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3−1 蝶の羽音


本日は晴天なり、という言葉がこんなに似つかわしい日はないでしょう。

雲一つない夏の空は青々と、吹く風は心地よく清々しい緑を感じさせます。

今日は一学期の終業式。

私ともる子さんが転校してから、既に二ヶ月が経とうとしていました。

順風満帆とは言えない日常ですが、決して物凄い不安が常々纏わりついている訳でもなく、それ相応に良い毎日を過ごしています。

それに天気のおかげか、今日はいつもより私はご機嫌でした。

もちろん明日から夏休みということも相まっていることに違いはないでしょう。

今まで私が持っていた夏休みのイメージといえば、宿題が多いだとか、暑いだとか暇だとかどちらかと言えば世間から乖離したネガティブなものでした。

しかしながら今回の夏休みに私はちっともネガティブさを感じていません。

なぜか?

第一に学校に来なければ、毎朝毎朝繰り返される質候さんからの襲撃に怯えずに済むから。

第二に奇異な視線を向けられないから。

そして第三に、もる子さんと第二軽音部の皆さんから、既に予定を抑えられているからです。


「夏休みといえば少し遠目のビーチで合宿だよね!」


というもる子さんの鶴の一声に、珍しく意気投合を果たした私たちきらら部。

さも当然のようにプライベートビーチを提供してくれたてでらさんに甘えて、さも当然のように即刻予定をたてたもる子さんと、さも当然のように口を出すだけだった蛍日和さんと、さも当然のように爪切りに勤しんでいた些細さんのお陰で、今回の夏休みに暇を持て余すことは到底ないでしょう。

きっと、明日からはきらら系の醍醐味とも言える夏休み編。

ビーチで繰り広げられる水着回だけでなく、お祭りにバイトにお泊りに奔走することでしょう。

話の腰をおるような物騒な刺客はいません。

血で血を洗う戦闘も繰り広げられることはありません。

やっと私は真実の平穏というきらら系らしい日々を送れる...はずでした。


「さあ。今日という今日こそお縄についてもらおうか江戸鮭さしみ。そして憎き貴様もだ、もる子よ!!」


「うわでた」


「わあ...」


「はっはっは!終業式だからといって私が手を抜くかと思ったか愚か者めが!夏季休暇中は毎日毎日みっちり説教を味わってもらうぞ!」


珍しく朝に遭遇しなかった質候さんでしたが、運の悪いことに帰り間際にエンカウントです。

まるでダンジョンに潜むボスキャラのごとく校門前で腕を組む彼女は、なぜだかいつも以上に自信満々に見えました。


「七並べちゃん。明日から夏休みだよ?少しくらい肩の力抜きなよ〜」


「寝言は寝て言え。私が今日と言う日を逃すはずあるまい。なんせ終業式は半日で終わるのだからな!今から六時間説教を食らわせたって空はまだ明るい!」


「わ〜、先生のお説教より長いよ〜。絶対ゴメンだよ!」


「六時間は流石に勘弁ですね...」


「だよ〜。じゃ、ちゃちゃっと片付けちゃおっか!」


もる子さんはそう言うと準備運動をはじめました。

いつもに増して彼女にも気合が入っています。


「片付ける?フン!世迷言を!今日の私は一味違うぞ!今日はだなっぅ!?」


常人ならざる早さで準備完了したもる子さんは、いつものように話を続ける質候さんを一撃で沈めました。


「よしっ!帰ろう!江戸鮭ちゃん!」


「...はい」


今日だけは私ももる子さんに賛成の意を示しました。

私たちが家路につこうと踵を返そうとしたところ、倒れ込んだ質候さんが言葉を発しました。


「...フッフッフ、こうなることは予期していたぞ江戸鮭ぇ...。だからこそ私は準備した!今日こそはこれで負けるはずがない...!中程度の実力ではない!圧倒的力でなぎ倒す!あとは頼んだぞ...」


