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『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
大学生活がスタートしてから三週間が経ちました。大学には高校からそのまま上がってきた子たちだけじゃなく外部の高校から受験して入学してきた子たちもいて、高校の頃以上に賑やかです。
大学の寮では、最初からさやかちゃんと珠莉ちゃんと三人で同室になりました。勉強スペースも高校の寮の部屋より広いので助かってます。大学の講義では、参考文献とか資料に使う本が増えたから……。本棚が多いこの部屋に当たってよかったねって、さやかちゃんも珠莉ちゃんも言ってます。多分、他の部屋も本棚は多いんじゃないかと思いますけど。
大学では高校の時と違って、自分の出席したい講義だけに出ればいいので、時間の融通が利くようになったのが現役学生作家のわたしとしてはありがたいです。勉強は高校時代と比べものにならないくらい難しくなったけど、わたしにとってそんなのは何の問題にもなりません。その分、自分の学びたい分野を思う存分学べるから。
中には就職活動のためにあれもこれもって講義を詰め込む子もいるみたいですけど、わたしは就活をしなくて済むので(だって、もうプロの作家としてお金もらってるし)、そこまで詰め詰めにはしてません。
そして、高校時代に文芸部の部長だった北原先輩と後藤先輩に誘われて、大学でも文芸サークルに参加することにしました。講義が入ってない空いた時間も、部室にパソコンを持ち込んで原稿を執筆してもいいよってお許しももらってます。大学の方が、作家の仕事と両立しやすいみたい。
高校と違って大学には制服がないので、毎朝服装とか髪型を考えるのが大変だけど楽しいです。ファッションに関してはモデルとしても活動してる珠莉ちゃんから、髪型に関してはさやかちゃんから(時々は珠莉ちゃんからも)アドバイスをもらってます。わたし、どんどんオシャレになっていってます!
勉強に関していえば、わたしは最近『あしながおじさん』の時代背景とかをより深く知るために、参考資料として十九世紀から二十世紀始めくらいのアメリカの古典文学をよく読むようになりました。『風と共に去りぬ』とか、『トム・ソーヤーの冒険』とか、『グレート・ギャツビー』とか、アメリカの文学じゃないけど『あしながおじさん』に関連して『嵐が丘』とか。ジュディの愛読書を読むことで、より彼女の人となりを知ることができて、ますます『あしながおじさん』の作品が身近に感じられるようになりました。
おじさま、お小遣いを五万円に増やしてくれてありがとうございます。女子大生になると、高校生の頃よりもお金がかかるので……。洋服とか靴とかバッグだけじゃなくて、コスメ代も。あと、さっきタイトルを挙げた参考資料の本もお小遣いから自腹で買ってるので。
さやかちゃんも珠莉ちゃんも、それぞれ自分の学びたいことを頑張って勉強してます。
さやかちゃんが進んだ福祉学部では、座学だけじゃなくて実際に児童養護施設とか児童相談所を見学したりもするみたい。そういう実習があった方が、実際の現場を見られてこの職業の重要さが分かりますもんね。
珠莉ちゃんは商学部の経済学科で大企業の経営について学んでるみたいです。純也さんと一緒にあのご両親を必死に説得してモデルさんのお仕事もしてるけど、やっぱり将来的には辺唐院グループの後継者になるつもりでもいるんじゃないかな。あと、治樹さんのためでもあるのかも。で、撮影があって講義に出られない時にはレポートを提出して単位をもらってるみたいです。
純也さんはほぼ毎週末、わたしに会いに来てくれます。お仕事で来られない時もあるけど、そういう時はメッセージアプリとか電話で連絡を取れるから淋しくは感じません。ホントに、今の時代に生まれてきてよかった!
