すりガラスの向こうで微かな足音が響き、扉が勢いよく開いた。
「ただいま帰りました」
すると、上背のある恰幅の良い男性がリビングに入って来た。冴子はすぐさま席を譲り、末席のソファに腰掛けた。
「お帰りなさいませ」
「うん」
奥寺さんは手際よく、その男性に湯気が立つ熱いおしぼりと、温かな緑茶の香りたつ湯呑み茶碗を差し出した。
「ありがとう」
おしぼりで手と顔を拭く。緑茶の温度は男性の好みに合わせてあるようで、彼はすぐさまその湯呑みに口を付けた。
「お帰りなさい」
「あぁ」
冴子はニッコリと微笑み掛け、幸雄は眼鏡のツルを押さえながら会釈をした。
「お疲れ様でした」
「うむ」
男性は、上質で仕立ての良い濃紺のスーツを着ていた。胸元には臙脂色の紐で
(・・・・あ)
目元や口元に、人生の深みを感じさせるシワはあるが、男性の面差しは芹屋隼人に瓜二つだった。
(あー・・・)
芹屋隼人が母親の冴子と、この男性に瓜二つである事から、萌香の中であるひとつの答えが弾き出された。萌香は目を丸くしたが、すぐさま笑顔でお辞儀をした。
(・・・・・幸雄さん、婿養子なんだ)
萌香の目の前に、大きくて分厚い手のひらが差し出された。その手のひらは痛みを感じる程にギュッと萌香の手を握った。
(痛っ)
萌香はその痛みに顔を顰めたが、そんな事はお構いなしだった。男性はソファに深く腰掛け脚を組み、萌香を見下すようにふんぞり返った。
「長谷川さん、だったね?」
「はい、長谷川萌香です、初めまして」
「隼人の祖父の
龍人は目尻にシワを作り口角を上げたが、目付きは鋭くなにかを知っているようだった。
「隼人から聞いているかな?」
「なんの事でしょう?」
「うちの後継ぎの事だよ」
龍人はチラリと横目で幸雄を見て鼻を鳴らした。
「こいつは使い物にならん」
市役所勤務の幸雄は、婿養子という事で芹屋コーポレーションの後継者候補からは外された。そこで白羽の矢が立ったのが、孫である芹屋隼人だった。龍人はその事を大っぴらに萌香に話して聞かせたが、幸雄は肩身が狭そうな面持ちで、眼鏡のツルを上げる手が震えていた。
(幸雄さん、かわいそう)
萌香は、幸雄が気の毒に思えた。次に龍人は、腕組みをして萌香を一瞥し、不敵な笑みを漏らした。
「長谷川さん」
「は、はいっ!」
「あんた、茶道や華道は出来るかね?」
「え、い、いえ」
萌香は、抹茶碗を持つ手が震えた事を龍人に見透かされたようで、顔を赤らめて下を向いた。すると思いがけない言葉が降って来た。
「真言寺の
「え?」
「君は3年間、同棲生活をしていたそうじゃないか?」
「あ、あの」
萌香は、孝宏の顔を思い出し心臓が掴まれる思いがした。
(そんな事まで調べてたの?それに偽物って、酷い!)
「3年間も同棲して結婚する事も出来なかったのか」
萌香は目眩を覚え、後頭部を殴られたようなショックで言葉をなくした。
「そんな女が、芹屋家の家に上がり込むのは不愉快だ」
「・・・・!」
「本来なら、もう少し
(まともって、なに!?)
萌香がなにも言えずにいると、芹屋隼人が握り拳でテーブルを叩いた。湯呑み茶碗が倒れ、幸雄が慌てておしぼりを手に取り溢れた緑茶を拭き取った。
「萌香さんは銀行でも優秀で、気配りの出来る行員です!」
「たかが銀行員の腰掛けじゃないか」
「お祖父さん!それは言い過ぎじゃないですか!?」
幸雄は小さく縮こまって、申し訳なさそうに萌香と隼人を交互に見た。
「おまえはもう少し、女の趣味が良いと思ったんだがな」
「お祖父さん!萌香さんに謝って下さい!」
「フン」
険悪な雰囲気が漂う中、キッチンから茶碗の擦れる音が聞こえて来た。奥寺さんが、ほうじ茶と切り分けた黒羊羹を運んで来た。
「どうぞ、こちらは長谷川さんがお持ちになられたんですよ」
龍人は菓子皿で黒光りする羊羹を覗き見ると、鼻息を鳴らした。
「手土産の趣味は良いな」
「ありがとうございます」
萌香は屈辱に耐えながら、奥寺さんが運んで来た湯呑み茶碗を震える指でそれぞれの前に置いた。
(萌香さん、大丈夫ですか?)