質候さんが紡ぐ言葉を聞きながら、私は彼女の目線が私たちを捉えていないことに気づきました。

いつもは実直過ぎるほどに目を見て話す彼女が見ていたのは私たちの背後...。



「第一軽音部よ...!!」



そこには制服姿の大人びた女性がひとり、したしたとこちらへ歩を進めていたのです。


「ふぅん。質候ににちゃんに頼まれたからどんな学生かと思ってたけど...。中々やるんだね、ウワサのゴスロリちゃんたち」


門に寄りかかったまま、その人はクルクルと艶やかな毛先を弄びました。


「こんにちは!私、もる子!こっちのゴスロリは江戸鮭ちゃんだよ!」


「ごきげんよう。貴方がたのことは少しばかり知ってるかな」


「おぉ!江戸鮭ちゃん!私たちの部活も知名度上げいてきたってことかな!?」


「まだロクに活動してませんけど...」


「学園に反旗を翻すゴスロリさんとその一味。いいウワサではないけれど、とっても強くて素晴らしい女のコが一人いるとは聞いていたよぉ。でも、これほどとはねえ。ワクワクしちゃう」


乾いた地面を踏み鳴らし、彼女は私たちへと近づいてきます。

その足元はわたし好みのゴシックで厚いブーツ。

顔を見れば、ぱっつんと一直線に切られた前髪。腰まで届くほどに伸びた真っ黒な後ろ髪が風になびいて、影に潜んだ紺青のインナーカラーとハイライトを映し出します。

制服もよくよく見れば他の学生とは違って、上半身はいたって普通のセーラー服ですが、スカートだけが黒々としていて光を集めていました。

それに髪飾りとして、耳元には大きな蝶のバレッタまでついていて、彼女が学園内での特権階級であることは明白です。

眼前までやってきた彼女は私よりは小さいながらも、女子にしてはとても大きく感じました。

もる子さんと並べば大人と子どもです。

そして下がった目尻と垂れた眉からは、大人の余裕と妖艶さが滲み出ています。

そしてその瞳は既に光を放っていました。


「こんなに小さいのに、スゴイのね。貴方」


「それほどでも〜。あ、アナタじゃなくって、私はもる子だからね!」


「はいはい、もる子ちゃん」


「それでお姉さんのお名前は?」


「うん?わたし?そうねえ──」


妖艶な彼女はまるで幼子に話しかけるように膝を折って、口元へと人差し指をあてがいます。


「今から負けちゃう貴方に名乗る理由がある?」


「おお!自信満々だ!でも聞いておきたいなあ〜」


「あら?どうして?」


とぼけたような顔をして、彼女はヒラヒラと手を振りました。


「だって私が勝つから」


「あらら。そう」


「──うん!」


もる子さんは元気な返事とともに、素早い一撃を繰り出しました。

質候さんを沈めるアレです。

しかしながら目の前の女性は余裕と言わんばかりに体を翻し、その一撃をかわしたのでした。

ですがもる子さんは焦りません。

避けた先を狙って直ぐ様対応します。

一撃、一撃と繰り返される必殺でしたが、ヒラリヒラリと全てかわされます。

渾身の足払いも宙に浮くようにかわされてしまいました。

その姿はまるで蝶、月夜に自由に空を翔ける黒い羽を持っているようでした。


「ぐぬぬ...なかなかやるじゃん!」


「あら、ありがとう。でもその威勢もいつまで続くのかな?」


彼女がそう言うと、パキンとなにかが割れるような音がしました。

それは持さんが私たちにも掛けていてくれたエフェクト。

花盛のお花が砕けた音でした。


「持鍍金ちゃん。衝撃には強いよって言ってたのにな〜。スゴイね!」


「その程度の防御でわたしに挑むなんて、舐められたものねえ」


「そうかな?」


そう言ったもる子さんは、指を軸にして何かを回していました。

動きを止めて、何かを指先で摘みます。

それは蝶のバレッタ。

彼女の耳元で燦然と輝いていたそれだったのです。


「...うふふ、ウワサに狂いはなかったようね。もる子ちゃん」


「教える気になったかな?名前」


「...ふふ」


一直線に整えられた前髪をかきあげて、不敵な笑みが溢れました。


「第一軽音部、葵瀞ぎとろ 夜久巴やぐはみ





夜久巴やぐはみちゃんか!よ〜っし!じゃあ心置きなくやっちゃうぞ!」


「うふふ、余裕でいられるのもここまで...かもね」


夜久巴さんは指先を唇にあてがいます。

それがどういう意図なのかはわかりません。

彼女なりのきらら系っぽい仕草なのかなんなのか...。

ですがもる子さんにはそんな事は関係ありません。

指一本でも動かせば、それは彼女にとっての隙。

今、と決めた彼女の踏み込みを止められる人はいないでしょう。

