目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第44話 鍵

 有給休暇1日目の天候は晴れ。入居者募集の、のぼり旗が翻る賃貸住宅業者のカウンターに、眉間にシワを寄せた萌香と、呑気にカタログのページを捲る慎介の姿があった。


「そんな好条件ないって」

「探せばあるかもしれないでしょ!」


2階以上

バストイレ別

駅近徒歩5分

築10年以内


欲を言えば、職場に近いと尚良し、と言い出した。


「そんなん、あったら奇跡だって」

「奇跡は起こすものよ!」


 萌香が希望する条件は、なかなか難しいものだった。萌香は、苛立ちを隠せない様子で力強くパソコンのキーボードを叩いた。カウンターの向こうでは、店員が気不味そうな顔で目を逸らした。


「萌香、この”2階以上”ってぇのを諦めたら?」

「女の独り暮らしなのよ!」

「はいはい、そうですか、そうですか」


 慎介は、呆れ顔でカウンター越しに手渡されたプリントを眺めて見た。


「萌香、”バストイレ別”ってハードル高くね?」

「セパレートじゃなきゃ嫌なの!」

「嫌なら実家、帰れよ」

「それも嫌なの!」

「”駅近徒歩5分””築10年以内”とか、おまえ、どんだけワガママなんだよ」

「うるさいわね!」


 店員が新たに提示した物件を見た萌香は、ガックリと肩を落とした。


「また、お越しくださいませ」

「ありがとうございます」


 実は、この不動産会社で5軒目だった。2軒目で希望が崩れ、4軒目で諦めの色が濃くなった。鉛を引き摺るような足取りの萌香と、鼻歌混じりの慎介は対照的で、萌香は既に疲労困憊といった面持ちをしていた。


「なぁ、もう一軒、行く?」

「もう、疲れた」

「なんだよ、やる気ねぇなぁ」

「だって・・・家賃って、あんなに高いのね」


 萌香の沈んだ面持ちに慎介は失笑し、その頑固さに呆れ半分、感心半分といったところだった。


「あんな好条件、無理だって!」

「”駅近”と”築年数”は外すか」


 萌香は難しい顔で指折り数えた。


「”バストイレ別”も外せば?ユニットバスなら、良いのあったじゃん」

「セパレートは外せない」

「強欲だな」


 孝宏と住んでいたマンションは、3LDKで、バストイレ別のセパレートと好条件だった。ただ、築年数が45年とそこそこ古かったので、萌香の給料でも賄う事が出来た。同棲解消、あの部屋ともおさらばだ。


「あんな家賃、払えない」

「そりゃそうだ」


 これからの事を考えると、萌香の気持ちは、背負ったリュックのように重かった。


「今日はもう、無理」

「じゃあ、荷造りでもするか?」

「・・・・そうする」


 慎介の提案で、萌香の物件探しは明日に持ち越す事となった。萌香は、これまでの3年間を整理する為にマンションの扉を開けた。慣れ親しんだ部屋の匂いが萌香の胸を締め付けた。萌香がこの部屋に戻る事は、もう2度と無いのだ。


「なに、もうしんみりしちゃってる感じ?」

「ちょっとね」


 リビングに入ると、孝宏と買い揃えた家具が萌香を出迎えた。ふと目に留まったソファに、孝宏が寝転がり『おう、帰ったのか』と振り向いたような気がして、一瞬、息が止まった。慎介は、そんな萌香の気を紛らわせるように、カーテンを開け、新しい風を呼び込んだ。


「このソファとかどうすんの?あいつと半分に分けんの?」

「・・・・どうしようかな」


 萌香がどうしようか悩んでいると、部屋の隅に幾つかの段ボールが積んであるのが目に付いた。それは、送り先の伝票が貼られた、孝宏の荷物だった。大きさからして、衣類や身の回りの物を纏めたのだろう。


「・・・・これ」


 伝票の送り先は、光希 誠 のマンションだった。それを見た瞬間、萌香の中に、裏切られたと知った時の絶望感と憎しみが蘇った。萌香は、震える指で、その伝票を握り潰していた。


