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第44話 迫りくる代償

 私は涙で腫れぼったい目を擦りながら、葵と一緒に歩いていた。それでも、朝の陽射しが肌に温かく、吹き抜ける風が気持ちよかった。昨日までの気持ちの揺らぎが、少しずつ落ち着いてきているのを感じる。


通学路にはクラスメイトの明るい声が響いていたが、私たちはそれにはあえて気を止めずに、静かに歩いた。


葵も私も、いつも通りの登校風景の中にいながらも、それぞれの考えを巡らせていた。


校門をくぐると、周囲の視線を感じた。ちらっと横目で見れば、何人かの生徒がこちらを気にしている。でも、私は深く考えないようにして、ただ足を前に進めた。


啓は、私たちをちらりと見て、柔らかく微笑んだ。


「無理しないで。あとで会おう」


優しく声をかけるその言葉に、私はふっと肩の力を抜いた。


「うん」


葵も小さく微笑む。


私も葵も、今は少しだけでも気持ちを落ち着けたかった。お互いに顔を見合わせて、小さく頷く。


廊下を歩くたびに、すれ違う生徒たちがちらりとこちらを見るのがわかった。でも、私は気にせず歩き続けた。


化粧室へ向かおうとしたその時――。


「よう、お二人さん」


突然、目の前に二つの影が現れた。


伍代先輩と鷹松先輩が、ゆっくりと私たちの前に歩み寄る。


伍代先輩は軽い笑みを浮かべながらも、どこか意味ありげな視線をこちらに向けている。鷹松先輩は無言でじっと私たちを見つめ、その表情からは何を考えているのか読み取れなかった。


