二階を探し回り、三階に足を運んでも二人の姿は見えませんでした。
きっと部室棟を飛び出して、教室が並ぶ講義棟の方へ行ったのだと思った私は、すぐに足を向けました。
時間は残りあと僅か、思い出を消さないためにも、精一杯走を動かして。
一度占い部のある一階に戻って講義棟へと続く外廊下を目指します
しかしその途中、一階の階段で私は足をすべらせました。
少し足を捻ったのか痛みが駆け巡りますが、今は関係ありません。
祈さんに言われたようにできる限りのことを考えて、友達のもと少しでも速く走らなければいけませんから。
そのとき、床に伏した私の目に講義棟の三階を駆け抜ける誰かの姿が映りました。
私は三階を目指すべくすぐに立ち上がりました。
痛む足を押さえながら外廊下を渡りながら改めて鰐噛稀さんの能力について考えます。
鰐噛稀さんの能力は時を戻すもの。
そして今まで数回は私ともる子さんの時間を戻している。
それを祈さんは認識していて、同じ事を繰り返す直前に私たちはまるで瞬間移動するように少し前の場所に戻っている。
そしてもる子さんの行動は全て失敗している。
これらのことから思いつくとすれば、たしかに時間を戻す能力でしょう。
しかしある疑問がわきました。
それはもる子さんが怒ったときのことです。
祈さんが言うには、まず一回目に扉を開けてすぐに鰐噛稀さんを捕まえた。
二回目に走り去っていた鰐噛稀さんを追いかけて捕まえた。
三回目が今で、遠くまで走り去っていた鰐噛稀さんは逃げおおせて追いかけっこになった。
もしも時間を戻しているのなら、鰐噛稀さんが遠くに逃げている今の時間軸はおかしいのです。
一回目で捕まって、二回目では少しの距離を逃げた。
それならば、一回目を知っていた鰐噛稀さんがもる子さんが近づく前に逃げ始めたといえます。
ですが、三回目の現在で彼女はそれ以上に逃げていた。
これの説明がつかないのです。
戻った先の時間のタイミングが違うなら分かりますが、そうではない。
だとしたら、時間が戻っている間に彼女が逃げる事が可能だったと考えれば?
もし二回目に彼女が時間を戻した場所で、私たちの時間をさらに戻して三回目のループに入っていたとすれば距離が開くのは必然です。
例えばもる子さんと鰐噛稀さんが百メートル走をするとして、スタート前のゼロメートル地点で能力を使っても二人の距離は開きませんが、五十メートルの地点で能力を発動、もる子さんだけがゼロメートル地点に戻って、その記憶がないとなれば鰐噛稀さんは五十メートル分進んでいることは当然。
つまり、扉から逃走して廊下の半分を走った地点で鰐噛稀さんが能力を発動。
もる子さんが教室にいた地点まで巻き戻されていたのなら、扉を開けて鰐噛稀さんの後ろ姿を見た時に彼女との距離は想定以上に離れているはず。
ですから私達が受けた能力は時を戻す能力ではないのではないかと思いました。
時間を戻すというよりも、正確には記憶を消した状態で鰐噛稀さんの指定した時間に私達が存在していた場所に移動させるものなのではないかと。
受けた側からはどちらも同じように感じるでしょう。いえ、そもそも感じることはできないでしょう。
ですが、鬼ごっこという点では後者に利点があります。
時間を戻すなら制限時間も元に戻りますが、記憶を消して場所を移動させるなら時間が戻ることはないのですから。
ですがこれがもし、私ともる子さんだけの時間を戻すというものだったら?
