朱莉の大きな声で目を覚ました羊子は、一体何が起こっているのか把握できていない。
「え……? 何、なんで逃げるの⁇」
『話は後だ。先に行け、急いで玄関まで走れ‼︎ 』
朱莉は困惑する羊子の背中を片手でどん、と押して部屋のドアのほうへ突き飛ばす。
『ヨーコ……行こう。アカリはパラサイトだから大丈夫だよ』
いつの間にか霧原の白衣から出てきていたパラサイトくんが、羊子の黒いスーツの裾ポケットから顔を出して脱出をうながす。
「で、でも……。ねえ霧原さんは……?」
『キリハラは–––今ちょっと《暴走》してるから。しばらくしたら元に戻ると思うけど……今はダメ』
パラサイトくんが真剣な目で羊子の顔を見る。
「……うん、わかった」
羊子は破られたドアを後にして、家の玄関を目指して廊下を駆け出して行った。
*
羊子が去っていったのを確認すると、朱莉は目の前にいる様子が明らかにおかしい霧原に向き直った。
『あれ、キミはいっしょににげないの?』
霧原は不思議そうに首をかしげる。
『は?何言ってんの、アタシがパラサイトを目の前にして逃げるわけないじゃん』
朱莉はそう言って強がってみせる。
『へえ〜、カッコつけてるのがみえみえだけど……だいじょうぶ?』
霧原がにやりと笑う。
『……余計なお世話だ。オッサンのほうこそ、様子がさっきから変だけど大丈夫かよ?もしかして二重人格?』
朱莉もにんまりと笑って言い返す。
『いいや?ニジュウジンカクというよりはこれがほんとのパラサイトとしての《わたし》。ふだんのキリハラはあくまでいきるためのカモフラージュでしかない』
『キミだってそうじゃないのか?』
霧原はまたもや不思議そうな表情をする。
『あー……そりゃまあ、な。パラサイトだって家や学校でバレたら困るし』
『……だろう?ああ……そうだ。シバザキくんがそこでたおれていたりゆうと、そのれいぞうこになにがはいっていたのかおしえてくれないか?』
霧原は先ほどからずっと気になっていた点を指摘する。
『すなおにいってくれたら、キミをきずつけるようなマネはしない。そんなことでじかんをムダにしたくないからね』
霧原はそう言いながら、朱莉に再び詰め寄った。右手にはめていた革手袋を外すと、緑の鱗だらけで指先に鉤爪の生えた手があらわになる。その鋭い爪の先を強めに朱莉の額に当てる。
『……へんじは?』
『う……わかった、言うよ。全部言うから、《頭》だけはやめてくれ。この子が死ぬ‼︎』
朱莉は額に突きつけられた霧原の爪と気迫におされて、そう叫んだ。
『……柴崎さんが倒れていたのは単に気絶してただけ』
『なぜ?』
『れ、冷蔵庫の中身を見たから』
そこで一旦、朱莉は口を閉じる。
『なかにはなにがはいってる?』
『…………お父さんと、お母さん』
『なに……?』
霧原は朱莉の額から右手を離さずに、背後にある冷蔵庫の1番上から下までドアを反対の手で順に開く。中の冷気が部屋の中に漏れ出てきた。
『……言ったろ、本当だよ』
朱莉はドアを開いて中を凝視している霧原に言う。冷蔵庫の中身はラップに包まれた塊だらけだった。密封されているので匂いまではわからないが、それは明らかに《人間の肉》だとわかった。
『……ふたりをころしたのか。じぶんでたべるために』
『そうだよ、悪いか?』
ぱん、と乾いた音がした。朱莉は自分のほおを霧原に叩かれたのだと気がついたのは、じんわりとした痛みがやってきてからだった。
『……痛っ』
朱莉が叩かれたほおを押さえて霧原をキッと睨むと、額に当てられた爪が今にも食い込みそうなくらい強く押し付けられる。
『……パラサイトだって。パラサイトだって生きてるんだよ!生きるために食べ物探さなきゃいけないんだよ! アンタだってそれくらいわかるだろ⁉︎』