「お、おい!なにやってんだよ!」

「・・・・・」


 慎介は、萌香の突然の奇行に慌てたが、震える肩越しに見た伝票に息を呑んだ。


「あいつと住むのか」

「そう、みたいね」


 孝宏は、萌香と別れた途端、待っていましたとばかりに、浮気相手恋人と、よりを戻した。萌香は、もう一度、崖へと突き落とされたような気がした。


「・・・・・」


 萌香はおもむろに立ち上がると、チェストから便箋を取り出した。風が吹き抜け、カーテンが揺れた。萌香は、一呼吸おいて、孝宏への最後のメッセージを書き残した。


家具は処分して下さい さようなら

今までありがとう

萌香


 萌香の衝動的とも言える行動に、慎介は、驚きの声を上げた。


「良いのかよ、2人で買ったんだろ!?」

「だからよ」

「勿体ないじゃねぇか」

「嘘ばっかりの思い出は要らない」


 ソファを見つめる萌香の目は虚で、チェストに置いてあったブライダル雑誌はゴミ箱に捨てた。慎介は、その横顔を憐れみの目で見ると、クローゼットのある寝室を覗き込みながら、萌香に声を掛けた。


「じゃあ、どうする!?なにか持って行くもんあったら纏めようぜ!」

「・・・うん」

「段ボールはこれ使うのか!?」


 萌香は力無く立ち上がり、孝宏の面影を残すソファを見下ろした。


「これも持っていくのか?」

「うん、それも」


 萌香は、衣類や身の回りの物を手際良く段ボールに詰め込み、慎介がその思い出に封をした。


「意外と多いな」

「多いね」


 萌香と慎介は仁王立ちになり、段ボールの山を前に、困り果てた顔で腕組みをした。


「どうすんだよ、これ」

「困ったなぁ」

「ここ、いつ引き払うんだよ」

「知らないわよ!」


 萌香は疲れ切った顔で、慎介の顔を睨みつけた。


「なんだよ、怒る相手、間違えてね?」

「そうね!」

「どうしたんだよ急に」

「お腹すいた!」


 この段ボールの山は、萌香の新居が決まるまで、慎介の部屋に間借りする事となった。相変わらず慎介は抜け目なく、10,000円を請求して来た。萌香は、慎介の顔を睨みつけながら、渋々財布を開き、慎介は大満足でタクシーを2台手配した。


「あんたって、本当に容赦ないわね!」

「いやぁ、手間のかかる幼馴染を持つと大変っすよ」

「ぐぬぬ」


 萌香は財布を握りつぶし、勢いよく慎介の尻を蹴り上げた。


「タクシー来たぞ」

「・・・・・うん」

「ほら、運んだ、運んだ!」


 萌香は玄関の鍵を閉めると、205号室の表札を見上げた。初めてこの部屋の扉を開けた時の胸のときめきが頭を過った。鼻の奥がツンとなり、切ない思いが指先から溢れた。


「今、行く!」


 萌香がシリンダーキーをポストに落とすと、虚しい金属音が廊下に響いた。萌香は踵を返すと、全てを置いて部屋を出て行った。






 タクシーに揺られてファミリーレストランに辿り着いた萌香と慎介は、呼び出しボタンを押した。


ピンポーン


「いらっしゃいませ」


 ウェイターが水滴の付いたグラスをテーブルに置いた。


「あ、俺、炒飯セット」

「じゃあ、私も、炒飯セットで」

「ドリンクバーとコーヒーゼリーパフェも頼んで良い?」


 慎介は、引っ越しを手伝ったお礼にと、萌香の奢りで早めの夕食の席に着いた。


「お好きにどうぞ!」

「さんきゅ!」


 目を細め、満面の笑みで注文を終えた慎介は、物件情報がプリントされた10枚の紙を手に、萌香の顔を覗き込んだ。


「おまえ、どんだけ選ぶんだよ」

「妥協はしたくないの!」

「あっそ」


 慎介は紙を投げ出して、呆れて溜め息を吐いた。


「アッ!」

「なんだよ、びっくりするじゃねぇか」


 萌香は、ホテルの金庫の中の、芹屋隼人の婚姻届を思い出した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?