有給休暇1日目の天候は晴れ。入居者募集の、のぼり旗が翻る賃貸住宅業者のカウンターに、眉間にシワを寄せた萌香と、呑気にカタログのページを捲る慎介の姿があった。
「そんな好条件ないって」
「探せばあるかもしれないでしょ!」
2階以上
バストイレ別
駅近徒歩5分
築10年以内
欲を言えば、職場に近いと尚良し、と言い出した。
「そんなん、あったら奇跡だって」
「奇跡は起こすものよ!」
萌香が希望する条件は、なかなか難しいものだった。萌香は、苛立ちを隠せない様子で力強くパソコンのキーボードを叩いた。カウンターの向こうでは、店員が気不味そうな顔で目を逸らした。
「萌香、この”2階以上”ってぇのを諦めたら?」
「女の独り暮らしなのよ!」
「はいはい、そうですか、そうですか」
慎介は、呆れ顔でカウンター越しに手渡されたプリントを眺めて見た。
「萌香、”バストイレ別”ってハードル高くね?」
「セパレートじゃなきゃ嫌なの!」
「嫌なら実家、帰れよ」
「それも嫌なの!」
「”駅近徒歩5分””築10年以内”とか、おまえ、どんだけワガママなんだよ」
「うるさいわね!」
店員が新たに提示した物件を見た萌香は、ガックリと肩を落とした。
「また、お越しくださいませ」
「ありがとうございます」
実は、この不動産会社で5軒目だった。2軒目で希望が崩れ、4軒目で諦めの色が濃くなった。鉛を引き摺るような足取りの萌香と、鼻歌混じりの慎介は対照的で、萌香は既に疲労困憊といった面持ちをしていた。
「なぁ、もう一軒、行く?」
「もう、疲れた」
「なんだよ、やる気ねぇなぁ」
「だって・・・家賃って、あんなに高いのね」
萌香の沈んだ面持ちに慎介は失笑し、その頑固さに呆れ半分、感心半分といったところだった。
「あんな好条件、無理だって!」
「”駅近”と”築年数”は外すか」
萌香は難しい顔で指折り数えた。
「”バストイレ別”も外せば?ユニットバスなら、良いのあったじゃん」
「セパレートは外せない」
「強欲だな」
孝宏と住んでいたマンションは、3LDKで、バストイレ別のセパレートと好条件だった。ただ、築年数が45年とそこそこ古かったので、萌香の給料でも賄う事が出来た。同棲解消、あの部屋ともおさらばだ。
「あんな家賃、払えない」
「そりゃそうだ」
これからの事を考えると、萌香の気持ちは、背負ったリュックのように重かった。
「今日はもう、無理」
「じゃあ、荷造りでもするか?」
「・・・・そうする」
慎介の提案で、萌香の物件探しは明日に持ち越す事となった。萌香は、これまでの3年間を整理する為にマンションの扉を開けた。慣れ親しんだ部屋の匂いが萌香の胸を締め付けた。萌香がこの部屋に戻る事は、もう2度と無いのだ。
「なに、もうしんみりしちゃってる感じ?」
「ちょっとね」
リビングに入ると、孝宏と買い揃えた家具が萌香を出迎えた。ふと目に留まったソファに、孝宏が寝転がり『おう、帰ったのか』と振り向いたような気がして、一瞬、息が止まった。慎介は、そんな萌香の気を紛らわせるように、カーテンを開け、新しい風を呼び込んだ。
「このソファとかどうすんの?あいつと半分に分けんの?」
「・・・・どうしようかな」
萌香がどうしようか悩んでいると、部屋の隅に幾つかの段ボールが積んであるのが目に付いた。それは、送り先の伝票が貼られた、孝宏の荷物だった。大きさからして、衣類や身の回りの物を纏めたのだろう。
「・・・・これ」
伝票の送り先は、光希 誠 のマンションだった。それを見た瞬間、萌香の中に、裏切られたと知った時の絶望感と憎しみが蘇った。萌香は、震える指で、その伝票を握り潰していた。
