「江戸鮭ちゃんって戦いに向いてるよね」
遠く澄み渡る空、セミたちの劈くような声の中、この世の終わりみたいなことを呟いたのは、もちろんのこと私の友人である彼女。もる子さんでした。
私は即刻、首をブンブンと横に振りながら否定の意を示します。
「絶対向いてないと思いますけど...」
「ん〜、そうかなあ」
先日の
早くも夏は最盛期を迎えています。
夏休みといえばイベントが盛りだくさんというのは最もですが、私としては楽しいことは全部が片付いてから満喫したいという気持ちが強いわけでして、今日はもる子さんと一緒に朝から図書館でお勉強をしていました。
今はお昼を迎えて、すぐ横にある公園の木陰でお弁当を食べているところです。
「むしろ、なんで私に向いてると...?」
私は質問に質問で返しました。
自慢ではありませんが、私はどう見ても弱そうです。
たしかに身長だけは高いかもしれませんが、ひょろひょろで筋肉は全くありませんし、俊敏性も全くです。
もる子さんのように謎の爆発的破壊力も思い切りもありませんし、些細さんのように好戦的でもなければ、持さんのように能力があるわけでもありませんから、いくら高く評価したとて勝てるのはせいぜいカナブンか蛍日和さんくらいでしょう。
そんな私をなぜ評価するのか、私には非常にわかりかねるのです。
「この前の夜久巴ちゃんのときのだよ!私が見てなかったところまでバッチリ見てたじゃん!」
「ああ...」
終業式の日、質候さんの刺客としてやってきた第一軽音部副部長の夜久巴さん。
攻撃が透かされたり、当たらなかったりを繰り返し、消耗戦をやむなくと押し付けてきた彼女。
確かに彼女の能力である『
口にしたオノマトペを現実に作用させる能力をもつ夜久巴さんのクセを見抜き、二点同時に能力を作用させることはできない彼女を打ち破りましたから。
見ていた、というよりは正確には聞いていた、ですが。
「だからさ〜、江戸鮭ちゃんも鍛えればいいと思うんだよね!」
「は、はあ...」
「筋肉は良いよ!たくさん食べられるし、動くと気持ちいし!心もパワーアップできるし、それに自信にもつながる!」
「まあ、そう言いますよね...」
「そうだよ!江戸鮭ちゃん!自信をつけよう!絶対に勝てるっていう心持ちがあれば負けないもんだよ!」
「...そんなもんですかねえ」
「よし!思い立ったが吉日!早速トレーニングといこう!」
「えぇ...」
もる子さんは私の顔色なんか気にすることはないようで、学生の本分である勉学なんかはそっちの毛、目をキラキラさせて早速準備運動を始めました。
「あの、宿題は...?」
「江戸鮭ちゃん。宿題はいつでもできるよ!」
「筋トレもいつでもできるのでは...?」
「思い立ったが吉日!」
こうなってしまった彼女が私の話を聞かないことはわかりきっていました。
ですから私も彼女の横で屈伸運動を始めます。
服装が服装だから、といっても聞く耳を持たないでしょうから。。
きっと真夏の公園で真っ黒なゴスロリ姿が運動をしているという謎姿はきっとここでしか見られません。
まずは小手調べといったように、よくある準備運動が続きます。
暑さも相まってすでに汗だくです。
「よし!じゃあ次は走るよ!」
「はあはあ...は、走るんですかあ...?」
「うん!江戸鮭ちゃんの家まで行ってジャージに着替えよう!」
あ、これ本格的なやつだと思った私に、もう防御手段はありません。
「もる子さん、私厚底なんですけど...」
「じゃあ裸足になって!」
「いや、それは流石に...」
「じゃあ私がおぶってくから!」
「それはもっと流石に...」
「じゃあ私の着替え着て!靴もあるよ!」
「デカいバッグだとは思いましたけど...まさかそんな...」
「じゃあ脱がすね!」
「わかった!わかったから!ほどかないで!せめて建物の中で着替えさせてくださいよ!」
もる子さんから渋々とジャージと靴を受け取り、図書館のトイレで着替えます。
靴はまだしもジャージの丈は短いですし、半ズボンも実質ショーパンですし、おヘソが見えないか不安にかられつつも彼女の元へと戻りました。