こんどこそ、もる子さんの一撃がヒットしたかのように見えました。

食らったか確実に声を上げて倒れる一撃。

しかし、声を上げたのは夜久巴さんではありませんでした。


「うわっ!?」


もる子さんの一撃は確かに夜久巴さんを捉えています。

いました。

いたように見えたのです。

ですが腕は彼女のお腹を捉えるどころか、あろうことにその向こう側、まるで背中側に貫通したかのように夜久巴さんをの中をスルスルとすり抜けていたのです。

焦るもる子さんとは対象的に、彼女は普段通りと言うように口角を上げました。

そしてもる子さんにぐいと顔を寄せると、その唇に指を添えました。


「つかまえた」


咄嗟の出来事にもる子さんは後退します。

引き抜いた腕を何度も確認しますが、おかしいところは何もありません。

夜久巴さんも同じようで、平然としていました。


「江戸鮭ちゃん!見た!見た!?なんか貫通してなかった今!?」


彼女の問いに私は何度も首を上下して肯定の意を示します。


「うえ〜...なんかキモチわるぅ。透明人間みたい」


「あら、失礼じゃない?気持ち悪いも何も貴方は何も触れてないんだから」


「そうだけど、そうだけど...気分的に嫌だよ〜。それも能力ってやつだよね?できれば使わないでほしいな〜」


「それは無理っていうものかも、ね」


「そうだよね〜。私もそんな能力あったら使っちゃうもん!」


「そう思う?ならどうする?」


「直進するだけ!」


先程と同じです。

もる子さんはただ直進、夜久巴さんへと一直線です。

単純な突進に夜久巴さんは余裕といった表情で、これまた口元に手をやりました。

そうしてまた、もる子さんは彼女を確実に捉える間合いで拳を振るいます。

しかし拳が到達する前に、予想に反してもる子さんはステップを踏んで横へと飛んだのです。

そうして連続で地を蹴って、瞬時に後方へと回り込みました。

夜久巴さんは完全に動きを追えていないようで、微動だにしません。

もる子さんは静かに腕を引くと、まるで型のように一度動きを止めてからその拳を放ちます。


ですがそれはまたもや夜久巴さんを捉えることはありませんでした。

いえ、正確には捉えたのですが...。

その拳には力がなく、へなへなと軌道を変えて、まるで風になびくようにあらぬ方向へと落ちたのです。


「なにこれ!?」


力なく折れ曲がる自身の腕を見て、もる子さんは驚嘆。

私も思わず両手で口元を抑えました。

もる子さんの腕は、例えるなら紙のよう。

一枚のペラペラな紙を勢いよく宙に振るったように空気に押されて形を変えていたのです。


「折れてない!?なにこれ?折れてないこれ!?」


焦る彼女へ振り向いて、夜久巴さんは笑って返事をしました。

そしてもる子さんの頭をゆっくりと撫でたのです。


「ざんねん」


その不敵な笑みは、眼の前で起こったことを加味せずともとても不気味で、恐ろしく見えました。


「何したの夜久巴ちゃん!?」


「ひみつ」


語尾にハートマークがつくように、勿体ぶりながらゆっくりと言葉が舞います。


「あわあわあわ...あれ。戻ってる」


「もる子ちゃん。これでわかった?貴方のお得意な攻撃はわたしには通じない。どう?降参する?」


「むー...やだ。お説教喰らいたくないもん。それにいくら避けたからって、そればっかりじゃ勝てないよ!!」


「ん〜。そうだね。じゃあ他のも見せてあげよっか」


すると夜久巴さんは、もる子さんを真似るように腕を引きました。

ですがその姿はまさに見様見真似といったところ、どこかぎこちないと言ったようでさまになっていませんでした。

もる子さんもそれは分かっているようでしたが、先程までの摩訶不思議を踏まえて防御の姿勢を取りました。


「いい?もしも痛いって思ったら、貴方の負けね」


「いいよ!かかってきて!そんなの痛くも痒くもないよ!」


「ふふ、じゃあいくからね。わたしの一発はカチカチだから」


「うん!」


ふん、と夜久巴さんの放った一撃。

それは腰も入っていなければ、勢いもない、平凡以下のヘニャヘニャに見えました。

しかしそれは私が見た限り。

その一撃は、一応と防御姿勢をとっていたもる子さんを弾き飛ばすほどの破壊力を持っていたのです。

乾いた地面が土埃を上げます。

私はもる子さんが尻もちをついた姿をはじめて目の当たりにしました。

質候さんはもちろんのこと、蛍日和さん、持さん

、些細さんといった第二軽音部の方々を蹂躙し、第一の刺客である占い部のいのうさんを一撃で伸し、叙城ヶ崎先生の拘束を解いた程にパワーだけは有り余っている彼女が、細身の長身に力負けしたのです。

