純子は、昼食の準備をしながら荒尾の帰りが少し遅いことに気づいた。
今日の昼は、簡単に作ったつもりだが気づいたら時計が回っている。今日の昼は、朝から重たかったのでサッパリとしたものがいいか、と考えながら、結局できあがったのは野菜を中心としたメニューだった。
都会から引っ越してきて、何かと不便なこともある。でもその分、何かと周囲の人が助けてくれるし、マイペースにもできた。バタバタとした目まぐるしい日々ではなくて、地道に進んでいくような、そんな感じだ。最近は荒尾が来たので忙しくしていることも多いけれど、でもとても充実しているように思う。お客さんが長期で泊ってくれることが、今まであまりなかったせいもあるかもしれない。時々ポツリポツリと単発でやってくる人たちの相手は、その時の状況や盛り上がり方でも違っていた。同時にこちらが準備することも、単発で済む。大変なのはバイトをお願いする夏の時期くらい。
「荒尾さん、遅いなぁ」
そう言って、純子は荒尾の分である皿を見た。今日は、キャベツともやしの野菜炒めに、豚肉と魚介類、ちくわなどを入れて、とろみをつけた。これをご飯にかければ、簡単中華丼。本格的なそれよりも、食材は安いもので簡単に作っているが、これはなかなか美味しいはず、と純子は思うのだ。中華味と鶏ガラスープを半分ずつくらいの割合で味付けし、最後は黒コショウで締めた。黒コショウの辛味が、味を引き締めてくれているはず。
「先に食べちゃおうかな?」
そんな言葉を発してから、相手はお客様だったことを思い出す。お客様相手に、何を言っているんだ自分は―――そう思うと、荒尾が元上司であることも思い出す。スーツ姿が格好良くて、営業部のエース。彼にできない仕事はない、とまで感じてしまう。
確かに格好いい。確かに素敵な人だ。でも、どうしてこのペンションを選んだのだろうか?と思った。本格的なペンションに比べれば、やや価格帯としては安めに設定している。食事付きと言っても、簡単な家庭料理が中心だ。よそのペンションのように、大掛かりなことはまだできない。将来的にはあんな料理を出したい、こんな料理を出したい、と思うことはあるのだが、実際にはなかなか手が出せなかった。
「ただいま、遅くなった」
彼の声が聞こえたと同時に、ニャーが純子の側に寄ってきた。おかえりなさい、と純子は言いながら、ニャーを抱き上げ、それから荒尾の顔を見る。そして、両手いっぱいの買い物袋。どこに行ってきたんだ、と思った純子は驚いた。
「荒尾さん、どこまで行ってきたんだ?」
「近所のおばさんのところだ。ニャーが案内したんだぞ」
自分のせいではない、と言いたげな彼。確かにニャーと一緒に出るようには言ったが、本気でニャーが道案内をしてくれるとは、と純子は驚く。確かに、純子はニャーに連れられて、悦子と出会った。たまたまだと思っていたが、それは違ったようである。もしかしたら、誰でも連れて行くのか?と思ったけれど、そうでもなさそうだな、とすぐに考えを改めた。そもそもニャーは人と歩くことが好きではない。今回は純子が頼んだから、行ってくれたのだ。
「これ、野菜」
「ありがとうございます」
どっしりとした野菜たち。まさか、こんなにもらってくるなんて。荒尾が男性だから、悦子は気にせず持たせたのだろう。純子の時は、持てるくらいだけだった。確かに誰かに何かを持たせる、というのは信頼の証のようで、嬉しく感じられる。悦子もそんな人なのだが、いつもよりも何か嬉しいことがあったのかな、と思うくらいに荒尾に持たせていた。
「もう、昼食だよな?」
「はい、今日は簡単中華丼です!」
「中華丼かぁ!」
喜ぶ顔はいつも通りだ。荒尾は、すでに悦子のところで蕎麦を食べたはずだが、純子と一緒に席に着く。