でも、やっぱり手紙には手紙のよさがあるってわたしは高校に入ってからの三年間で分かりました。デジタルの文面より、手書きの文字の方が書いた人の性格とか個性がよく分かるから。
だからわたし、一度くらいはおじさまからの手紙がほしいです。メッセージカードみたいな簡単なのじゃなくて、もっと長くてちゃんとした手紙……って言ったらちょっとヘンかもしれないけど。おじさまの援助から独り立ちできた今なら、これくらいのお願い、聞いてもらってもいいと思います。わたし、待ってますから。それじゃ、また。かしこ
四月二十五日 私立茗倫女子大学 芽生寮二〇一号室 女子大生の愛美』
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「……そういえば、わたしからおじさまに『手紙をもらいたい』って書いたの初めてだな」
大学に進んでから初めての手紙を書き終え、愛美は呟く。
純也さんと知り合ってもうすぐ三年、交際を始めて一年半以上になるのに、愛美は彼の筆跡をまだ見たことがないのだ。
高校時代には「〝あしながおじさん〟からは返事がもらえないものだ」と諦めて、そのつもりでいたけれど。大学生になった今、その制約はもうないに等しいだろう。彼はもう、愛美の保護者ではないのだから。……まあ、まだお小遣いをもらっているので完全に独り立ちできているわけではないかもしれないけれど……。
「純也さんの筆跡……、あっ! そういえば」
愛美はふと思い出した。珠莉がこの三年間で一度だけ、彼の手書き文字がかかれた
「――ねえ珠莉ちゃん、三年前に純也さんからチョコレートが送られてきた時のレターパックの封筒ってまだある?」
愛美はダメもとで珠莉に訊ねてみた。あの封筒に書かれた珠莉の宛先や差出人の名前は、彼の直筆だったということを思い出したのだ。
「……えっ? いきなり何ですの?」
「愛美、どしたの? 急になんでそんなものを」
「その理由はね、これ」
愛美は自分の机の引き出しから、小さな封筒を取り出した。その中身は少しくたびれた二つ折りのメッセージカード。
「これね、わたしが入院した時に、おじさまから送られてきたお見舞いのメッセージカードなの」
「入院って、あのインフルエンザの時の?」
「そう。わたしね、この字と純也さんが普段書いてる字が同じなのかずーーっと気になってて。でね、そういえば三年前、珠莉ちゃん宛てに純也さんからレターパックが届いてたなってついさっき思い出して。どうして今まで気づかなかったんだろう」
「それで、二つの筆跡を見比べたくなった、と。それは分かったけど、そんな三年も前の封筒なんてもうとっくに処分してるんじゃないの? 引っ越しのどさくさでどっかに行っちゃったとか。今の今まで取ってあるわけ――」
「あら、ありますわよ」
珠莉がサラッと即答したので、さやかがのめった。
「……って、あるんかい! アンタもなんで取ってあるのさ、そんなもの」
「叔父さまがわたしに荷物を送って下さるなんて初めてだったものだから、あら珍しいと思って取っておいたのよ。ええと、確かこの辺りに……あったわ!」
珠莉は机の本棚を物色し、大学で使うファイルや雑誌の間に挟まっていたそれを見つけた。
「まさか、こんな形で愛美さんの役に立つなんて思わなかったけど。……で、これをどうするんですの?」
「ありがと、珠莉ちゃん。とりあえず、このカードと封筒を横に並べてルーペで見比べてみる」
愛美はいつだったか百円ショップで買ってあったルーペを机の引き出しから取り出し、二つの筆跡を比較し始めた。……けれど。
「う~ん……。やっぱりちょっと違う気もするけど……、よく分かんないなぁ」
「純也叔父さまは両利きでいらっしゃるから、もしかしたら左右で筆跡を使い分けてらっしゃるのかもしれないわね」
「なるほど、両利きか……」
彼が両利きだったなんて、愛美は今まで知らなかった。というか、知ろうとも思ったことはなかったけれど。
「っていうかさあ、愛美。筆跡鑑定のプロでもない限り、正確な筆跡鑑定なんて不可能なんじゃないの? アンタみたいな素人にできるわけないじゃん」
「だよねえ……」
それもそうだ。誰もが簡単に筆跡鑑定できるなら、プロの鑑定人なんて需要がなくなってしまう。
「でも、なんで急に純也さんの筆跡なんか気になり出したの?」
「わたし、そういえば今まで一度も彼の書いた字をちゃんと見たことなかったなあって思って。現金書留の封筒の字って多分秘書の人の字だと思うんだけど、もしかしたらあれも彼の字だったんじゃないか、って気がしてきて。……でも違ったみたい。そのレターパックの字、あれとは別人の字だったから」
現金書留の封筒の字は、もっと年配の人が書くような達筆だった。ということは、あれはやっぱり秘書である久留島さんの筆跡ということだろう。
「それとね、わたし、今大学で『あしながおじさん』の物語について研究してるでしょ? それで思ったんだけどね、ジュディってどうして筆跡で『もしかしたらおじさまとジャービスは同一人物かも?』って気づかなかったんだろう、って思ったの」
彼女もそれに気づいていたら、あの二人の恋だってあんなに回り道をすることもなかったんじゃないかと愛美は思ったわけである。
愛美と違って、ジュディはジャービスと何度も手紙のやり取りをしていた。つまり、彼の筆跡をしょっちゅう目にしていたはず。それなのに、どうして筆跡から見破ることができなかったのだろう? それとも、ジャービスもやっぱり純也さんと同じように(かどうかは分からないけれど)左右で筆跡を変えていたのだろうか?