この場合でも特に想定は変わりません。
私たちの時間だけを戻すのと、記憶を消して場所を移動させるというものは時間の流れという条件の上では特に変わりがないのですから。
本当に私ともる子さんの時が戻っていようとも、祈さんが戻っていたことを認識していたのもまた事実。
結果的に言えば流れ続ける時間の中で、戻ったように感じるだけ。
本当に一定の日付から全てをなかったことにするわけではないのです。
いうなれば、どちらにせよ時間の流れの中で鰐噛稀さんが決めたタイミングまで記憶を消している。
確信は持てなくとも私は能力の正体を掴んだような気がしました。
ですが、それがわかっても対応のしようがありません。
どちらにせよ結局は覚えてないのですから。
だったらやれることはひとつです。
能力発動の条件を満たさなければ良いだけです。
それはきっと彼女を捕まえかけるというのが今の最適解。
ですがここにも穴はあって「捕まえる」とは何なのかが疑問点なのです。
もしも捕まえる直前に私やもる子さんが転んだとして捕まえあぐねた場合はどうなるのか。
能力は発動するのか不発なのか。
捕まえる気がない状態で、たまたまばったりと出会ったら?
捕まえるとは触れることなのか?
文字通り捕まえるのか?
疑問だらけです。
そもそも本当にそこが条件なのかすらわからないのですから。
でも少なくともキーになっていることに間違いはありませんし、共通点がないわけでもありません。
共通点、それは彼女自身が「負けるかもしれないと思うこと」です。
普通に追い詰めても、ばったり出会っても、触れただけでも、文字通り捕まえても、鰐噛稀さんが提案した鬼ごっこというルール上、負けるという状態に追い込まれることになります。
今まで能力が発揮されたときも全てこれらは共通します。
ですがそうするともうひとつ疑問がわきました。
どうして彼女は能力発揮の条件が揃ったのに逃げたのか──。
「いてっ...!」
色々なことが頭を駆け巡っていたせいか、私はまたもや階段で転んでしまいました。
ただ今回は登っている最中でしたので先程のように足をひねることはなく、少しばかり踏み外してスネをぶつけただけでした。
きゅうきゅう痛む向こう脛をさすっていたところ、私の目に入ってきたのは...。
「あれぇっ?」
階段を下ろうとするおかっぱ頭。
鰐噛稀 兎籠。
私から見て左側、廊下が伸びる方向からはとんでもない足音とともにもる子さんの声も聞こえてきました。
「やっばぁ〜、兎籠ちゃん追い込まれちゃったかなぁ」
二階へ続く階段には私。
伸びる廊下の奥にはもる子さん。
屋上に続く階段は使われてない机などが置いてあって登れません。
ここで、今ここで勝負が決まります。
ひたひたと鰐噛稀さんはあとずさり、背後の教室のドアを後ろ手にチェックしましたがロック済み。
余裕そうな顔からドッと汗が流れ出たのが目に見えました。
「江戸鮭ちゃん!ナイス!」
到着したもる子さんも彼女の逃げ道を塞ぎます。
「ピンチぃって感じぃ」
焦る彼女に私は追い打ちをかけるべく、頭の中を巡っていた予想を吐露しました。
「鰐噛稀さん。あなたの能力、もう分かりました」
「うん?わかるも何もぉ、いったじゃぁん最初にぃ。時間を戻すってぇ」
「いえ、あなたは時間を戻していません。戻したように見せかけていただけです。記憶を消して、場所を移動させているだけ」
「...ふぅん。びっくり。よくわかったねぇ〜」
「それに、条件もわかってます」
「えぇ?ほんとぉ?」
「はい。あなたの能力は捕まると思ったときに発動するんです。窓際でも、二階でも、ドアの近くでもそうでしたから。だから私たちは捕まえません。タイムリミットまで待って戦いは終わりです」
「江戸鮭ちゃん──」
「もる子さん。いいですか。絶対に捕まえないで下さい。捕まえようとしたら私たちの負けです」
「う、うん!わかった!」
私ともる子さんは一歩も動かずに、ただ彼女降参するのを待ちました。