すると彼女も着替えていたようで、夏の雰囲気漂うワンピースから打って変わって「今から私、運動します!」感マックスのもる子さんが待っていました。
「おお!ぴったり!」
「...どこがですか?」
私はシャツの裾を引っ張りながら言い返します。
「持って来といてよかった〜」
「準備が良すぎるんですよ...」
「じゃあ準備運動再開!体冷えちゃったしね!」
「準備だけでもいっぱいいっぱいなんですが...」
準備、といいつつも彼女は明らかにハードな動きを始めます。
こんなに飛んだり跳ねたりしたのはいつぶりでしょうか。
動画サイトで見たことがある海外の軍人が行っていた腕立てからジャンプするあれまでやらされて、私はものの数分でダウンです。
「じゃあ次は〜!」
「ま、ま゛って...もる子さんまって゛...しんじゃう...!死ん゛じゃうから゛...」
「え〜、まだ準備運動だよ?」
私が本格的ツッコミかつ肉体的にパワーが有り余るような人物だったのなら、きっと彼女の頭を小突いていたことでしょう。
ですが、現実は甘くありません。
足は痛み、腕は上がらず、腹筋は振動をやめず、肺が酸素を欲してグロッキーなのですから。
「じゃあ後一個だけ!後一個だけやろ!」
「むり!絶対無理!」
彼女なりの優しい提案にも私は断固拒否。
地面に這いつくばってブンブンと首をふりまくります。
「一個やったら終わりにするから!」
「終わりも何も動けませんって...」
「これは自分との戦いだよ!?立って江戸鮭ちゃん!立て、立つんだ!」
彼女の声にイラつきと疲労感とを覚えながらも、自分でもどういうわけか、私は立ち上がってしまいました。
「い゛っこだけですから゛ね...!」
「お〜!流石、江戸鮭ちゃん!ラストラスト〜!」
そう言うともる子さんはスタスタと、公園内の一角にある遊具へと近づいていきました。
私も全身を引きずるようにしながら彼女を追います。
公園の隅、そこにあったのはまるで電車やバスの吊り革にように輪っかが並んだ遊具。
輪っかを掴んで雲梯のように端から端までを行き来するアレでした。
しかしながら私にとってはサイズ不足というか、150cmに満たないもる子さんにとってもかなり小さく感じます。
どうやったって端から端まで渡る最中に足をついてしまうでしょう。
これなら、と私は安堵しました。
「じゃあ見本見せるから、一緒にやってね!」
そういうともる子さんは、中央付近の輪っかを掴みます。
片手に一個ずつ輪を握り込むと、両手を全力でピンとのばしてから、ゆっくりと脚を宙に浮かせました。
「はい!江戸鮭ちゃん!」
「できるかあ!?」
どこかで見たことあるウォームアップにしてはすこしハードすぎる運動に、私は思わず声を上げます。
「江戸鮭ちゃん。準備運動だって手を抜いちゃいけないんだよ?心臓が起き上がらなきゃだめなんだから!」
「見たことありますよそれ!聞いたことありますよそれ!?一般人がやるやつじゃないですって!」
「まずはこれを三分」
「んんんんん!?化物ですか!?」
「自信と筋肉をつけるらこのくらいやらなきゃ!」
「そりゃつきますよねえ自信も筋肉も!そんな運動できるなら!」
「さあやってみて!」
「ムリムリむり!」
「え〜?ワガママだなあ...」
ワガママかどうかが問題でない気しかしませんが、もる子さんは口を尖らせてこちらに歩み寄りました。
「せめてもう少し常人にできるやつにしてくださいよ...」
「ウォームアップなんだけどなあ...」
「ハードすぎるんですって...」
「じゃあこれはどうかな?」
「簡単なのにしてくださいよ...」
「まず水を浴びます」
「おかしいおかしい!スタート位置がおかしい!」
もる子さんは何処から取り出したか、木の桶に水を張ると、座り込んでから自身の頭にぶっかけました。
「え!?何!?どういうことですか!?」
「当年取って十六歳.........筋力、スピード、スタミナ、技術、ピークを維持できるのは今年が最後だろう...」
そういって彼女は自身の腕をピシャリと叩きます。