「……何か用ですか?」


私は思わず身を引き、葵と肩を寄せ合うようにして警戒した。


伍代先輩は片方の口角をわずかに上げる。


「別に怖がらなくてもいいだろ?」


軽い調子の声とは裏腹に、どこか試すような視線が向けられる。


彼はポケットに手を突っ込みながら、わざと間を取って続けた。


「ちょっとだけ話したいことがあるんだ」


「話?」


葵がわずかに身構え、鋭い目つきで伍代先輩を見た。


「そんなに長くはならない。な?」


鷹松先輩が肩をすくめる。その仕草は、まるで余裕を見せつけるようなものだった。


私は葵と視線を交わす。嫌な予感が背筋を走る。


しかし、ここで拒めばさらに事態が悪化するかもしれない。


「……少しだけなら」


迷いながらも、私は小さく頷いた。


「話が終わったらすぐ戻りますから」


葵も低い声で念を押す。


「もちろんさ」


伍代先輩はニヤリと笑い、ゆっくりと手を動かした。その仕草にはどこか余裕があり、私たちを試すような雰囲気が漂っていた。


「じゃあ、ついてきてよ」


私たちは二人に促されるまま、屋上へと向かった。


屋上に足を踏み入れると、心地よい風が吹き抜けた。広々とした空が、どこか気持ちを落ち着ける。


「で、話って?」


私は警戒を解かずに尋ねた。


伍代先輩はゆっくりと鞄から一冊の本を取り出し、それを私の足元に投げ落とした。


「……っ!」


私は思わず本を拾い上げた。指先が表紙に触れた瞬間、心臓が跳ね上がる。


タイトルを目にした途端、息が詰まる。


『二人と一人』――啓の小説。


背筋が凍る。これは、数日前に教室で盗まれた、葵から借りた本だった。


「どうして、これが……ここに?」


声が震えるのを感じながら、私は顔を上げた。


伍代先輩は、私の動揺を楽しむかのように唇を吊り上げている。


「お前たち、俺がこんなことをする人間だとは思わなかっただろ?」


葵が一歩前に出る。


「……最低です。どうしてこんなことを?」


鋭い視線を伍代先輩に向ける葵。しかし彼は肩をすくめ、軽く笑った。


「さあな。でも、本を盗んだのが目的じゃない」


「じゃあ何が目的なんですか?」


葵が険しい表情で詰め寄る。


伍代先輩は私の目をじっと見つめ、じわりと近づきながら低く囁いた。


「なあ……俺が書いた小説、どうだった?」


私は息をのむ。何を言われたのか、一瞬、理解が追いつかなかった。


「……とても素晴らしい作品でした。でも、今の先輩を見ても、前みたいに素敵な人だとは思えません」


私はきっぱりと告げた。


「むしろ……軽蔑します」


伍代先輩は目を細めたが、すぐにまたニヤリと笑った。


「そっか。でもさ、お前、俺の小説を読んでて、何か思い出さなかったか?」


「思い出す……?」


私は困惑しながらも、小説の内容を思い返す。


読んでいると、確かにどこか引っかかるものを感じた。


具体的に何がとは言えないが、物語の雰囲気や登場人物のやり取りが、どことなく馴染み深い気がする。


何気ない言葉の端々、ささいなやり取り、そして描かれている関係性。その一つ一つが、まるで過去に啓や葵と過ごした日々の断片が重なるように感じられた。


はっきりと思い出せるわけではない。ただ、幼い頃に交わした会話や約束の記憶が、物語の中に滲んでいるような感覚があった。


「まさかっ!」


思い当たる節が次々と浮かび上がる。


伍代先輩はそんな私の様子を見て満足げに笑い、ゆっくりと口を開いた。


「どうやら、気づいたみたいだな」


「雅達のために書いた小説、なんだろあれ?そうだよ、俺が書いた小説、あれは啓の『二人と一人』をパクって書いたんだよ」


「そんな!!」


私は凍りついた。


伍代先輩の小説に感動し、それを褒めた。


それが啓のものだったと知っていたら、私は――。


「嘘……」


私は震える声で呟いた。


その瞬間、背筋が凍りつくほどの笑い声が響いた。


伍代先輩と鷹松先輩は、心底楽しそうに笑っていた。


「そうそう。やっと気づいたか?」


その笑い声が、どこまでも残酷に響いた――。


「その小説のあとがきにはこんなことが書いてたよ」


伍代先輩が余裕たっぷりに言葉を続ける。


「なんでも、この物語は自分の実体験を基にして書いたんだとさ。そして、ご丁寧に最後にはこうも書かれていた」


彼は一拍置き、私たちの表情を楽しむように笑った。


「この物語を最愛の幼馴染達に捧ぐ……だってよ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がギュッと締め付けられる。


葵が息を呑み、私は何か言い返そうとするが、喉が詰まって声が出ない。


「いや、泣かせるよな~」


伍代先輩があざ笑うように肩をすくめると、鷹松先輩も薄く笑った。


あまりのことに、私は目の前がぼやけるような感覚に襲われた。足元がふらつく。


知らず知らずのうちに、啓を傷つけていた。


そんなこと、考えもしなかったのに。


「雅!」


ふらついた私の体を、葵がとっさに支えた。その手の温もりだけが、現実に引き戻してくれる。


「……最低……!」


葵の震える声が、静かな屋上に響いた。彼女は伍代先輩を鋭く睨みつける。


「よくそんなことができましたね……!」


しかし、伍代先輩は余裕の笑みを崩さない。


「お前だって人のこと言えないだろ?」


突然、口を開いたのは鷹松先輩だった。愉快そうに口元を歪める。


「……どういう意味?」


「ありもしない罪で、散々啓君を責め立ててただろ?」


鷹松先輩の言葉は軽い調子だったが、その目には薄暗い光が宿っていた。


まるでずっと黙っていた何かを暴露する瞬間を楽しむような、その表情に私は戦慄した。


葵は一瞬硬直し、目を伏せた。その姿は普段の気丈な彼女とはまるで違い、脆さを剥き出しにしているように見えた。


震える声で葵が口を開くが、その言葉は途切れて消えた。


彼女は拳を強く握りしめ、視線を逸らしたまま肩を震わせている。


鷹松先輩はさらに一歩前に進み、まるで優しげな声を装いながら続けた。


「お前も分かってるだろ?自分が啓にどれだけ酷いことを言ったか。あの時の言葉がどう響いたのか……、本当に見えなかったのか?」


葵の顔は徐々に蒼白になっていく。


「やっぱり……!啓は……小夏に何もしてなかったのね……!!」


最後に絞り出すように吐き捨てた葵の言葉は、怒りとも後悔ともつかない感情が入り混じっていた。


「……っ!」


私は葵の顔を見て、全身の力が抜けそうになった。彼女の唇が震えている。


葵の声は怒りと後悔に満ちていた。


伍代先輩と鷹松先輩は、そんな私たちを見て心底楽しそうに笑っていた。

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