するとドアに寄りかかった体を持ち上げて、ユラリユラリと鰐噛稀さんが移動を始めました。
私たちのどちらかにわざと捕まりに来るのか、と思いましたがどうやらそうではないようで、壁沿いに、もる子さんと対峙するようにして廊下の突き当りを背にしました。
「あ〜ぁ、そこまでバレちゃったらしょうがないかなぁ...。あたしの負け...」
彼女のセリフに私はホッと胸を撫で下ろします。
「なんてね」
「...え?」
「惜しかったねぇ、江戸鮭ちゃん。合ってた、合ってたけどぉ、足りなかったなぁ〜」
鰐噛稀さんはもる子さんに向けて手のひらが見えるように左腕を突き出しました。
「残念だったなぁ。あと一歩って感じぃ、あたしの能力の条件はぁ、ちょっと違うかなぁ」
小指から一本ずつ指を曲げていき、最後に右を向いた親指だけが残りました。
「この能力の発動条件はぁ...、」
私は廊下を蹴りました。
もる子さんも廊下を蹴りますが、一足では届きません。
「
踏み出した足は先程転んで痛めたせいか、言うことを聞きません。
もる子さんも同じようで、何度も転んだのでしょうかひねった足は言うことを聞かずに地に伏しました。
鰐噛稀さんは伸ばしていた親指をゆっくりと曲げると、やっと、やっと彼女の瞳がキラリと光を放ったのです。
「芥への
「キャオラァッッ!!」
絶対的な絶望のなか、私の頭を飛び越えた誰かの飛び蹴りが鰐噛稀さんの脇腹を捉えました。
それは靭やかで、それでいて鋭くて、夕日に輝きながらも銀色を保っていました。
「おいザコ女とバカ後輩ぃ!ウチに蹴り入れといて逃げてんじゃねえよこのクサレ脳ミソがァッ!!」
「些細ちゃん!?まって!あれは誤解だから!」
「誤解もなにもねえんだよバカ後輩がぁ!今日という今日こそ絞め殺す!!」
「ひえ〜!」
もる子さんも疲れ切っていたのか、些細さんへの抵抗はせずに襟元を引っ掴まれて引きずられていきました。
「やあ江戸鮭くんや。無事間に合ってよかったよ」
「祈さん...」
私の背後から表れた彼女はまたもや私の頭を撫でました。
「すごいね。頑張ったよ。自分にできることをやりきった。でもね」
撫でる手をそっとどけると、二本指でぺしりと私のおデコを叩きました。
「自分にできないことは他人に頼れ。できないことは恥じゃない、賢い選択っていうのだよ。わかるかい」
「...は、はい」
薄緑の彼女の髪の毛が少しだけオレンジに染まって、なんだかいつもの祈さんには見えませんでした。もっと大人で、それでいて。
「よしよし。でも驚いたよ」
「な、なにがでしょうか...」
「些細、後輩がピンチだといったら喜んできてくれたんだよ。仲いいんだな君たちは」
「え、あ、そ、そうですか...。そう、そうですか」
「うん。...ただ」
「ただ...?」
引きずられていくもる子さんの声と、些細さんの罵声が木霊します。
祈さんはそれ以上は何も言いませんでした。
鰐噛稀さんはよっぽど痛かったのかぐったり寝転
ぶばかりです。
多分、今日という日を私は忘れないでしょう。
祈さんは私にとって、なくてはならないことをたくさん教えてくれました。
足が速くなくっても、力がなくってもできることはある。
私にはもる子さんがいて、些細さんもいて、もちろん蛍日和さんも、持さんも、おちむしゃ部の方々だって、叙城ヶ崎先生だって。
それに祈さんもいて...。
皆に近づくために、一歩でもなりたかった自分になるために、私は今日から別の私になるんだって。
私には、私のできることを。
「ひえ〜!おにごっこはもう懲り懲りだよお!」
───────
「どうだったかしら?」
「ごめんなさぁい!失敗しちゃった!大敗、惨敗、大黒星!」
「負けたのにいさぎ良いわねアンタ...。まあいいわ。次の手を打つから」
「はーい!」
「ホント元気ね...。次も力を借りるかもしれないから、お願いね」
「うん!ばっちり!完璧、無欠、準備万端!」
「じゃあ、よろしく」
「はーい!」
「...きらら部、いえ江戸鮭さしみ...。なかなかできるようね」
───────