『……パラサイトだからって、何をしてもいい訳じゃない。お前、それが分かっていてやったのか』
霧原のどこか別人のようだった口調が次第にはっきりとしてきた。鋭い視線が朱莉に突き刺さる。
『違う、やったのはアタシじゃない』
『……今さら何を。この状況で現実逃避か?』
朱莉は冷や汗を流しながら、必死に霧原に弁解をする。
『だから、本当だって信じてくれよ……アタシはアイツ–––《あの男》に頼まれてやっただけなんだ。両親を殺したらパラサイトから人間に戻してやるって』
*
羊子は玄関から外に出て、豹変した霧原が追って来やしないかと引き戸を押さえて怯えていた。その様子をスーツの裾ポケットからパラサイトくんが顔を出して不安げに見上げている。
「ねえ……霧原さん、大丈夫かしら」
『うーん…あれからだいぶ経っているし、アカリも出てこないから元に戻ってるかも。ちょっと見に行ってみる?』
「そうね……」
羊子はパラサイトくんの提案にうなずくと、玄関の引き戸をそろそろと開けて家の中に入る。朱莉が先ほどつけていった照明のおかげで廊下の先は明るいが、どこか入りづらい雰囲気がある。
『ヨーコ、キリハラのところに行かないの?』
「え……うん。大丈夫、行こう」
橙色の照明に照らされた廊下を、羊子はゆっくりと前に歩き出した。
*
『あの男?それは……誰のことだ』
霧原は朱莉の言葉に首をかしげる。
『……だから、アイツだよ。髪がやたら長くて、着ている白いマントに目のマークと十三って文字が入ったやつだよ‼︎』
『––––––え……?』
その瞬間、霧原の頭を激しい頭痛がおそった。頭を内側から思いきり殴りつけられているような痛みに耐えきれず、両手で耳をふさいで床に倒れこむ。
『お、おい。オッサン大丈夫かよ……?』
朱莉は額に突きつけられた右手から解放され、そのまま床に尻もちをつく。目の前で頭を押さえて苦しがる霧原に動揺し、慌ててそばに寄るが触れようとした手を弾かれてしまった。
『ぁああぁああ……‼︎ なんだ、これ……あ、頭が、割れそう……だ』
「えっ……霧原さん⁉︎ だ、大丈夫ですか」
そこへ羊子が肩に斜めがけしたバッグを固く握りしめて入ってきた。ポケットからパラサイトくんが飛び出して霧原の顔のそばに寄っていく。
『おい、おいキリハラ! 頭が痛いのか? 大丈夫か』
パラサイトくんはぺちぺちと霧原のほおを小さな手で叩いて呼びかける。
ほら、これで君は自由だよ。おめでとう
自分の両手が真っ赤に染まっている。床も赤い液体で濡れている。口の中で鉄のような苦い味がする。ひどく気持ち悪い。
ああそうだ。君に1つだけ忠告しておこう……今夜みたいに赤い月が出ている夜だけその姿になるからね
男の着た白いマントとカールのかかった長く伸ばした髪が、半分だけ開いた窓から吹いてくる夜風にはためく。
待て……!俺を元に戻せ‼︎
伸ばした血塗れの指先が、男のマントを掴めずに床に落ちる。ぱしゃりと血が飛んで服を汚していく。
じゃあ、またいつか会おう
そう言って男は窓から外に出ていった。
『……待て、俺の妻と娘を……返、せ……』
着ている黒いスーツや白のワイシャツが血で赤く染まっていくのも構わずに、窓際までずるずると這っていく。薄いカーテンを押しのけてベランダから下の道路を覗くと、白いマントの男はもういなかった。
『……そんな。どこ行った』
うろたえたまま、部屋の中に引き返す。後ろを振り返るのが怖い。半分開いた窓から空に浮かんだ月が、今自分が濡れている血のように真っ赤だった。
『
自分に言い聞かせるように言いながら、床に膝をついたまま霧原は後ろを向く。そこにあったのは全身が血塗れになり、息絶えている彼の妻と娘の姿だった。