「それは多分、英語の筆記体じゃ筆跡の違いを見分けるのが難しいからだと思うわ。同じ人が書いても、日によって変わったりするもの。だから、ジュディも同じ筆跡だとは気づかなかったんじゃないかしら」
「ああ、それはあり得るかも」
珠莉の推理に、さやかも納得した。ちなみに、二人とも高校時代から、愛美の影響を受けて『あしながおじさん』を読むようになったらしく、今では愛美がこの話題を持ち出してもついてこられるようになっている。
「なるほどねー、筆記体か……。本ではブロック体になってるから、そこまで考えなかったなぁ」
この二人と話していると、愛美は自分の知識がどんどん深くなっていくような気がした。自分の気づかなかったポイントに気づいてもらえることもあるので、ものすごく勉強になる。
「あとね、もう一つ理由があって。多分この先、わたしと純也さんって結婚に向けて動いていく流れになると思うんだ。彼の年齢からして、向こうの……あ、ゴメン。珠莉ちゃんの親族が言い出さないわけがないと思うの。そしたら、婚姻届とかで彼の字を見る機会も増えるでしょ? だから、わたしも彼の字を知らないまんまじゃいられないかな、って。もちろん、まだ大学生だから今すぐってわけにはいかないけど」
愛美自身は純也さんに結婚を申し込まれたら、喜んで受け入れようと思っている。ただ、あの辺唐院家に嫁ぐのにはまだ抵抗があるけれど。
「……愛美、純也さんと結婚するつもりなんだ?」
「うん。ただ、迷いが全くないわけじゃないけどね」
迷いの原因は、自身が児童養護施設で育ったことだ。初めて辺唐院家へ行って挨拶した時の反応でさえあんなにひどかったので、「純也さんと結婚したい」なんて言ったらもう、「どうせ財産目当てでたぶらかしたんでしょう」と嫌味を言われることは目に見えている。
それを察したらしい珠莉が、愛美に申し訳なさそうに言った。
「それって、私の両親のことね? 施設出身のあなたが純也叔父さまと結婚したいなんて言ったら、お母さまから財産目当てだとか言われるんじゃないかって心配してるんでしょう?」
「うん、そうなの。わたしは別に、自分の境遇をコンプレックスに感じてはいないけど、周りの人はそうじゃないんだってあの時痛いほど分かったから」
「世の中、そんな人ばかりじゃなくてよ。あの人たちが異常なのよ。それに、叔父さまと結婚するからって、必ずしも辺唐院家の一員になるわけじゃないわ。だから、そこは気にする必要ないんじゃないかしら」
「……そうだよね。純也さんなら、わたしを無理矢理親族の集まりに引っ張り出すようなことはしないよね」
愛美のことを大事に思ってくれている彼なら、結婚後も極力愛美を親族との関わりから遠ざけてくれるだろう。愛美が傷付かないよう、そのあたりの配慮はしてくれると思う。
でも……、愛美が結婚をためらう理由はもう一つあるのだ。
「ただね、これはただわたしが一方的にこだわってるだけなのかもしれないけど。わたしって、純也さんからお金を援助してもらってる立場だったわけじゃない? だから、彼に出してもらったお金を返し終わるまでは対等な立場になれないと思うの。そんな状態で結婚してもうまくいかないんじゃないかな、って」
「愛美、気にしすぎだよ。純也さんはそんなこと望んでないかもしれないじゃん。お金返してもらうつもりで援助してたんなら、愛美が奨学金受けるようになった時点でとっくに手を引いてるはずだよ」
「私もそう思うわ。叔父さまは気前のいい方だから、返済なんて最初からお望みじゃなかったはずよ。あなたの前に叔父さまの援助を受けていた人たちも、お金は返済していないんじゃなくて?」
「……さあ、どうだろ? 園長先生もそこまではおっしゃってなかったし。わたしも訊かなかったけど」
愛美は首を傾げたけれど、親友二人がそう言うのならきっとそうなんだろう。純也さんはきっと、愛美がお金を返そうとしても「そんなつもりで援助したわけじゃない」と受け取ってはくれない。
(……って分かってはいるんだけどなあ。わたしは全額じゃなくても、少しだけでも受け取ってほしいんだよね。それがわたしなりの誠意だから)
そう思うのは愛美のエゴだろうか? 押しつけがましいだろうか?
