芹屋隼人は、片手でカーテンを引きながら片腕で萌香を支え、その肢体をカウチにゆっくりと横たえた。萌香は、背中に
(この香り)
芹屋隼人のディオール オー・ソバージュの香りが萌香を包み込む。背広を脱ぎ、指先でネクタイを緩めるその仕草は、大人の男性の魅力に溢れ、萌香は、その仕草に見惚れた。
(課長)
芹屋隼人は、優しげに目を細めた。
「萌香さん」
熱を帯びた芹屋隼人の声が、萌香の唇に降り注いだ。小鳥が啄むような口付けは浅く、海のように深く、萌香の吐息に絡みついた。
(課長)
萌香が、その熱に浮かされていると、不意にその唇は離れた。
「萌香さん、目を開けて下さい」
萌香が夢から醒めたように瞼を開くと、目を細めて和やかに微笑む芹屋隼人の面差しがあった。
「起きられますか?」
我に帰った萌香が肩肘を突いて起き上がると、芹屋隼人の手のひらには、ペールブルーに白いサテンリボンが結えられた小箱があった。萌香の心は震え、芹屋隼人と小箱を交互に見つめた。
「萌香さん、あなたに贈ります」
芹屋隼人は愛おしそうにその名前を呼ぶと、萌香の手に小箱を握らせた。萌香はその羽根のような重みに、息を呑んだ。
「開けてみて下さい」
「・・・・」
萌香は声を出す事も忘れ、静かに白いサテンリボンを解いた。ペールブルーの包装紙を、破れないように丁寧に開いた。包装紙の中には白い小箱が入っていた。萌香の指先が震えた。
「課長、これ」
白い小箱をゆっくりと開けると、中には白いジュエリーケースが入っていた。萌香の目は潤み、芹屋隼人を凝視した。優しい目が頷いた。
「私の気持ちです、受け取って頂けると嬉しいです」
その声は、少し震えているような気がした。萌香は大きく息を吸うと、ゆっくりと吐き、その蓋を開けた。ジュエリーケースの蝶番が力強く開き、台座の上で光を弾いた。
「・・・指輪」
それは、テーパーダイヤモンドが螺旋を描くプラチナの指輪だった。それはシェードランプの灯りに優しく輝き、萌香の目は大きく見開いた。芹屋隼人はその額に口付けた。
「私が嵌めて差し上げます」
芹屋隼人の声は、いつもより上擦っていた。
「課長、これって」
ジュエリーケースを手にしたままの萌香は、芹屋隼人の微笑みに囚われ、微動だにする事が出来なかった。
「貸して下さい」
芹屋隼人は指輪を摘むと、萌香の左手を手に取った。萌香の指先が震え、緊張で身体に力が入った。静寂の中、テーパーダイヤモンドは萌香の左手の薬指で輝いた。
「・・・これって・・」
芹屋隼人は目を細め、柔らかく微笑んで、萌香の顔を覗き込んだ。萌香は顔を赤らめて、眉間にシワを寄せた。
「お気に召しませんでしたか?」
「・・・・・」
萌香はブンブンと思い切り首を左右に振った。萌香の目頭は熱くなり、唇を噛んでパーカーの紐をギュッと握った。
「気に入りましたか?」
喜びと照れ臭さでいっぱいになった萌香は、コクコクと大きく頷いた。芹屋隼人は、その姿に胸を撫で下ろし、ホッと溜め息を吐いた。
「サイズは、あっていますか?」
「大丈夫、です」
「良かったです」
「でも、指輪のサイズなんて、いつの間に測ったんですか!?」
萌香は、左手薬指の婚約指輪を、天井に翳した。
「あぁ、萌香さんが予算会議で使っていたペンが、指の太さと似ていたので、ジュエリーショップに持ち込みました」
「見ていたんですか!?」
「私はいつも、萌香さんの事を見ています」
「お仕事して下さい!」