「おかしいですって!誰!?誰と戦うんですか今から!?それにピーク早すぎませんかね!?」
「じゃあ次は江戸鮭ちゃん!どうぞ」
「やるわけないでしょ!?着替えたのに全身ダバダバになる必要ありますか!?」
「私は寝起きにいつもやってるけど?」
「修行僧ですか!?いや、修行僧でもやらないですよ!」
「いつもキッチンの床がビショビショで困るんだよね」
「外でやってください!せめてお風呂!どうしてシンクで実行したんですか!?」
「で、次は火打ち石をこう...」
「時代劇ですか!?しかもセルフで!?」
ぜえはあと息を切らした私を差し置いて、彼女の猛攻はまだ続きます。
「準備完了ってことで、次行ってみよう!」
「次って...さっきので終わりなのでは...」
「じゃあまずは懸垂二百回」
「だから重いんですって!何なんですか、その打撃特化のトレーニングは!」
「
「どこの父親なんですかねえ!?」
「丁度いい高さの鉄棒もあるしやってみよ〜」
なんと私がぶら下がるのにお誂え向きな高さの鉄棒があるではありませんか。
もる子さんに促されるままに、私は鉄棒を掴みましたが、体を持ち上げるどころかぶら下がるだけでも限界です。
「だめか〜...じゃあ次!!」
颯爽とジャングルジムに向かう彼女。
何をするかと思いきや自分の身長と同じくらいの高さの柱を両手で掴むと、まるでたなびく旗のごとく腕の力だけで体を持ち上げました。
「やってみよ〜!」
「懸垂できない私にそれをやれと!?」
「まずはこれを三分」
「とんでもないこと言ってる自覚ありませんか、もる子さん?」
「んもう、ワガママだな〜、江戸鮭ちゃん」
それからも彼女は動画サイトやフィクションでしか見たことないような筋トレを様々とこなしていきますが、私にとっては全てが超人の域、いえ、一般人にとってでもハイレベルすぎるそれに、全く持って成すすべはありませんでした。
それでもこなす様にと強制連行は続くわけで、私は全身から水分という水分を放出しきって、文字通りミイラになってしまうような気さえしました。
「江戸鮭ちゃん体力も筋力も全然だね」
「はぁはぁ...もる子さんが超人的すぎるんだと思うんですけど...」
「そうかなあ〜。実家でも毎日やってたからなあ...」
「なんなんですか...一家総出でSASUKEとか出てるんですか...」
「パパが東京ドームの地下で戦ってて...」
「色濃く受け継ぎ過ぎでは!?」
「ま、私も最初はできなかったから、江戸鮭ちゃんだってできるようになるよ!」
「はぁはぁ、何年かかることやら...」
「今日は出来なくても明日は出来る!そう思うことがまずは大切だよ!一歩ずつでも強くなってるんだって自信をもって行こうね!」
「自信、ですか...」
「うんうん!江戸鮭ちゃんは夜久巴ちゃんに勝ったんだからさ!もっと自信を持つこと!どんどん強くなるよ!」
「は、はあ...」
筋トレは違うとしても、自信と言う面では確かにもるこさんの言う通りなのかもしれないと思いました。
私には「自分ならやり遂げられる」という確固たる自身がまだまだありません。
この学園に転校してきたのも、早々に転校前の学校で自分がキラキラできるかということに自信がなくなったからです。
話も合わず、好みも合わず、好きな服装もできず、ただただ行きたくもない学校に通うことに嫌気が差して、たった二ヶ月ほどで転校をしたというわけですから。
自分ならできる、そういう確固たる意思が私には足りていませんでした。
祈さんの言葉があったとしても、まだまだ軟弱な木偶の坊です。
「じゃあ江戸鮭ちゃん。最後に少しだけ簡単なやつやってみよ!」
そういうともる子さんはその場に伏せました。
服が汚れることなんて構わずに、地面にうつ伏せになります。
「...何をするんでしょうか?」
「腕立て伏せ!大丈夫!一緒ならできるから!」
私は彼女のひたむきな笑顔に、同じように地に伏せました。
「それじゃ行くよ!はい!い〜ち!」
うでをピンと伸ばした状態から、もる子さん掛け声に合わせて腕を折ります。
途方も無いように長く引き伸ばされた「いち」という数に、わたしは既にギブアップしたい気持ちに駆られます。
