ホテルの車寄せで、ドアボーイに『おかえりなさいませ』と恭しく迎えられた萌香は、リュックサックを揺らしながらチェックインカウンターの陰に隠れた。
「長谷川さま」
ホテルマンがなにか言いたげにフロントから身を乗り出したが、萌香は指を一本立てると、身振り手振りで『静かに』と頷いた。
(・・・やっぱり居た)
観葉植物の陰に隠れてよく見えないが、長い脚を組み、重厚な革のソファーに身を預け、目を瞑っているのは、芹屋隼人に違いなかった。
(有言実行、婚姻届はやはり本気・・・)
萌香は、足音を立てずに近付き、観葉植物の隙間から覗き込んだ。
(寝てる!?起きてる!?)
萌香が足音を立てずに恐る恐る近付くと、目を細め微笑んだ芹屋隼人が、いきなり萌香の腕を掴んだ。
「課長!ちょっ!寝たふりなんてずるいです!」
「萌香さん、お帰りなさい」
「長谷川です!」
萌香はその手を振り払うと、眉間に皺を寄せ一歩後ろに引き下がった。
「今日はまたボーイッシュな出立ちですね」
「引っ越しの準備をしていましたから!」
「ジーンズ姿もとてもお似合いです」
「課長!聞いてます!?」
芹屋隼人はソファの肘掛けに手を突くとゆっくりと立ち上がり、髪の毛を掻き上げた。萌香は周囲を見回すと、職場の同僚が居ない事を確認し、その背中をグイグイと押した。
「さ!課長行きますよ!」
「おやおや、今日は積極的ですね」
「そんな意味じゃありません!誰かに見られたらどうするんですか!?」
「驚くでしょうね」
「分かっているじゃないですか!」
この2人の遣り取りを、フロントのスタッフは微笑ましく見たが、向かいのソファーで携帯電話を弄っていた若者は、うるさいとばかりに眉間にシワを寄せた。
「さぁさぁ!歩いて下さい!」
萌香が背中を押しても、180センチメートルの道路交通標識はびくともしない。これは明らかに、意図して足を踏ん張っている。萌香は前に回って腕を引っ張ってみたが、今度は背中を反らせて動こうとしない。
(課長!また、ふざけてる!こういう所が嫌!)
その顔はニヤついて、実に腹立たしい。
「・・・くっ!」
それはまるで、その場所から動く事を全身で拒否している、美しい猟犬”アフガンハウンド”だ。萌香は、なんとか芹屋隼人を人目に付かないエレベーターホールまで引き摺り、肩で息をしながらエレベーターのボタンを押した。
「萌香さんは力強いですね」
「誰がそうさせたと思っているんですか!」
芹屋隼人は、わざとらしく感心した様子で、睨み付ける萌香の顔を覗き込んだ。
5階
4階
3階
エレベーターの箱が降りて来るにつれ、これから起こるであろう事態を想像した萌香の鼓動は、別の意味で速くなった。
(こ、婚姻届よね!契約の婚姻届!渡すだけだから!渡すだけ!)
ポーン
エレベーターの扉が開くと鏡の中に、ジーンズ姿の萌香と、仕立ての良いスーツ姿の芹屋隼人。ちぐはぐな格好の2人が並んで立っていた。
「本当に私と結婚するんですか?」
「ええ、そうですよ」
芹屋隼人は静かな落ち着いた声で答えた。
「そうですか」
萌香はリュックの肩紐をぎゅっと握って、恥じらいながら目を逸らした。
「7階でしたよね?」
「よく覚えていますね」
芹屋隼人は目を細めると和かに微笑みながら、7階のボタンを押した。萌香の心臓は破裂寸前だった。
ポーン
エレベーターの扉が開くと、長い廊下には深紅のカーペットが敷かれ、それは萌香の客室まで真っ直ぐに続いていた。それはまるで、教会のバージンロードのようで、萌香はソワソワと落ち着きがなかった。
「おや、萌香さん、顔が赤いですよ?」
「そうですか?」
「もしかして、緊張していますか?」
芹屋隼人は目を細め、優しい声色で語りかけた。萌香は、いつもの調子で『そんな事はありません!』と返したかったが、全ての音を吸い込んでしまいそうな白い壁の前では、それはグッと我慢した。
「ここでしたね」
「よく覚えていますね」
萌香が、客室の前でリュックを下ろそうとすると、芹屋隼人はさりげなく肩紐を持って、動作を手伝ってくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ、重かったでしょう」
