒に住みましょう!」

「そんなに力説しないで下さい!」


 翌日、萌香の手には、数枚の配送伝票が手渡された。それには、芹屋隼人の住まいと思われる住所が記入されていた。萌香はそれを見て呆然とした。

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