私の額を一筋の汗が流れ落ちました。

それはいつにもまして冷ややかに感じたような気がします。


「いてて...。久々だよ、尻もちなんて」


「あら。それは良かった。中々できない体験で」


「強いね。夜久巴やぐはみちゃん」


「それはもちろん。第一軽音部だもの」




お決まりのポーズで、彼女は口元に指を寄せました。

質候さんのせいで見誤っていたのかもしれません。

特権と呼ばれる方々の頂点に収まるの彼女、第一軽音部の葵瀞ぎとろ夜久巴やぐはみは伊達じゃありません。


スカートのおしりのところを払いながら、立ち上がったもる子さん。

彼女はまたしても夜久巴さんへと飛び込みます。

きっと当たらないことは彼女もわかっていることでしょう。

ですが、飛び込まないわけにもいかなかったのです。

彼女にとっては戦うこと、それは持てる限りの力で相手を叩くこと。

策も何もありません。

無益というに相応しい行いが続きました。

通り抜けたり、紙のようになびいたり、強い一撃があったりの他にも、夜久巴さんは様々に摩訶不思議な様相を呈します。

もる子さんの足元をツルツルと滑らせたり、どういうことか泥濘のようなドロドロをつくったり、ふわふわと宙を舞ってみせたり。

はたまた目にも止まらぬ速度でスっと手刀を放ったり、挙句の果てにはまるで圧のようにびゅぅと風を巻き起こしたり...。滅茶苦茶です。

まさに彼女の力は千差万別。

次の動きが全く読めませんでした。


少しずつですが確実に息を切らしていくもる子さん。

対して余裕も笑みも口元の指も崩さない夜久巴さん。

このままでは勝敗は明らかです。


どれだけもる子さんが強くとも、一撃必殺を持っていようとも当たらなくては意味がありません。

どうしたら、どうしたらいいのでしょうかと、私は目尻に小さな雫を滲ませました。


「もる子ちゃん。どうかな。諦めはつかない?」


「まだ負けてないから」


「ふふ、でもどう見たってわたしと貴方じゃ差がありすぎる。降参って手は悪くないんじゃない?お説教はガンバってね」


「まだ負けてない」


「強情ね」


「確かに、私だけじゃ夜久巴ちゃんには勝てないかもしれない。全く当たらないなんてね。でも私にはやらなきゃいけないことがあるから。負けるわけにはいかないから。それに、」