「お、おい!なにやってんだよ!」
「・・・・・」
慎介は、萌香の突然の奇行に慌てたが、震える肩越しに見た伝票に息を呑んだ。
「あいつと住むのか」
「そう、みたいね」
孝宏は、萌香と別れた途端、待っていましたとばかりに、
「・・・・・」
萌香はおもむろに立ち上がると、チェストから便箋を取り出した。風が吹き抜け、カーテンが揺れた。萌香は、一呼吸おいて、孝宏への最後のメッセージを書き残した。
家具は処分して下さい さようなら
今までありがとう
萌香
萌香の衝動的とも言える行動に、慎介は、驚きの声を上げた。
「良いのかよ、2人で買ったんだろ!?」
「だからよ」
「勿体ないじゃねぇか」
「嘘ばっかりの思い出は要らない」
ソファを見つめる萌香の目は虚で、チェストに置いてあったブライダル雑誌はゴミ箱に捨てた。慎介は、その横顔を憐れみの目で見ると、クローゼットのある寝室を覗き込みながら、萌香に声を掛けた。
「じゃあ、どうする!?なにか持って行くもんあったら纏めようぜ!」
「・・・うん」
「段ボールはこれ使うのか!?」
萌香は力無く立ち上がり、孝宏の面影を残すソファを見下ろした。
「これも持っていくのか?」
「うん、それも」
萌香は、衣類や身の回りの物を手際良く段ボールに詰め込み、慎介がその思い出に封をした。
「意外と多いな」
「多いね」
萌香と慎介は仁王立ちになり、段ボールの山を前に、困り果てた顔で腕組みをした。
「どうすんだよ、これ」
「困ったなぁ」
「ここ、いつ引き払うんだよ」
「知らないわよ!」
萌香は疲れ切った顔で、慎介の顔を睨みつけた。
「なんだよ、怒る相手、間違えてね?」
「そうね!」
「どうしたんだよ急に」
「お腹すいた!」
この段ボールの山は、萌香の新居が決まるまで、慎介の部屋に間借りする事となった。相変わらず慎介は抜け目なく、10,000円を請求して来た。萌香は、慎介の顔を睨みつけながら、渋々財布を開き、慎介は大満足でタクシーを2台手配した。
「あんたって、本当に容赦ないわね!」
「いやぁ、手間のかかる幼馴染を持つと大変っすよ」
「ぐぬぬ」
萌香は財布を握りつぶし、勢いよく慎介の尻を蹴り上げた。
「タクシー来たぞ」
「・・・・・うん」
「ほら、運んだ、運んだ!」
萌香は玄関の鍵を閉めると、205号室の表札を見上げた。初めてこの部屋の扉を開けた時の胸のときめきが頭を過った。鼻の奥がツンとなり、切ない思いが指先から溢れた。
「今、行く!」
萌香がシリンダーキーをポストに落とすと、虚しい金属音が廊下に響いた。萌香は踵を返すと、全てを置いて部屋を出て行った。
タクシーに揺られてファミリーレストランに辿り着いた萌香と慎介は、呼び出しボタンを押した。
ピンポーン
「いらっしゃいませ」
ウェイターが水滴の付いたグラスをテーブルに置いた。
「あ、俺、炒飯セット」
「じゃあ、私も、炒飯セットで」
「ドリンクバーとコーヒーゼリーパフェも頼んで良い?」
慎介は、引っ越しを手伝ったお礼にと、萌香の奢りで早めの夕食の席に着いた。
「お好きにどうぞ!」
「さんきゅ!」
目を細め、満面の笑みで注文を終えた慎介は、物件情報がプリントされた10枚の紙を手に、萌香の顔を覗き込んだ。
「おまえ、どんだけ選ぶんだよ」
「妥協はしたくないの!」
「あっそ」
慎介は紙を投げ出して、呆れて溜め息を吐いた。
「アッ!」
「なんだよ、びっくりするじゃねぇか」
萌香は、ホテルの金庫の中の、芹屋隼人の婚姻届を思い出した。