「なんでパンが作れるんだ」
「なんでって、学生の時に作りましたし、両親も手作りが好きだったので」
「なんてこった」
なんてこった!?目の前の男はそんなことを言って、純子を見る。純子にしてみれば、自分ができることにそんな言葉をかけられて、嬉しいわけではない。今のは褒め言葉じゃないよな?と思いながら、次の言葉を待った。すると。
「焼きたてのパンが食べたい」
「嫌です。パンは仕込みに時間がかかるので、今日は作れません」
「なんだと……?俺が何か手伝う」
「いえ、手伝ってほしいわけじゃなくて」
純子は、何も知らない荒尾にパンの製作工程を簡単に教えた。ただ混ぜて焼けばいいものではないこと。発酵という一定の時間が必要なので、実際に焼くまでがとにかく時間がかかる。材料をそろえ、仕込みをして、やっと形を作る。それからまた発酵が必要で、その後に焼くという工程。荒尾の目は更に丸くなった。
「だからパン屋さんは早起きなのか……!」
「子どもみたいに大発見したって感じで、喜ばないでくださいよ」
「仕方ないだろ、焼けたパンしか見たことがないんだ」
そうか。
そうなのだ。普通の人は、焼けたパンしか知らないのである。この前、冷凍のブロッコリーを買いに行った時に、初めて冷凍のパンというのを見た。すでに形までできているので、焼くだけというやつだ。あのパンの味は気になったけれど、そうなっているパンを想像したこともなかった。
昔から、パンは混ぜて発酵させて、形を整えて、焼き上げるもの、と思って来た。この工程は間違っていない。種類によって時間が違ったり、混ぜるものが違ったりするのは分かる。でも、これを知っているのは母がパンを焼いてくれていたり、学生時代にパンを作ったことがあったから知っていることなのだ。
パン工場があるくらいだから、確かに焼く前のパンを知らない人は多いだろう。焼く前の、あの真っ白で柔らかく、温かいパンの生地を知らないのは残念だなぁ、と思いながら、荒尾の気持ちもよく分かる。
焼きたてのパンは美味しい。焼きたてのパンはパン屋さんに行くと並んでいることがあるので、あれの美味しさはよく分かる。格別だ。それを手作りするならば、更に美味しい。そうなんだよなぁ、と頭の中でうんうん、と頷く。
だからと言って、今からパンを作るほどの根性を純子は持ち合わせていなかった。パンは時間がかかる。パンはとっても繊細な、まるで生き物と同じだ―――酵母が入っているから、生き物の区分じゃないか?とまで思う。
「おい、何か美味しいものの想像をしているだろ?」
「え、なんでわかるんですか?」
「ニヤニヤしているぞ」
「してませんよ!」
私はそんな変人じゃない―――純子はそう思ったが、ちょっと口元がニヤニヤしていたのをサッと隠す。だって、想像したら涎が出そうになるのが焼きたてのパンってものだ。目の前の男は、その苦労は知らずに美味い部分だけを味わっている。そう易々と美味い部分だけを更に味わわせるなんて、お客様とは言え、簡単には許せない。
「焼きたてのパン!」
「それは、今度予定を立てて作ります」
「客の要望なのに……」
初めて見せる残念そうな顔。営業マンは契約が取れなくても、そんな情けない顔をしてはいけない―――彼は常にそうある存在だったのに。今はまるで、子犬のように残念そうな顔をしている。変な男だな、と思いながら、純子は食べ終わった皿を持つ。
「ただ、おにぎりは作ります。晩御飯におにぎりって変かもしれませんけど」
「なに、晩御飯はおにぎりなのか!?」
荒尾はおにぎりという単語を聞いて、復活した。その立ち直りの速さはやはり、営業マンだ。
「普通のおにぎりにするつもりですけど」
「普通ではないおにぎりもあるのか!?」