「江戸鮭ちゃんならできるよ!ほら、に〜い!」
彼女の応援のおかげなのか、それとも私の中の意地なのかは分かりません。
ですが、私はそのまま腕を伸ばして、折ってを繰り返します。
どういうわけかは分かりません。
だけれども、ここで負けたくないと私は思ったのです。
顔をこちらに向けながら笑顔でカウントする彼女とは裏腹に、私は苦悶に歪んでいたことでしょう。
ですが、決してそれは苦しい、キツい、辞めたいといった負の感情だけではありませんでした。
「負けたくない」という気持ちが私を動かしていたのです。
もしかするともる子さんの脳内筋肉が声に乗って私の脳内を侵犯したのかもしれません。
「やり遂げたい」と私を思わせてくれたそれを拭うことなく、彼女のカウントはついに二桁に到達しました。
「はい!おしまい!」
そのセリフに私は安堵して、地に体を埋めました。
既に言葉を返す気力もありません。
「頑張った!えらいよ江戸鮭ちゃん!」
死屍累々の私にの頭にもる子さんの手が優しく添えられました。
「ハァハァ...も、もう限界...」
「頑張った頑張った!これで一個乗り越えちゃったといっても過言じゃないね!自信につながる第一歩だよ!」
「あ、ありがとうございます...きょ、きょうはもうオシマイですよね...?」
「うん、おしまいだよ!っと言いたいとこだけど...」
言葉を飲んだもる子さんは、私から手を離して立ち上がります。
彼女の見据える先、そこにはジャージ姿の私たちとは正反対、真っ白なワンピースに身を包んで緑に近い浅葱色の髪をした少女が少し俯きながら立っていました。
蝉の鳴き声が一層強くなったように感じました。
それはきっと風が止んだからでしょう。
私が息を飲む間もなく、もる子さんは言葉をかわしました。
「はじめまして!私、もる子!こっちのゴスロリが似合いそうなのが江戸鮭ちゃん!あなたは?」
挨拶の直後、白いワンピース姿の彼女は引いていた顎を元に戻して、昼行灯ながらも光る目でこちらを見つめました。そうしてまっすぐ腕を伸ばしたかと思うと、ピースサインをしました。
「ん?ピース?」
「─掻き鳴らせ」
「かきならせ?」
「──
ピースサインを地面と並行になるように手首を伸ばすと、ワンピースさんは指の股を閉じました。
それと同時に、もる子さんの腕がお腹の前でキュッと見えない何かに拘束されたように不自然な体勢になりました。
「おぉ!?」
さらにはそれは脚にまで及んでいるようで、両足も動けないよう縛られたもる子さんは、バランスを失い倒れ込みました。
「っわ〜、びっくり。いきなりは反則だよ〜」
「─面倒なことはしない。私は先輩と違う」
「先輩?ああ、やっぱりそうだよね?第一軽音部の人でしょ?」
「─さあ」
ワンピースを翻しながら、彼女はもる子さんへ近づきます。
ですがもる子さんの手前まで来ても脚を止めることはありません。
そう、目的は倒れ込んでいる私のようでした。
「ちょっとちょっと!私は無視なの!?ねえねえ!」
もる子さんが必至の抗議をしますが、まるで聞こえていないかのように彼女の歩みは止まりません。
私は既に筋肉痛の全身を何とか動かして立ち上がります。
ですが、彼女はすでに目の前に迫っていました。
そしてもる子さんにやったように、再びピースサインを突き出しました。
「─おわり」
「江戸鮭ちゃん走って!」
もる子さんの叫び声に、私は全力で駆け出します。
背後では何かが凄まじいスピードで地面に当たった音がしました。
「うぉりゃあ!」
少しばかり離れた木陰まで駆け抜ける間に、もる子さんは見えずとも存在している腕の拘束をぶち破ったようですが、その声に反応した彼女によって振り向きざまにまたも拘束されてしまいました。
またもやイモムシ状態で、もる子さんは倒れ込みます。
「あいたたた〜...。ちょっと素早すぎるよ〜」
「─すごい」
「へ?何が?」
「─拘束、やぶったから」
「へへ〜、スゴイでしょ!力比べじゃ負けないよ!ほら、こうやって...!」
もる子さんは倒れ込んだままもう一度腕の拘束を解きます。