もる子さんは夜久巴さんから目を離しました。

戦いの最中で別の場所を見ること、それは大きな隙を生む行為です。

そんな事は私でもわかります。

それでも彼女は見たのです。

私を、私の目を。


「私はひとりじゃないから!ね!江戸鮭ちゃん!」


毎日見ているはずの笑顔なのに、どう言うわけかそれはいつもと違ったように見えました。

それはただの笑みじゃない。

私を信頼している笑みだと。


もる子さんは足に力を入れたかと思うと、一目散にコチラへと向かって飛び込むように突っ込んできます。

背中を見せた者に隙がない訳がありません。

暫しの間を開けて、夜久巴さんは小さく指をさすと、その指先へとまるでバースデーケーキの蝋燭を消すように息を吹きかけます。

先程までもる子さんを弄んだ突風がびゅうと私をめがけて襲いました。

すんでのところ、もる子さんに手を引かれて、なんとそのままお姫様抱っこ。

どうにか攻撃は避けきれました。

再びもる子さんと夜久巴さんは対峙します。

しかし、もる子さんの腕の中には私という重荷を抱えているわけで、誰がどう見てもこちらの不利は一目瞭然です。


「も、ももも、もる子さん...!おろし、おろして!」


「江戸鮭ちゃん」


「重いですから私!重いですから!」


「聞いて江戸鮭ちゃん」


夜久巴さんかた一ミリたりとも目線を外さないもる子さん。

いつになく真面目な顔をした彼女が言いました。


「きっと今の私じゃ勝てない。だから力を貸して」


「もる子さん...!」


「きっと何かあるから。絶対になにかある」


「...はい!」


「みつけよう。弱点」


「でも、どうやって...」


「みて、聞いて」


「...え?」


「江戸鮭ちゃんは観察してればいい。夜久巴ちゃんになにか癖があったり、タネがあったりするかもしれないから。この前みたいに、ね」


私は先日の祈さんの言葉を思い出します。


『君には君の、できること』


今のもる子さんにできなくて、私にできることを。ほんのちょっとでもいい。少しでも力になれたら。


「それに、得意でしょツッコミとか」


「...得意っていうか、ツッコミがいないからだと思うんですが...」


「ツッコミはちゃんと見て、聞いていないとできないから。だから目を、耳を離さないでいて。江戸鮭ちゃんならできるから」


「で、でも...、まだ自信は」


「江戸鮭ちゃん」


「は、はい...」


「この勝負は江戸鮭ちゃんに賭けるね!」


「え、ちょ!?まってもる子さぁぁぁぁぁん!」


彼女は私を抱えたまま、いつもの勢いで走り出しました。

私は目を回しながら、ただただ彼女の腕の中に明らかに容量限度以上の体を押し込めたまま、一瞬のうちに夜久巴さんの眼の前に。


「あら。それでやるの?」


「そうだよ!これで強さニ倍だから!」


「強さ...?...重さ二倍、いえ三倍の間違いじゃないの?」


「そ、そんなに重くないですからっ...!!」


「ま、わたしには好都合。このままお終いまでいっちゃおう─」


夜久巴さんの言葉が終わる間もなく、もる子さんの鋭い蹴りが放たれました。

ですがそれもかわらず、トプンとまるで水に沈み込むかのように夜久巴さんの中に溶けて向こう側へと貫きました。

私は現状把握で精一杯で、様子を見るも何もできたもんじゃありません。


「蹴りはちょっと、女のコっぽくないかな?」


「だって夜久巴ちゃん、当たらないでしょ?」


「ふふ、それもそうかも」


夜久巴さんは口元に手をやります。

そしてまたしても指先を吹くと、ビュゥと強い風が吹いて私は吹き飛ばされそうになりました。

そんな私を見てか、もる子さんの手に力がこもります。

風を抜け出すようにもる子さんは再度駆け出します。

風がやんでも彼女は止まりません。

足元が滑ろうが、なぜか動きが遅くなろうが、よろめこうが、止まりませんでした。

もる子さんは避けることを繰り返すばかりで夜久巴さんと一定の距離を保ったままです。

多分ですが、彼女は私に何かを見つけてもらいたかったのでしょう。

夜久巴さんの癖、能力が何なのか、そして先程言ったように弱点が何なのかを。

ですが私には見当がつきませんでした。


「どうかな!江戸鮭ちゃん!」


「すみません、何も...」


「じゃあ、まだまだぁ!」


もる子さんはまだまだ攻撃を避け続けますが、次第に激しくなるハアハアといった呼吸音が私の心に一抹の不安を抱かせます。

そんなとき、もる子さんの足元が突然に、ドロリとぬかるみました。


「っ!?」


足を取られてその場に転んだもる子さんと私に、夜久巴さんは着実に距離を詰めてきます。

ですが、もる子さんは私を離しませんでした。


「つかまえたぁ。やっとだね、もる子ちゃん」


「いてて...」


「これで終わりにしよっか。わたしも暇じゃないから。今日も部活あるんだ。追いかけっこはおしまい」


もる子さんは、鋭い目つきで彼女から目を離しません。


「じゃあいくよ。動かないでね。さっきみたいにちょこまか動かれると...、」


その時、夜久巴さんは何かハッとしたような顔をしました。

もる子さんはその隙を見逃しません。

私を抱える手に一層の力を込めて、立ち上がると同時に大地を蹴りました。

その素早さは先程までとは段違い。

あっという間に夜久巴さんの眼の前に、そしてそのまま体勢を低くすると、またもや思い切り蹴り上げました。

ですが、それもまた同じ。

空振りです。

何度見た光景か、トプンと体を突き抜けました。


しかし、ひとつだけ。

ひとつだけ違ったのです。

それは彼女の表情。

夜久巴さんの表情に、全く余裕がなかったことです。

まさに間一髪といったように、彼女は歯を食いしばって目を見開いていたのでした。


「...もる子さん」


「うん。違った。焦ってる」


「はい!...でもまだ」


「わかってる。どうして焦ったかは私には分からない。江戸鮭ちゃん。もっと、もっとだよ」


「はい!」


もる子さんは畳み掛けるように連撃を繰り出します。

右に左に華麗な足捌きを交えて、押していきます。

先程と同じように下から蹴り上げることも。

それでも彼女は焦る様子を見せません。

でも怯むわけには行きません。

何がイレギュラーなのかは分かりませんが、確実にそれは存在するのです。


足技を積極的に行ってきた、もる子さんですが先程のように何か不意をつけるのではないかと言うように、私を抱えたままの腕で、肘だけを鋭角に尖らせて夜久巴さんのお腹に突っ込みました。

