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第9食:パン好きに出すおにぎりと豚汁②

温かいおにぎりは贅沢だと思う。純子はそんな持論を展開していた。母のお弁当のおにぎりも、都会で買うコンビニのおにぎりも、ちょっとお金が苦しいから自分で握って会社に持って行ったおにぎりも、全部冷たいおにぎりだった。海苔は柔らかくなって、ラップに包まれて、片手サイズのそれは、まあまあ美味しいできあがりではあったのだけれど、贅沢ではない。

むしろ、厳しさの象徴と言うか!と思いながら純子は、ふと思い出す。おにぎりをわざわざレンジで温めて食べる若い子たち。コンビニのおにぎりをわざわざ温めてもらうのだ。あれ、コンビニって手軽で手早いのがいいところなんじゃないの?それなのに、わざわざ手間を増やすの?そんなことを考えながら、純子は首を傾げるのだ。冷たいおにぎりの方が、おにぎりらしい。乾いてカチカチになったものは困るけど、そこまでなっていないなら、ラップかアルミホイルに包まれたそれが美味しい。


じゃあ、今、手の中にある炊き立て白米のおにぎりは?

つまり、贅沢品じゃないか。贅沢品税金を取られちゃいそう、と思いながら、純子は丁寧にお椀にラップを広げ、ごはんを入れる。これには特製おかかを入れよう。純子の常備菜。本気で食べるものがなくなったら、これと米だけで、少しは生きられるはず。それくらいの自信のあるおかか。魚だし、醤油で塩分も取れるし、と正論を並べていく。

優しく包んだおにぎりなんて、あれはおむすびですよねぇ、と母の遺影に言いたくなる。母は昔からしっかりと固めにおにぎりを握ってくれていた。中の具が飛び出さないように、海苔を巻いてからも更に握る。今思えば、この固さは母の愛情だった。夫や娘が食べやすいように、こぼさないように、明日も明後日も、元気でありますように―――そんな母親の想いがこもっているおにぎり。

今はやりのふんわり柔らかく、片手では持てないような柔らかいおにぎりなんて、認められない!純子は、気づけば必死になって米を握っているのだった。


一方荒尾は、夕日が沈み始めた頃、パソコンを閉じた。取引先とのやり取りも終わり、資料の作成もまずまずできた。これが落ち着けば、本格的に休めるな、と思うとコーヒーが欲しくなる。食前酒ならぬ、食前コーヒーも悪くない。胃に負担がかかりそうな気配はあるが、こんな時はちょっと薄めで、軽いコーヒーを飲みたいものだ。

会社の部下や同僚から誘われるチェーン店は、どこでもシーズンに合わせて、甘ったるいホイップクリームたっぷりの、まるでかき氷が溶けたようなジュースを販売するようになった。幼い頃、祖父母が連れて行ってくれた喫茶店には、そんなものはなかったはずだ。喫茶店で荒尾が飲めるのは、メロンクリームソーダ。あれはとても好きだった。そして、特別な日にはプリンアラモード。

行きつけのお店の店主が倒れたと聞いた時は、とても哀しかった。仕事が忙しく、葬式にも参列できなかったのは、今でも公開している。後から仏壇へお参りに行った時、奥様から店をたたむと聞いた時は更にショックだった。もう1回あのプリンアラモードは食べたかった。ホイップクリームやフルーツが飾られた特別なプリン。プリンは少し固めで、店主の粋な計らいで子どものプリンアラモードにはカラメルソースがない。だから最初から最後まで甘い幸せな世界に浸れる。

「俺も少し、休みが必要だったな……」

あれだけ大切にしてもらったのに、葬式にも行けなかった。そんなに働いてどうするの、と祖母に哀しまれたのも辛いこと。しかし営業部にはどうしても繁忙期があって、それを抜けるためには荒尾の存在が必要不可欠なのだ。

だから気づけば、長く休みを取っていなかった。まともな休みのことである。普段の休みは、部下や後輩、同僚から、急に電話がかかってきたり、少し買い物に出たりなどすれば、何かと消えてしまう休みだった。