「簡単中華丼ですよ。そんなに豪華なものは入ってません」
「いや、野菜もしっかり入っているし、美味そうだ」
「お野菜たっぷりで誤魔化してます!」
せっかくならたくさん食べられるように、せっかくなら美味しく食べられるように。純子が母からもらった愛情は、しっかりとこの食事に込められていた。荒尾は、中華丼を口に運びながら食べ過ぎている自覚はあったが、美味いから仕方がない、と自分に言い聞かせる。美味いものは、美味い。だから仕方ないのだ。
純子は、荒尾と食事をする回数が増えて、最近誰かと一緒にいることが当たり前のように感じていた。美味しいもの、リクエスト、こうしてみようと意欲的なもの、さまざま。でもこのさまざまの集まりが、とても楽しい。大変なこともあるけれど、目の前で誰かが食事をしてくれることなんて、ほとんどなかったのだ。
「どうした?」
「いえ、美味しそうに食べていただけて、光栄だな、と!」
微笑む純子の笑顔を見て、荒尾はこんな彼女のことを悦子も大事に思っているのだ、と感じた。こんなに笑顔の人を見れば、自分の娘でなくとも、娘のように感じてしまうだろう。
「おやつ、何にしましょうか?」
「おい、まだ食事中だぞ」
そうは言いつつも、荒尾の腹はすでにいっぱいだ。おやつもいただきたい気持ちは強いが、このままでは入らないのではないか。そんな不安を感じる。
「もしかして、荒尾さん、お腹いっぱいですか?」
「こちらのオーナーは俺に山盛りの中華丼を作ってくれたからな」
「山盛りがいいと思いまして!」
楽しそうにしている純子は、すでに空っぽになった皿を見て言った。
「実はな」
「はい」
「おばさんのところで、蕎麦をいただいたんだ」
「え、蕎麦を食べてから、中華丼も食べたんですか!?」
「ああ」
ああ、と言った彼の返事に、純子は呆れてしまう。どんなに美味しいからと言って、どんなに客だったから断れなかったと言って、まさかこんな短時間でそんなに食べるなんて。体調が悪いと言い出さなければいいな、と思ったが、純子の頭には次のおやつ、次の食事の心配の方が上回っていた。
「どうしようかなぁ……おやつ」
「お前は、客の心配じゃなくて、おやつの心配か?」
「おやつの心配は、お客様の心配ですよ!」
純子はそんなことを言いながら、自分の皿と荒尾の皿を片付け始めた。それでもまだまだ頭の中は、おやつのことでいっぱいだ。人間、食べることは楽しみの1つ。人生で何回食事ができるのか考えれば、限られてくる。そしてそれを、誰と食べるのか。
死んだ両親のことを考えると、純子はこのペンションにもっと帰ってきておくべきだった、と今でも思う。たまには帰って来なさい、と言ってくれていた母と父に従っていれば、もっと一緒にいることができたはずなのに、と思うことがあるのだ。しかしそれは、叶わない夢。叶わない夢だからこそ、彼女は前を向くしかないな、と思った。
前を向けば、そこには荒尾がいる。自分が、一緒に食事をした相手。まったくの他人ではないから、なんとなく気心もしれていた。
「荒尾さん、おやつどうします?」
「そうだな」
尋ねられたから、真剣に考える。考えれば考えるほど、上手い答えは出てこないものなのだが、荒尾は冴えていた。まだ口にしていないおやつがあったはず。
「メロンクリームソーダ」
「あ、そういえばまだでしたね」
「あれにアイスクリームを二段にして」
「それは多すぎ」
「アイスクリームは飲み物だ」
嫌だな、その表現と思って、純子の眉間にはしわが寄った。まるでカレーライスは何とやら、というアレと同じ言い方じゃないか。
「アイスクリームは一段までです」
残ったアイスクリームの活用法を考えると、純子はこれからが楽しみになる。
しかしそれを知らない荒尾は、残念そうな顔でため息を吐くだけだった。