そこで、芹屋隼人は背伸びをして
「あぁ!緊張しました!」
「課長でも、緊張する事があるんですね」
「萌香さんは、私をなんだと思っているんですか」
芹屋隼人が、生真面目な面持ちで萌香を凝視した。
「場の空気が読めない、課長」
「それは褒め言葉と受け取っておきます」
芹屋隼人は、肩をすくめて目を細めた。
「課長、本当にポジティブですね」
「ありがとうございます」
「褒めてません!」
そこで萌香は、眉間にシワを寄せて芹屋隼人に詰め寄った。
「緊張したって言いますけど、婚約者さんにプロポーズしたんじゃないんですか!?」
芹屋隼人は、眉毛を爪先てポリポリと掻いた。
「あぁ、彼女とは小さい頃に遊んだだけです」
萌香は目を見張った。
「そんな、そんな人と結婚するんですか!?」
「祖父が決めた事ですからね」
「そんな」
「そんな世界もあるんです」
芹屋隼人の表情には翳りと諦めが見て取れ、寂しげな笑みを浮かべた。
「じゃあ、銀行を辞めちゃうんですか!?」
「祖父の会社を継ぐ事になると思います」
「課長、いなくなっちゃうんですか!?」
萌香はいつの間にか、必死な形相で芹屋隼人のワイシャツの袖を握っていた。芹屋隼人は、その指先を一瞥すると顔を背けた。2人の間に、見えない壁があるように感じた。
「そんな」
萌香は声を失った。
「そんなに悲しんで頂けるとは、思ってもみませんでした」
「だって、課長は。いつも課長で・・・」
「それまで、宜しくお願いします」
萌香のワイシャツを握った指先が小刻みに震え、客室が深い藍色に沈んだ。萌香は、芹屋隼人から婚約指輪を贈られたが、それはあくまでも仮の婚約、契約結婚でしかない。
(婚約者さんが戻って来たら、この指輪は・・・)
「萌香さん?」
(戻って来たら)
萌香の目尻は熱くなり、頬をダイヤモンドのような涙が伝った。驚いた芹屋隼人は背広のポケットから千鳥格子のハンカチを取り出すと、萌香に握らせようとした。
「・・・・!」
萌香は無言でそのハンカチを叩き落とすと、芹屋隼人の胸の中に飛び込んだ。ドクドクと脈打つ鼓動、シャツ越しの温もり、ディオールのオー・ソバージュの香りが萌香を包み込んだ。
(・・・萌香さん)
芹屋隼人は、小さく震えるその肩を抱きしめようと腕を伸ばしたが、それは躊躇い、宙で握り拳を作った。
(萌香さん)
萌香は、ワインバーで出会った一夜の恋の相手だった。芹屋隼人の脳裏には、薄暗いカウンターで、日本ワインを口に含んで目を輝かせていた萌香の笑顔が浮かび、彼女がふと漏らした『幸せな結婚がしたいの』という呟きを思い出した。
(まさか、また会えるとは思ってもみなかった)
一夜の恋の相手である萌香と、赴任先の銀行で再会した。そこで、芹屋隼人は、ほんの気紛れで萌香を仮の婚約者に選び、契約結婚の話を持ち掛けた。
(私は、間違っていたのか?)
初めは、一方的な理由で同棲が解消された、哀れな部下だと思っていた。ところが、朗らかで面倒見の良い萌香の内面に触れた芹屋隼人は、次第に彼女に惹かれていった。
(大丈夫なのだろうか?)
こうして、偽りの婚姻届を書き、偽りの婚約指輪を渡した今、萌香の心も芹屋隼人へと傾いていた。叩き落とされたハンカチ、ダイヤモンドのような涙を目の当たりにした芹屋隼人は、この契約が間違いだったのかと、胸が締め付けられた
「萌香さん、泣かないで」
芹屋隼人は、意を決したように、両腕を萌香の背中に回し、優しく抱き締めた。