「力持ちですから」
「頼もしい花嫁です」
芹屋隼人は肩をすくめると両手を広げ、目を細めて微笑んだ。芹屋隼人の口から、初めて『花嫁』と聞いた萌香は、緊張と恥ずかしさで指先が震え、カードキーを床に落としてしまった。
「おやおや、おっちょこちょいですね」
芹屋隼人がしゃがみ込んでカードキーを拾ったが、見上げた萌香の顔は真っ赤に色付いていた。芹屋隼人はフッと微笑み、髪を掻き上げながらゆっくり立ち上がると、カードキーを客室ドアノブに翳した。カチッと軽い音がするとドアが開き、萌香はその音で飛び上がった。
「緊張しなくても、大丈夫ですよ」
「は、はい」
2人は708号室へと足を踏み入れた。客室の中は、ホテルの廊下とはまた違った静けさに包まれていた。ここには、芹屋隼人と萌香の息遣いしかない。芹屋隼人は萌香のリュックを手に取ると、静かにソファに置いた。ジッパーに付けたキーホルダーの音すら耳に響く。
「萌香さん、座って」
芹屋隼人は優しく微笑みながら窓際のカウチに腰掛けると、座面を軽く叩いた。仄暗い客室に、ランプシェードの明かりがほんのりと灯る。開け放たれたカーテンの真下には、大渋滞の車のテールランプが川のように流れていた。
「はい」
穏やかな笑顔の芹屋隼人の隣に腰掛けた萌香は、恥ずかしさのあまり、パーカーのフードを被って赤らんだ頬を隠した。フードの紐を縛り、目だけ出した萌香の仕草を可愛らしく思った芹屋隼人は、片腕でその肩を抱き寄せた。
「えっ、か。課長!」
突然の出来事に慌てた萌香は、手足をばたつかせ咽込んだ。
「静かにして」
「ダッツ!えっ!ゴホッ!」
芹屋隼人は目を細め、微笑みながら萌香の背中をトントンと叩くと、耳元で優しく囁いた。
「萌香さん、落ち着いて」
「ゴホッツ、ゲホッ!」
「はい、大きく息を吸って、ゆっくり吐いて」
萌香は、その声に合わせてゆっくりと深呼吸をした。
「はい、落ち着きましたね」
「びっくりしました」
芹屋隼人は低い声で囁いた。
「なにを今更、あんな事やこんな事をしたのに」
萌香の脳裏には、芹屋隼人と過ごしたホテル日航金沢での濃密な熱い一夜の記憶が浮かんだ。絡み合う脚、低い呻き声、それは鮮やかに甦り、萌香は身体の芯が火照るのを感じた。
「もう!やめて下さい!」
萌香はポカポカと芹屋隼人の胸を叩いた。芹屋隼人は朗らかに声を出して笑いながら、そのささやかな抵抗を受け止めた。
「そういえば」
ふと思い出した芹屋隼人は、萌香の手を握った。
「婚姻届は書いてくれましたか?」
「はい」
萌香は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
芹屋隼人は、萌香のフードをゆっくり脱がすと、乱れた髪をそっと整えた。そして、K18のピアスに指で触れ、目を細めた。
「萌香さん、婚姻届をお預かりしたいのですが」
「あ、そうですね。ちょっと待っていて下さい」
萌香は、カウチから立ち上がると、金庫の中から白い封筒を取り出した。
(これで、課長と私の契約が成立するんだ)
「戸籍謄本と住民票はありますか?」
「これです」
婚姻届が入った白い封筒を手渡す萌香の指先は、微かに震えた。微笑んでそれを受け取った芹屋隼人は、シェードランプの灯りの下で、婚姻届に書き損じがないかを確認した。その指先は、丁寧に文字を追った。
萌香の名前
現住所
本籍
両親の名前と続柄
その何も間違いはなかった。
「ありがとうございます、これで私たちは夫婦ですね」
芹屋隼人は婚姻届を丁寧に畳むと、白い封筒に入れ、テーブルの上に置いた。然し乍ら、その面差しは、手放しで喜ぶような、明るいものではなかった。諦めに似た、小さな溜め息が漏れた。
「課長と私、仮の夫婦になったんですよね」
「そうですね」
萌香は、芹屋隼人の”会社を継がなくてはならない”という重責を考えると、この契約結婚も致し方がないと同情し、少し疲れた横顔に愛おしさを感じた。
(課長)
萌香はワイシャツの袖口を握ると芹屋隼人へと向き直り、静かに瞼を閉じた。芹屋隼人は息を呑むと、その腕を萌香の背中に回した。ゆっくりとシェードランプの影が動いた。