「それに、叔父さまはあなたが夢を叶えて作家になったことで、十分投資した分は返してもらったとお思いのはずよ。だからもう、お金のことは気にしなくていいんじゃないかしら」
「そっか、援助じゃなくて投資か……。そういう考え方もあるんだね」
珠莉の言葉に、愛美は目からウロコが落ちた。「援助してもらった」と思うから、出してもらったお金は返さなければと思っていたけれど。あれが彼の先行投資だったと考えたら、そのおかげで作家デビューを果たした時点でもう、投資された分にはちゃんと報いることができているわけである。
「じゃあもう、お金のことは気にしなくていいってことだよね……」
とりあえず、純也さんちの結婚に向けてのハードルは一つなくなったと考えていい。それが分かった愛美はひとまずホッとしたのだった。
* * * *
――それからしばらく経った、五月の大型連休明けの土曜日の午後。
「――相川先生、お疲れさまでした! ですが、何も直接原稿を手渡すために僕を横浜まで呼ばなくても……。データをメールで送って下さるだけでよかったのに」
渾身の一作をやっと書き上げた愛美は、それをわざわざプリントアウトした紙の原稿を持って、編集者の岡部さんと待ち合わせをしていたカフェへ出向いた。
長編小説の原稿の封筒が入ったトートバッグはすごく重くて、正直肩が抜けそうだった。でも、愛美はあえてそうしたのだ。
「原稿、重かったでしょう?」
「ええ、まあ。肩を脱臼するかと思いました。でも、この原稿の重みを自分でも嚙みしめたくて。メールで送るだけじゃ何だかこの原稿を軽々しく扱ってるような気になるので、せっかく魂を込めて書いた原稿に申し訳なくて」
苦笑いをする岡部さんに、愛美は力説しながら封筒を手渡した。
「先生がそこまでおっしゃるってことは、相当思い入れの強い作品ということですね。分かりました。では、じっくり読ませて頂きます。今度こそ出版が決まるよう、僕もめいっぱいプレゼンさせて頂きますので」
「はい。岡部さん、よろしくお願いします。この作品はどうしても世に出したいので。すべてはあなたにかかってますからね」
愛美は深々と頭を下げ、飲みかけのアイスカフェラテを一気に飲み干すと、支払い伝票を引き取った。岡部さんがこの後、他の作家と新作の打ち合わせが入っていると言ったことを思い出したのだ。
「すみません! 岡部さん、この後予定入ってるんですよね? もう行って下さい。支払いはわたしが持ちますね」
「そうですか。すみません、先生。ここはごちそうになります」
支払いを済ませて彼の後に店の外に出ると、もう初夏のカラッとした暑さ。この後は特に予定もないので、本屋さんでも覗いてから寮に帰ろうと思っていると――。
「あれ、愛美ちゃん?」
しばらく聞いていなかった男性の声で呼び止められ、愛美が後ろを振り返ると。
「治樹さん。お久しぶりです」
少しくたびれたスーツ姿の治樹が、「よう」と手を挙げて微笑んでいた。でも、少々やつれた顔で。