またもやそれは水に溶けるように彼女の中に消えたのですが、その瞬間、私の耳には小さな声が聞こえたのです。





『とろとろ』


微かな声でした。

微かな声ですが、紛れもなくそれは夜久巴さんのものでした。


「離れて...!」


私は咄嗟にそう叫びました。

もる子さんはハッとしてから、距離を取ります。


「なにかわかった?江戸鮭ちゃん」


「分かりません...分かりませんけど、気づいたことは」


「どんなこと?」


「...まだ確信がないです」


「そっか。じゃあどうすればいい」


「近づいてください。夜久巴さんに、出来ればお顔の近くに」


「顔?」


「はい...。何か、聞こえるんです」


「そっか。わかった。江戸鮭ちゃん。気づいたらすぐに言って。私は言われた通りに動くから」


「は、はい...」


「よし。じゃあ、ちゃんとしがみついててね」


「え?はぃ、はいぃ!?」


あらん限りの速度で詰め寄るもる子さんですが、先程のように声が聞こえることはありません。

何かの聞き間違いだったのか、それとも希望にしがみつきたい私の幻聴だったのか、淡くも期待は散りかけていきました。

そのとき何度目か、また足元が取られました。

よろめくと同時に後方に大きく飛びましたが、私を放り出すようにして、もる子さんは転倒します。

絶望的なピンチでした。

ですがそれは私の中で確固たる解答につながるものでもあったのです。


足元が取られる瞬間、夜久巴さんは口に手をやりました。

まるで「静かに、ね」と言わんとするように、幼子を宥めるように、突き立てられた一本指。

それは彼女の癖なです。

彼女が言葉を発するときの癖なのです。

そして確実に私は耳にしました。

彼女が言った『どろどろ』という言葉を。


「走って!」


私は咄嗟にそう言い放ちました。

言葉を耳にするやいなや、彼女は体制を立て直しながら無言で駆け出します。

その姿を見た夜久巴さんは不敵に笑みを浮かべます。


もちろん一緒に、唇に指を当てたのです。

そして本当に微差というように唇に動きがありました。

もる子さんの位置は既にいつもの間合いです。

ですが、このまま一撃を加えても絶対に避けられるか、当たらない事はわかっています。

ですから、私は賭けに出ました。


「走って!」


もう一度叫んだのです。

互いの間合いを保たせることなく、絶対的なゼロ距離まで。

想定外と言うように夜久巴さんの表情が歪みましたが、それも一瞬の出来事です。

ですが、これで行くしかない。

そうしてもる子さんが彼女を、夜久巴さんを通過する瞬間、その瞬間に私はもう一度叫びました。


「ストップ!!」


地面が削れるほどの急制動。

もる子さんの体は、絶対にありえないことですが夜久巴さんを通過している途中で止まったのです。


「え?」


静寂と土埃に、夜久巴さんに似つかないとぼけたような声が響きました。





「もる子さん。夜久巴さんの中にいたまま動かないでください。彼女が動いても絶対に抜け出さないで」


「わかった」


「ちょちょちょ!なにやってるの貴方!?わたしの体の中間で止まるって...!ど、ど、どういう了見!?」


「江戸鮭ちゃん。私も凄く気持ち悪いんだけど...」


「だったら早くどきなさいって!」


「夜久巴さん。もう、わかりました」


「な、ゴスロリちゃん!?貴方も言って!どいてって!」


「いいえ、絶対に動きません」