「ふう、コーヒーでももらうか」


おにぎりが握り終わった時、足音がしたので純子はそちらを見た。ニャーは暖炉の前でのんびりと温まっており、そろそろ食べられる猫になるんじゃないか、というくらいに広がっている。猫とは、心地よい場所では長く伸びるのだ。

「すまん、コーヒーをもらえるか?」

「ご飯の前ですよ!」

母親のように純子は叫んだ。

「駄目なのか!」

だからつい荒尾も同じ感じで反論してしまう。

「駄目じゃないですけど、ご飯の前ですよ!」

「それならいいだろう!お菓子じゃないんだから!」

「でもご飯の前です!」

このペンション、食事の前にはコーヒー1杯くれないのか?と荒尾は苛々した。好きな時にコーヒーを飲みたい。もちろん、オーナーに迷惑をかけたくはないが、飯の前だから駄目だと言うのはどんなものか。

「飲ませてくれよ、1杯くらい!」

「だから、ご飯の前ですってば!!」

まるで母親に言われているかのような気分になってくる。荒尾はどうにかしてコーヒーが飲みたくなったが、飲ませまいとする純子の気迫も凄い。

「ご飯、できてますから!!」

決着はついた。できているなら、そちらが優先だ。荒尾はうん、と息を飲んで口を閉じる。

「リクエスト通りの!おにぎりでございます!!」

「おにぎり!!」

荒尾は喜んで席に着き、おにぎりの到着を待った。しばらくすると、ワンプレートの中におにぎりときんぴらごぼう、ニンジンのシリシリ、漬物が添えられたものがやってきた。想像よりおしゃれだ…と荒尾は思うが、言葉にできない。こんな時に女性ならば目を輝かせて喜ぶのだろうが、荒尾は男だ。美味そうだと思っても、キャーなんて声は出せない。

「今日は豚汁です。筑前煮の残り野菜使っちゃいましたけど」

「お前、料理が上手いんだな」

「下手と言ったことはありません」

「そうだな……いただきます」

荒尾は、手を合わせてから豚汁に箸をつけた。野菜はしっかりと煮込まれ柔らかく、それでもちゃんとそこに存在している。時々現れる豚肉、コンニャクがいいアクセントだ。味噌の濃さもいいし、これは朝食でも食べたくなってくる。

「美味いな……ここの味噌は」

「美味しいでしょう、母の手作り味噌なんです!」

「味噌を手作りしているのか?凄いお母様だな!」

純粋に褒められたのだが、純子は一瞬で押し黙ってしまった。

「でも、もう、母はいませんから。どうしよう、これからのお味噌。買ってくるしかないのなか」

「すまん、悪いことを聞いた」

「いえ!事故ですから。お母さん、自分が作った味噌を食べずに逝っちゃったんです。でもお客さんに出せて喜んでるんじゃないかな?」

寂しそうな笑顔。荒尾はそれにかけてやれる言葉がなかった。営業部のエースでも、営業の鬼でも、こんな時は言葉をなくしてしまうものなのか。


「おにぎり……固めだな。俺の好みだ」

「え、固いおにぎり好きですか?」

「ああ。最近は柔らかいふわっとしたのが人気だろう?あんなの食った気がしないからな」

さすが大食い。いや、世の男性は大抵そう思っているのか?純子はあのふわっとおにぎりに対抗したいと思っていたので、いい仲間を得たと思う。

「母が固いおにぎりを作っていたので、私も自然とそうなりました」

「そうか。中身はおかかか?美味いなぁ、このおかか」

「ふふん、手作りです!」

「これで酒が飲めるな」

「あー!そうなんです!そうなんですー!」

「いいじゃないか、酒」

「うち、お酒は禁止で!」

「なんだと!?」

かつて、ペンションで飲んで大騒ぎになったことがあるらしい。そのため、客人に飲酒は禁止していた。特に泊り客。純子がオーナーになってからは、特にそうだ。危険がないように、という配慮である。

「救急車が来て、病院まで最高2時間かかりますから、ここ!」

「え!?」

「場合によっては、もっとかかりますから!吹雪いたら本気で命落とします!」


荒尾は、暗くなった窓の先を見て、とても不安を感じてしまった。


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