同様に足の拘束もねじ切りました。
「へへ〜!効かないんだな〜このくらいの拘束!慣れてるからね!」
「─ふうん」
慣れている、というもる子さんのセリフも気になりますが、私が気になったのはワンピース姿の彼女の行動でした。
気だるげな雰囲気は変わりませんが、もる子さんへと向き直って小さな礼をしたのです。
「臨ヶ浜」
「りんけはま?お名前?」
「そう」
「じゃあ改めて!私はもる子!あっちのゴスロリが似合いそうなのが江戸鮭ちゃん!」
「知ってる」
「臨ヶ浜ちゃんは第一軽音部の人なんだよね?何年生?」
「一年」
「え!ホントに!?一年生なのに第一軽音部なの!?」
「隣のクラス」
「そっかあ!こんどからよろしくね!臨ヶ浜ちゃん!」
「うん」
「七並べちゃんからの依頼で来たってわけだよね?」
「
「やっぱりそっか〜。そうだよね!」
「うん」
「うんうん!じゃあ絶対負けないよ!...それはそれとして気になるんだけど、どうして急に自己紹介してくれたの?最初は無視したのに」
「知りたくなった」
「私のこと?」
「うん」
「お〜!じゃあもっとたくさん教えてあげるね!私のこと!」
「大丈夫」
「大丈夫?」
「──充分強まった」
臨ヶ浜さんは左手を突き出して右腕を添えました。
まるで銃口のようなそれの狙いの先は勿論、もる子さん。
音もなく射出される不可視の拘束具を、もる子さんは感だけを頼りに避けました。
そして、狙いが定まらないようにとジグザグに動きながら臨ヶ浜さんへと距離を詰めていきます。
しかし距離を詰めるということは、もる子さんのジグザグの幅もだんだん狭くなっていくのは必然で、目前まで迫った彼女が腕を引き絞ると同時に拘束具に捕縛されてしまいました。
勢いからゴロゴロと転がったもる子さんは、渾身の力を込めて拘束を解こうともがきましたが、そうはいかないようです。
「ぐぬぬ...!さっきより硬いよこれ!」
「当然」
「なんで!臨ヶ浜ちゃん!」
「─強くなったから」
「それはわかるよ!ほどけないもん!」
「結束が」
「結束?」
それ以上答えることはなく、臨ヶ浜さんは私の方に足を向けました。
咄嗟に私は彼女から姿が見えないように木陰に身を隠します。
段々と近づく彼女の足音に私の心臓は破裂しそうでした。
もる子さんの喚きも段々と遠くなっていく気がして、蝉の鳴き声も小さくなっていきます。
やがて私の耳には自分の心音と呼吸音だけが響きました。
タイミングを見誤れば、確実に捕まります。
絶対に、絶対に間違ってはいけない。
私の首元のすぐ横、木の肌に白い手がかかりました。
それと同時に私は一気に走り出します。
一縷の希望であるもる子さんに向かって全力です。
私の行動に気付いた臨ヶ浜さんから射出された拘束具が地面を掠める音がします。
まるで映画のワンシーン、銃弾飛び交う戦場から脱兎の如く逃げ出している気分です。
幸い臨ヶ浜さんは走って追いかけてくることはなく、私はもる子さんの元へと無事に到着しました。
「大丈夫ですか!」
「あ、江戸鮭ちゃんお帰り」
「お帰りじゃないですよ!」
なんとも気の抜けた彼女にツッコミを入れて、見えない拘束具へと手を差し伸べました。
見えないながらも実体はそこにあるようで、細く柔らかいプラスチックのような何かは確かにもる子さんを拘束していました。
もる子さんですら外せなかった
私は必至にそれを外そうといじくり回しましたが、何ということでしょうか、
「え!外れたの!江戸鮭ちゃん、やる〜!」
「言ってる場合じゃないですって!どうすんですか!」
「逃げてもダメそうだしな〜。臨ヶ浜ちゃんに簡単に近づければ良いんだけど...。それかぱぱっと拘束を外す方法があればな〜」
「わかりました!と、とにかく今は逃げましょう!」
ひゅっと、私の耳元を何かがかすめます。
何かというには分かりきっているのですが、振り向いた先には五メートルほどの間合いを開けて臨ヶ浜さんが立っていました。
「─もう逃さない」
銃口を突きつけられた時、人はこんな気分になるのでしょうか。
呼吸が浅くなるのは動きすぎたせい?