隼人がその横顔を不安げに見ると萌香は首を傾けて微笑んで見せた。隼人はその手を握りそうになるのを堪えた。
(こんな事で負けるもんか!)
萌香は下唇を軽く噛み、上目遣いで龍人を一瞥した。そして、苦々しい緑茶で、胸に支えたわだかまりを腹の中に流し込んだ。
「いやぁ、ここの羊羹は美味いな!」
龍人は黒羊羹を美味そうに平らげながら、真言寺グループとの政略結婚について愚痴を漏らし始めた。
「爺さんの思い付きには困ったもんだ!」
龍人は眉間にシワを寄せて腕を組んだ。
「長谷川さん、君にも一応、話しておいた方が良いな」
龍人の言う爺さんとはこの騒ぎの元凶でもある、芹屋コーポレーションの会長にして、芹屋隼人の曽祖父に当たる
「尊人さんが会社の会長さん、なんですね」
「もうヨボヨボの爺さんだがな!」
龍人が悪態を吐いても、咎める者は誰もいなかった。
「あんな破産寸前の会社との縁談など信じられん!」
芹屋コーポレーションにとって、真言寺グループとの政略結婚は歓迎されるものではなかった。
「30年前だぞ!30年前!」
芹屋隼人と真言寺萌香が婚約を交わしたのは、2人がまだ幼稚園に通っていた頃だった。龍人が聞くところに依れば、両家の曽祖父が酒の席で盛り上がった縁談だった。
(30年前とか、信じられない。幼稚園って何歳ですか?)
それはドラマの世界で、萌香は我が耳を疑い、目を丸くして龍人を凝視した。眉間にシワを寄せ憤慨する龍人の隣では幸雄が『また始まった』と言わんばかりに微かな溜め息を吐き、冴子と芹屋隼人はテーブルに視線を落としていた。
「そんな戯言!婚約など許さん!」
数ヶ月前、業績が傾いた真言寺グループから、正式に結婚の申し出があった。そこで龍人は『そんな縁談は利益損害だ!』と会長である尊人に対し、猛反対した。
「そうだったんですか」
萌香が幸雄と冴子の顔を見ると、幸雄は仕方がないと諦めたように頷き、冴子は憐れむような面持ちで息子の顔を見た。萌香が芹屋隼人の顔を覗き込んだが、その横顔は切なく視線はテーブルに落とされたままだった。
(でも、ちょっと待って?)
萌香は不可思議な事に気付いた。婚約者の身代わりならば、名前だけではなく容姿も似ていなければ無理があるだろう。
「すみません」
「なんだ」
「私、真言寺萌香さんと似ているんですか?」
龍人は爪楊枝で歯をほじくりながら、投げ槍な口調で言い放った。
「爺さんは知らんのだ!」
「知らん?知らない、という事ですか?」
萌香が首を傾げると芹屋隼人が耳打ちをした。
「曽祖父は、成人した真言寺さんに会った事がないんです」
「会った事がない?」
驚いた萌香は芹屋隼人に向き直った。
「はい。遠方に暮らす真言寺さんとはこれまで疎遠でした」
「なるほど、です」
龍人は蔑むような目で萌香を見下ろした。萌香は負けじと力強い視線でその顔を見た。
「顔も知らん女を嫁にするだと!?惚けたジジイだ!」
龍人はテーブルを叩くとソファから立ち上がり、口元を歪めながら萌香を見下ろした。
「まぁ、長谷川さん。頑張ってジジイの相手でもしてくれ」
(なに!?ジジイの相手って!)
「なんだ、その目は」
萌香はいつしか、傍若無人な龍人に激しい怒りを感じ、鋭い目付きでその顔を睨み返していた。幸雄と冴子は戸惑い、隼人はテーブルの下でその手を握り感情を抑えるように促した。萌香は怒りを押し殺すように、目を伏せた。
「・・・・分かりました」
「分かれば良いんだ、分かれば!」
龍人は『風呂は沸いているか』と尋ね、踵を返してリビングを出て行った。萌香の握り拳は汗ばみ、小刻みに震えていた。