私はそう言うと、もる子さんに習うように彼女の体に腕を通します。


「ひえぇっ!」


らしからぬ声が木霊します。

私は気にせずに、答え合わせをするべく彼女に問いかけました。


夜久巴やぐはみさん。今の状態はなんですか?」


「なにってっ...!ゴスロリちゃん!?誰がどう見たって異常な状態でしょ!?」


「そうじゃないです。とろとろ?さらさら?どろどろ?どれででょうか...?私の手の感触からするには...とろとろ...?」


「ひええ...ムニムニしないでゴスロリちゃん!!」


「...もる子さん」


「ん?なーに?」


「...今の言葉で確信に変わりました」


「確信?」


私は夜久巴さんを見下ろすようにして、彼女の目をじっと見つめました。


「夜久巴さん」


「な、なにゴスロリちゃん?」


猫なで声をあげる夜久巴さん。

隠しているようですが、その顔にいつもの余裕はありません。


「オノマトペですよね?」


「っ...!」


「オノマトペ?なにそれ」


驚く夜久巴さんを余所目にもる子さんはとぼけた声を上げました。


「夜久巴さん。あなたの持ってる能力は口にしたオノマトペ通りに物の状態を変えられるってこと...じゃないですかね?」


「さ、さあ。なんのことやら...」


「私、聞きました。夜久巴さんにもる子さんの手がすり抜けたときに確かに『とろとろ』っていったこと。それに、もる子さんが泥濘に足を取られたときに『どろどろ』といったことも」


「......」


「思い返せば最初からです。もる子さんの攻撃がそれた時は紙のように『ペラペラ』でした。一撃を加えた時は『カチカチ』って言いました。風を出す時は『びゅうびゅう』ですか?浮いた時は『ふわふわ』?滑ったときは『ツルツル』ですかね?」


そこまで言ったとき、夜久巴さんはニヤリと笑みを浮かべました。

ですがその笑みは、どこか無理をしているようなように思えました。


「ふぅん...。中々じゃないの。正解。よく聞いてたじゃない」


「もる子さんのおかげです。彼女がずっと夜久巴さんを見ていてくれたから、私は別のことに集中できた。言葉を聞いていられました」


私の言葉に夜久巴さんは鼻を鳴らします。

そして、少しばかりが取り戻した余裕をもった表情で言いました。


「ゴスロリさん。本当に御名答。こんな状態じゃなければ拍手してたかも」


「...ありがとうございます」


「でも、考えなかったの?」


「...何をですか?」


彼女はわざとらしくゆっくりと腕を上げ、口元に指を添えました。


「私がここで貴方達をペラペラにしたり、私自身がカチカチになったりは考えなかったのかなってこと」


その言葉に、もる子さんが素早く反応します。

足に力を込めて、間を置こうと。

ですが私は手を差し出して、それを制します。


「それは出来ません。よね?」


「...どうしてそう思うのかな?」


「二度目にもる子さんが蹴り上げたとき、夜久巴さんには違和感がありました。どこか焦っていたような。それで思い返したんです。その時の会話を。そうしたらあの時あなたは直前に『ちょこまか』と言っていた」


「そんなこと言ってた?江戸鮭ちゃん」


「言ってました。その証拠にもる子さんは足元を取られていたのに少しの間だけとても早く動けました。それで考えついたのが、同時に二つ以上のオノマトペを付与はできないということと、自分自身以外に能力を使った時はもって十秒くらい...ってことです」