それとも今日が暑すぎたせい?
目の前にある
今私はどうすべきか考える、考えようとしてもどうしても頭は回らなくて、ただ目の前の現実だけが、蜃気楼のように揺れているのに暑さと冷たさを事実として押し付けてくるのです。
私は強く目を瞑りました。
「江戸鮭ちゃん、あとは任せたよ!」
私がハッとした時には、すでにもる子さんの姿が眼前にありました。
一直線に進む彼女に臨ヶ浜さんは狙いを定めて拘束具を放ちます。
もる子さんは、それを薙ぎ払うようにしながら足を止めません。
拘束具は確実に彼女の腕に触れていたようですが、片一方だけに腕輪のように装着されただけでは本来の意味を発揮しません。
目の前に迫ったもる子さんに対し、冷静にただ立って拘束具を放っていた彼女はもう片方の腕をゆっくりと持ち上げます。
二丁拳銃となった両手から放たれる輪を掻い潜り
あと一歩、というところでもる子さんは全身に衝撃を受けたようにしてひっくり返りました。
先程のように腕だけを、足だけをというようにではなく、上半身を縛り上げられたように腕と脇腹がくっついて離れないようでした。
「─甘いね」
そうです。
両腕を持ち上げた彼女は両手先からだけでなく、腕と腕の間、そこから体を包むサイズの拘束具を飛ばしていたのでした。
私はすぐさまもる子さんに駆け寄ります。
ですが、こうした後手後手の対処ではいずれ私ともる子さんの二人が同時に拘束されては終わり。
彼女までの道すがら、たった数歩の短い距離で私は考えます。
もる子さんには解けずとも、私には拘束具が解けたこと。
そして最初は私にもる子さんを拘束した時には、すぐさま私を狙ってきたこと。
木の陰に隠れようとする私を後方から狙ったこと。
『結束』という能力名。
一度拒否した自己紹介を自ら行ったこと。
もる子さんにはあって、私にはしていないことは何か。
ぼんやりとした答えが私の頭に浮かんだとき、私はもる子さんの元へとたどり着きました。
それと同時に臨ヶ浜さんは言いました。
「ゲームセット」
彼女の指先から、音も形もない輪が私を完全に捉えました。
ですが、私はそれを確認するよりも前に一歩足を引きました。
地面を叩いた拘束具が反射して音を立てます。
「───。」
臨ヶ浜さんは無言でもう一度、私に狙いを定めます。
それを気にもとめずに、私はもる子さんへと一歩近づき、体勢を低くすると同時に両腕を倒れる彼女に差し出します。
放たれた輪が腕を絞るように絡みつきます。
もる子さんが解けないような絶対的な拘束力、ですが私はそれを軽々と引き裂きました。
「─!」
屈みかけた体勢をもどしながら、次は臨ヶ浜さんへと一歩近づきます。
次の枷は足。
ですが、私はすぐさま踵を返してもる子さんへと手を差し伸べます。
足に絡まる拘束具はまたもやいとも簡単に、歩く力だけで脆くちぎれました。
「──。」
「もる子さん」
「江戸鮭ちゃん!どうやってんのそれ!どうやって抜け出してんのそれ!?」
「私はもる子さんを助けません」
「え?え?」
「私一人で臨ヶ浜さんを倒します」
「何いってんの江戸鮭ちゃん」
「いいですか?」
「いいですかって...大丈夫江戸鮭ちゃん。どっかぶつけた?頭とか」
「じゃ、いきますんで」
私は臨ヶ浜さんに対峙します。
すぐ後ろで騒いでいるもる子さんには目もくれません。
彼女を見下ろすほどに近づいて、言いました。
「どっちに賭けますか?臨ヶ浜さん」
「───。」
