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第43話 交差する記憶と未来

 ぎこちなさが残るものの、僕たちは幼い頃のように並んで歩いていた。


雅と葵。かつては何の違和感もなく、当たり前のようにいつも一緒にいた二人。だけど、今はこうして歩いていることがどこか奇妙で、まるで時間が巻き戻ったみたいだった。


懐かしいはずのこの並びが、今はどこかぎこちなく感じる。それでも、会話が少しずつ弾み始めると、昔のような心地よさが戻ってくるのを感じた。


笑い声が交じる。けれど、それが無邪気だったあの頃とは違うことを、僕たちは誰よりも分かっていた。


「ねえ、啓?」


雅が不意に口を開いた。その声は、まるで確かめるように慎重で、けれど心の奥底からの問いかけだった。


「何?」


僕は雅の顔を見る。彼女の瞳には迷いと決意が同居していた。


数秒の沈黙の後、彼女は少し息を吸い込み、意を決したように口を開いた。


「やっぱり……啓が蘭学事啓なんだよね?」


一瞬、胸の奥が重くなる。


蘭学事啓――それは僕が作家として活動しているときのペンネーム。


隠していたつもりはない。でも、話す勇気がなかった。


僕たちの間にあった溝、それを埋める方法が見つからないまま、時間だけが過ぎてしまった。


「……そうだよ」


雅と葵の表情が変わる。驚きというより、確信が形になったような、けれどどこか信じたくないような、複雑な感情が入り混じった顔だった。


「私、まだ……啓が書いた小説、読んでないの……どんな内容なのか気になるわ」


雅がぽつりと呟くように言う。葵も、小さく頷いた。


「わ、私も読んでみようかな……」


僕は二人を見て、柔らかく微笑んだ。


「うん、ぜひ読んでほしい。読んで、その目で確かめてほしい。だって、そのために書いたんだから」


僕の言葉に、雅の唇が小さく震えた。葵も、何かを堪えるように拳をぎゅっと握る。


「でも、どうして話してくれなかったの……?」


雅の声がかすかに震えた。


「……それ、私も気になってた。啓が一人で何かしてるのは分かってた。でも、それが小説だったなんて……」


葵の目も不安げだった。


「……訳があったんだ」


僕は少しだけ苦笑しながら答えた。


「訳?」


雅が小さく首を傾げる。


僕は息を吸い込み、昔の記憶を手繰るように口を開く。


「二人とも、僕が願い事を聞いて約束した言葉、覚えてる?」


その言葉に、雅と葵の肩がわずかに震えた。


「え、ええ……」


「二人を物語の主人公にできたら……そのあと……」


葵が消え入りそうな声で続ける。その先を、雅が引き継ぐ。


「……僕のお嫁さんになって、だったよね……?」


雅の声がわずかに震えた。僕は小さく微笑んで、静かに頷いた。


「ああ、やっぱり……、本当はこうだったんだ。波木賞を取って……二人を物語の主人公にできたら、僕のお嫁さんになってくださいって、波木賞なんて言葉、僕はたまたま知ってたけど、普通子供には聞きなじみない言葉だよね」


「じゃ、じゃあ『あと少しだけ待って欲しい』って言ったのは!?」


雅が驚いたように声を上げる。葵も続く。


「『僕だって頑張ってたんだ』っていう言葉も……!?」


二人の顔が驚愕と戸惑いに染まり、青ざめるほどだった。


僕は少し俯きながら、ゆっくりと息を吐いた。


「う、うん……あの時はまだ作品の選考中で、結果が出てなかったんだ……。担当の緋崎さんが『間違いなく僕なら取れる』って言ってくれてはいたけど、それは確実ではなかったから……。でもやっぱり、これ以上待てなかった。ずっと我慢してきたからね。だからあの日、まだ結果を受け取っていないのに、僕は先走っちゃったんだ」


「あはは……」


苦笑が口をつく。だけど、それは乾いた笑いだった。


雅と葵は一瞬、言葉を失った。まるで心の中で何かが崩れ落ちる音が聞こえたかのように。


二人の瞳が揺れ、唇が震える。感情が溢れるのを必死で抑えようとするが、押し止めることはできなかった。


「……そんな……」


雅が小さく呟く。その声には、自責の念と後悔が滲んでいた。


葵は両手を強く握りしめ、肩を震わせる。そして、ついに限界がきた。


「……っ!」


彼女の瞳から大粒の涙が溢れた。それを皮切りに、雅の目にも次々と涙が溜まり、頬を伝って落ちていく。


「ごめん……ごめんね、啓……!」


雅は両手で顔を覆い、嗚咽を堪えきれなかった。葵も震える指先で目元を拭うが、涙は止まることを知らなかった。


「ずっと……そんなに頑張ってたなんて……私たち、本当に何も分かってなかった……!」


雅は両手で顔を覆い、肩を震わせながら嗚咽を漏らした。葵もまた、こらえきれずに涙をこぼし、必死に目元を拭うが、止めることができない。


「こんなに……苦しんでたのに、気づいてあげられなかった……」


震える声で葵が続ける。悔しさと後悔が入り混じった言葉だった。


雅は顔を上げ、涙で濡れた目で僕を見つめた。


「本当に……ごめんね、啓……」


その瞳には、ただの謝罪ではなく、積み重ねた時間の重みと、それを取り戻したいという切実な願いが滲んでいた。後悔と、自分たちの愚かさを噛みしめるような痛み。その奥には、かつての無邪気な日々への憧れと、もう一度やり直したいという強い想いが、静かに揺れていた。僕も経験した痛みだから分かる。


もう一度やり直したいと、あの日何度も切に願った事だから。


でも……失くした過去は、決して戻ることはない。


例え、どれほど強く願ったとしても。時の流れは無情で、あの頃と同じ形で取り戻すことなどできない。


それでも、僕は今、確かに感じていた。


この瞬間、二人が僕を思ってくれていること。その事実が胸を温かく満たしていく。


過去をなぞるのではなく、今ここからまた新しい関係を築いていけるのではないか。


やり直すのではなく、それがどんな形だったとしても、改めて一歩を踏み出せるのではないか。


そんな希望が、心の奥からじわりと広がっていく。


今の二人となら、きっと――


雅と葵はその場にしゃがみ込む。嗚咽が朝の静寂の中に響く。


僕はそっと、昔のように二人の頭を撫でた。


「もういいんだよ。全部、話せたから」


涙を流しながら、二人は幼い頃のように僕に寄り添った。


長い間、すれ違っていた時間が、ようやく一つになった瞬間だった。

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