「例えば、混ぜご飯とか……」
「そ、それは美味そうだ……!」
「ちょっと混ぜご飯の食材がないので、それもまた今度ですね。今日は普通のおにぎりにします」
普通のおにぎり、と言ってから純子は自分で普通のおにぎりについて考えてみた。白米を三角に握って、海苔を巻く。塩加減と海苔の柔らかさには好みがあるだろう。母はパリパリの海苔が好きだったから、コンビニのおにぎりが好きだった。体に悪いかも~と言いながら、あのパリパリの海苔を食すのが、母の楽しみだったのである。
一方、父と純子はしんなりとした、柔らかな海苔が巻かれたおにぎりが好きだ。なぜなら、お弁当を持たせてもらっていたのは父と純子だったからだ。母の作ったおにぎりは、食べる頃にはもうしんなりとしている。ペロッとはがれてしまうこともあって、それでもあの塩加減と海苔の感じが大好きだった。
午後はペンションの掃除や片付けをして、庭の様子も見る。寒い季節は落ち葉が散るが、集めておけば家庭菜園の肥料になるし、焼き芋なんて洒落たものもできる。焼き芋は、今では都会でも人気の洒落やスイーツになっている。今度の買い出しでは、サツマイモも買ってこよう、と純子は思った。
純子がせっせと忙しくペンションのことをこなしている間、荒尾は部屋にこもって仕事でもしているようだ。特に呼ばれることもなく、特に出てくる様子もない。まあ有給休暇を消化することがメインでやってきたのだから、放っておいても適度に過ごしてくれるだろう。子どもでもいれば、何かしらイベントの準備を考えるが、彼の場合は何を所望かといえば、美味い食事だけときた。
まあそれだけ要望が明確なら、分かりやすいとも言える。必ず美味い、とは言い難いが、しっかりお腹が膨れる料理は作れた。だから純子は、会社にいた頃よりも荒尾のことを毛嫌いすることなく、まずまず良好な感覚でいられるのだ。
庭の手入れが終わり、夕食の準備を始めようと思った純子は、おにぎりに合うおかずはなんだったか、と思う。大半の場合は朝食のような、お弁当のようなメニュー。そうだ、おにぎりとはそういうもの。
「日本のファーストフードよね」
日本独自のファーストフード。米と塩があれば完成と言える、スピード料理。梅干しや海苔がつけば、豪華にさえ見える。今は市販のふりかけや混ぜ物があるから、色とりどり、味もさまざまにできるが、やっぱりシンプルに美味しいのは塩と海苔。
あまり朝食っぽくすると、翌朝苦労しそうだし、お弁当風にしてしまうと子どもっぽい。だから、何がいいかと考えると、残った豚肉を使った豚汁に、きんぴらごぼう。ニンジンが残っていたので、細切りにして炒めて、卵を落とす。ニンジンのシリシリ。卵を入れて、きんぴらごぼうとの見た目に差をつけよう。
豚汁には、半端の野菜を入れてしまう。これってカレーの原理?と思ったけれど、美味しくできていればいいだろう。ちょっと残っていたコンニャクを消費だ。コンニャクの入った豚汁は美味しい。具沢山にすれば、おかずも同じ。
油を引いた鍋に、豚肉を入れて、しっかり炒める。他の食材も入れて炒めて、水と出汁を入れて煮込む。その間に、きんぴらごぼうとニンジンのシリシリを作ってしまう。この2つは多めに作って、常備菜にしておこう。お客様には出せなくても、純子の胃袋に消えるからいいのだ。
鍋を覗いて、ちょうどよくなってきたら、味噌をとく。味噌の香りが広がって、これは美味しい豚汁ができたぞ、とちょっと笑顔になれた。純子は鍋をグルリとかき回し、味見をして更に微笑む。豚汁は完璧だ。次は大本命のおにぎりへ取り掛かろう―――炊飯器のふたを開け、湯気が上がるそこを覗き込む。
ツヤツヤに輝く白米を見て、純子はにっこり微笑んだ。