私はもる子さんの見様見真似で、体制を低くして拳に力を込めました。
同時に、臨ヶ浜さんは両腕を伸ばして私の体の両側面に腕を添えます。
一瞬の沈黙と同時に私は腕を振るいます。
臨ヶ浜さんも輪を私の全身を捉えるように放ちます。
腕と体とが見えない何かにキツく縛られていく感覚がシャツ越しに伝わります。
それは一度は私の全身を縛りましたが、拳の勢いは落ちません。
脆くも砕け散るそれを目の当たりにした彼女は第二撃を加えるべく、腕に力を込めました。
しかし私は殴りかかった拳でその腕を掴み取って、なるべく小回りを利かせながら振り向きます。
臨ヶ浜さんは腕を取られてその場でよろめきました。
隙を見て即座にもる子さんの枷がある辺りを手で触れます。
体勢を立て直した臨ヶ浜さんと、私が小さく両腕を上げて降参のポーズをしたのは同時でした。
「今度こそ、ゲームセ〜ット!」
もる子さんは臨ヶ浜さんの背後に立ち、既に首元に腕を回していました。
私はどっと疲れが吹き出して、今にも座りたい気分。
しかしながら脅威が完全に去った訳ではありません。
もる子さんにもわかるように、早急に彼女の能力の種明かしを始めます。
「臨ヶ浜さん...貴方の能力、その枷は信頼によって強度を増すんじゃないですかね」
「───。」
「あなたが相手を信頼するほど強く縛り付ける枷。最初は名前を言わなかったのに、もる子さんが枷を壊した途端に自己紹介をしたのは強度を増すため...。もる子さんという人間が絶対に枷を外すという信頼を感じるために話した」
「なんか凄く頭いい話ししてる?」
「私が最初に逃げたときと、木陰から逃げたときに枷を撃ったのも、私が逃げると信頼していたから。逆にもる子さんの枷を私がすぐに外せたのは、私が私に対して枷が絶対外れないという信頼をしていたから...」
「どゆこと???」
「私はもる子さんの枷がはずれないと思っていました。その絶対に私なんかには外せないという負の信頼感が、臨ヶ浜さんの放った枷の持っていたもる子さんを絶対に拘束するという信頼に勝った...だからはずれた」
「おーん...」
「そして最後、臨ヶ浜さんは私が心から自信を持って挑んできたと信頼した。私のことを不穏分子の親玉で、黒幕だと思っていたわけですから...。でも事実そうではないし、私は殴ったりとかそういうことに自信はないです。ですから臨ヶ浜さんは『江戸鮭が本当に強くて私を殴ってくるのではないか』と『隙を見てもる子さんを助けようとしている』の二択を迫られたわけです...」
「──うん」
「そしてあなたは『江戸鮭が黒幕』に賭けた。事実、そういったウワサが蔓延っているって話は前からありましたし...。ですが現実は違った。そしてもる子さんの枷を外したって訳です...」
「あー...要するに???」
「...臨ヶ浜さんの枷は、相手を信頼しているかで強度が変わります...」
「OKわかった!」
もる子さんの納得に、臨ヶ浜さんは両腕を上げました。
「───私の負け」
「よっしゃあ!」
もる子さんの雄叫びに、セミが何匹か逃げ出します。
私はその場にへたり込んで、全身の力を抜きました。
「すっごい江戸鮭ちゃん!また勝っちゃったよ!」
「あはは...よかったです...」
私はもう目を合わせる力もなく、ただただ虚空を見つめて言いました。
──────
「江戸鮭」
「は、はい」
「よくわかったね」
「は、はあ...」
一件落着して私たちは公園の一角のベンチに座って、火照った体を冷やすために水分補給をしていました。