「ふうん...」


「だから私ももる子さんも、今のあなたから手は引き抜きません。お互いにどうなるかは分かりませんが...、絶対に効果は解けないはずです」


「...ふう」


夜久巴さんは小さくため息をついて空を見上げました。


「わかった。私の負け」


「やったああああああああああああああああああ!!」


「ぐぇぇ!?」


同時にもる子さんが抜け出して、女子高生とは思えない勢いのタックルで私を地面に叩きつけました。

勿論もる子さんは夜久巴さんから抜け出しましたし、私も吹っ飛んでいるわけですから、当然です。


「ちょ!もる子さん!?聞いてました話!?私の話聞いてました!?」


「うん!なんかめっちゃカッコつけた話し方してたね!」


「そこじゃない!そこじゃないです!夜久巴さんから抜け出したら能力使われちゃうじゃないですか!?」


「あ、そっか。じゃあもっかい入れとくね!」


もる子さんが当然といった感じで、まるで水を張った桶に手を入れるかのよな気軽さで夜久巴さんの胸元を弄りました。


「...あれ。江戸鮭ちゃん。感触が違うんだけど」


「もる子ちゃん。それは普通に私の体だから。弄らないでね」


トプンともスルリとも沈むことはなく、ただ単純にもる子さんの小さな手は夜久巴さんの体表を撫で回していたのです。


「もる子さん!もる子さん!危ない!危ないから!ペラペラになっちゃうから!」


「あわわわ!」


擬音生乍ぎおんしょうじゃ


「...え?」


擬音生乍ぎおんしょうじゃっていうんだ。私の能力。占い部に名付けてもらったの」


「あ、いのうさんに...」


「知ってる?ネーミングセンスちょっとアレなあの子」


「は、はあ...」


「もうしないから、安心して」


呆気にとられた私達に、夜久巴さんは優しく言いました。


「さっき言ったでしょ?負けって。不意打ちしたり、卑怯な手を使ってまで勝とうと思わないから、安心して」


「...よかったぁ......」


私は安堵して、汚れることも構わずに体を地面に横たえました。


「わかっていると思うけれど、わたし、この学園でもイチニを争うきらら系なんだから。第一軽音部は伊達じゃないよ?」


「お〜、そうだった!すごい人なんだった!」


「きらら系なら正々堂々と、特技で勝負しないとだからね。今回はわたしの負け」


「じゃあさ夜久巴ちゃん!私達が勝ったってことは『きらら部』もレア度上がる!?」


「レア度...?星のこと?それとこれとは話は別かな。星はきらら系の活動で手に入れるものだから。ちゃんとエキストラのバイトとかしなきゃだーめ」


「そんな〜...」


「...あはは......」


戦いの終わりを告げるように、爽やかな風が地面を撫でました。




──────




「ふふ...中々面白いね貴方たち。...そろそろアレかな。じゃ、わたしは部活にいくから。またね」



あれだけの戦いの後でも夜久巴さんは部活に向かうようでした。

今の今まで寝転んでいた質候さんを抱えて...。


行儀がいいとは言えませんが、私たちは地べたに座り込んで少しばかりお話をしていました。

聞くところによると夜久巴さんは私達に突っかかろうとする気は特にないとわかりました。

今回こうなったのは、ただ単に友人だった質候さんからの依頼で、第一軽音部の予算増量を引き合いに出されて引き受けたものだったようです。

実際に風紀委員会が予算の実権を握っているのかは定かではない、というか多分握っていないことはわかっていたようなのですが、もる子さんと私の写真を見せられてどうしても気になってやって来たということでした。


「はあ〜。疲れたね江戸鮭ちゃん!今日が終業式でよかった〜!」


「ほんとですね...はは...」


「でも凄かったね江戸鮭ちゃん」


「え、いや、それほどでも...」


「めっちゃカッコつけて話してたね!」


「そこはマジで忘れてほしいです...」


「でも、わたしだけで勝てなかったのはホントだから、さ」


もる子さんはいつもの笑顔に少しばかり影を落としました。

そして何度かその拳を握って、何かを確かめるようにしました。


「まだまだだな〜、私」


「いや、そんなことは...」


「でも!」


もる子さんがすくっと立ち上がりました。

そしてわたしに向かって手を差し伸べます。


「江戸鮭ちゃんと二人ならどんな強敵も倒しちゃうから!よろしくね!」


「え、あ...」


私が答えあぐねていると、ぎゅっと手を握られました。

私はその手を頼りに立ち上がります。


「夏休み!楽しみだね!」


「...ええ、そう、ですね」


「じゃ!帰ろっか!」


「...はい!」


そうして私ともる子さんは家路へ歩き始めます。

夏休み最初の日はまず、クリーニング屋さんに行くことから始まるでしょう。

汚れたお気に入りのお洋服を綺麗にして、それから本当の夏休みの始まりです。

ですが私には気がかりな点がありました。


それは夜久巴さんが不意にこぼした言葉です。


「でも大変だね二人とも」


「...何がですか?」


「うん?何がって、夏休みだよ?」


「...夏休みが、何ですか?」


「あれ、これ言っちゃ駄目だったのかな?まあいっか。質候ににが言ってたんだけれどもね」


「あの...もう嫌な予感が...」


「夏休み中の刺客の話」


「............は?」


夜久巴さんは思い出すようにしながら口元に手をやります。

彼女のお話は、それはもうネガティブな意味から脱しつつあった私の夏休みを再び底に叩き落とすには充分でした。

果たして私の夏はどんなものになるにでしょうか...。

刺客の登場に戦々恐々。

ビクビクしながら起きる毎日のはじまりです...。

お祭りもビーチもお泊まり会もバイトも、私の理想は泡沫になってしまうような気がしてなりませんでした。


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