もる子さんは一気に飲み干して先程の戦地辺りを何やらウロウロしています。
「私の能力、『結束』。言った通り」
「そうですか...」
「相手を信頼すればするほど強く、はずれない。私はもっと江戸鮭を知ってから来るべきだった」
「...そうなってたら完全に負けてましたね」
「ただ、江戸鮭やもる子の信頼だけじゃない。これは私の先輩への信頼も含まれる」
「第一軽音部の先輩ですか...?」
「そう。先輩を信頼している分の強さも枷に反映される。普通は外れない。だから、もる子の力は想定外。馬鹿」
「...やっぱりあれって力でねじ切ってたんだ...」
「うん。でも私の信頼も弱かった。江戸鮭へのも、先輩へのも」
「いや、そんなことは...」
「ある」
「え...」
「絶対に壊されない枷、江戸鮭壊してるから」
「そ、そんなことありました?...私にそんな力ないですよ」
「最後。もる子を助けた時。私の能力がわかったうえで『絶対に勝てないと思って』挑んできたなら、もる子の枷が壊れないことを知ってたはず。いくら『私には無理』と思い込んでも、『無理と思いこめば壊れる』と思ってしまっている時点で疑念が生じてる。だから壊せない」
「いや、でも私、あのときわかってはいても『絶対に壊せない』と思いながら壊しましたし...」
「──ふーん」
臨ヶ浜さんはスッと立ち上がって、軽くおしり汚れを叩きました。
そして私を見おろしながら言いました。
「──素直になればいいのに」
それがどういう意味だったのかは分かりません。
腰に手を当てて、臨ヶ浜さんはスポーツドリンクを飲み干しました。
「─じゃ」
「お帰りですか...?」
「うん」
「そ、そうですか...。あの、臨ヶ浜さん」
「ん」
「ありがとう、ございました...」
「────うん」
そう言うと彼女は背中を見せて去っていきました。
「まっってえええ!臨ヶ浜ちゃああああああん!」
折角の雰囲気をぶち壊すように、もる子さんが絶叫します。
公園の近くにはもうセミはいないことでしょう。
もる子さんは臨ヶ浜さんに近づくことなく、遠くから叫び続けます。
「なに」
「さっきのさあ!輪っかさあ!落ちてたら貰ってもいいかなああぁ゛!」
「なんで」
「硬いから筋トレに丁度いいじゃん゛!!!」
渾身のもる子さんに、私は思わずため息をつきました。
そのため息と同じくらい、小さく小さく臨ヶ浜 さんは囁きます。
「─いいよ」
「いいの?駄目なの?どっちいいい?あ、行かないでよ!臨ヶ浜ちゃん!臨ヶ浜ちゃああああん!」
もる子さんの声は虚しく、臨ヶ浜さんの影は小さくなっていきました。
走り寄ってきたもる子さんも、流石に彼女を追うことまではしませんでした。
「良いのかなあ?」
「...落っこちてるのなら良いんじゃないですかね」
「ん?あ、そっちじゃなくってさ」
「なんです?」
「臨ヶ浜ちゃん。自分でも種明かししてたじゃん?先輩との信頼がパワーだって」
「...よく聞こえてましたね。で、それがなにか...?」
「うん。能力って皆隠しがちなのに良いのかなって」
「あー...まあ...。私も種明かししちゃいましたし...」
「もし次また戦うことがあったら困んないかな〜」
「...戦うことがないのが一番なのでは?」
私がそういったと同時に、小さく臨ヶ浜さんの声が聞こえた気がしました。
それは空耳だったか、はたまた本当に彼女の声なのかはついに分かりません。