荒尾は昼食ができあがると、今度は子どもたちを起こしに行ってくれた。その間に、純子が手早く浅漬けやサラダなどを準備する。お客様ばかりにさせていてはいけない、と純子は思い、ついつい何かと手を出してしまうのだ。本当ならば、荒尾の準備してくれたものだけを楽しむのが一番いいとは思う。しかしやはりお客様だ。お客様ばかりに何かをしてもらってはいけない、という純子の中のオーナー魂のようなものが叫ぶ。
彼女にとって、お客様が楽しくペンションで過ごしてくれることは、とても嬉しいことだ。しかし、お客様に心配されて、お手数をかけてしまったとなれば、話は違ってくる。荒尾はあと数日で滞在が終了してしまう、大事なお客様。そんな大事な人に気を使わせてしまった、と純子は思う。本当なら、お客様としてではなく、ただの知り合いだったらよかったのに…そんなことを思った瞬間、純子は飛び上がらんばかりに驚いた。荒尾と自分はそんな関係じゃない。今までだって、そんな関係じゃなかったはず。
「でも……もしも」
2人の関係に、何か変化があったなら。それを少しくらい期待してもいいのだろうか。純子は、豆腐の浮かぶ味噌汁を見ながら思うのだった。
一方荒尾は、寝起きの悪い子ども2人に悪戦苦闘していた。2人とも、洗面も着替えも嫌がってしまう。だからこそ、大変で困ったのだ。捕まえたと思えば、簡単にすり抜けて逃げてしまう。ケイくんはベッドから出てこようとせず、まーちゃんは着替えを嫌がる。男親とはこんなに大変なのか、と荒尾は再認識した。世の中のお母さんだけでなく、お父さんにも敬意を払わねばならない、と思った。
「ケイくん、朝ごはんだから出ておいで」
「やだー!」
なかなか進展しない2人に対して、荒尾はなす術がない。どうしようか、純子を呼んだ方がいいのだろうか、と思った時に、ドアの隙間からニャーが入ってきた。ドアの前に座ったニャーは、いつものダラダラした寝ている猫ではなく、まるでお客様をお迎えするかのような顔をしていた。こんなに凛々しい顔ができたのか、と荒尾が関心するくらいである。
しかし子どもたちは、荒尾のそんな気持ちなど他所に、ニャーに飛びかかっていった。まさに遊ぶモードである。荒尾がそこにいることなど忘れて、ニャーのことしか眼中にない状態。飛びかかられたニャーは、少し困ってはいたが、大人しく待ってくれている。
「よし、2人ともニャーが出ていく前にお着換えだ!」
ここぞとばかりに、荒尾はニャーの助け舟を活用することにした。このままニャーがいてくれれば、子どもたちは調子よく着替えてくれるだろう。案の定、子ども2人は、競うようにして着替えを開始した。荒尾が助けてやると、着替えはすぐに済み、今度は顔を洗う。すべてが済んだ時、すでにニャーの姿はどこにもなかった。
「ニャーいない!」
「どこー?」
2人はそのまま、部屋を飛び出して、食堂へまっしぐらだ。部屋から出て、暖炉の前まで来ると、ニャーはいつものようにのびのびと気持ちよさそうに、眠っている。ニャーにとって、朝いちの仕事はすでに終了したのだろう。
「ケイくん、まーちゃん!朝ごはんは、かずくんが作ってくれたんだよ!」
純子が丸いおにぎりをテーブルへ持ってくる。喜んでやってくる子どもたちとは裏腹に、荒尾は純子が自分のことを「かずくん」と呼んだことに対して、顔を真っ赤にさせていた。子ども相手だから仕方ない、そう呼ばねばならない理由がある、そういう場面だった―――荒尾は自分を落ち着かせる言葉を並べ、冷静を装う。
「お味噌汁もありますよ」
子どもたちそれぞれに朝食を渡し、次は荒尾の前に準備をしてくれる。昨晩と同じように、純子は荒尾の隣に座った。とても近いこの距離に、心の距離さえも近くなったように思ってしまう。
「荒尾さんのおにぎりは大きいですね」
「そ、そうだな!」
「でも子どもたちのは、とっても可愛いです」
喜んで朝食を食べている子どもを見つめ、純子は微笑んでいた。それを見ていると、荒尾の気持ちも彼女の笑顔にほぐされていく。会社では見ることのなかった、自然な笑顔。楽しそうで、充実している表情。それらを見れば見るほど、純子の穏やかさに荒尾は惹かれていった。
「そうだ、荒尾さん。今日はみんなで買い出しに行きませんか?野菜の在庫がもうなくて」
「そ、そうだな!」
慌てて返事をした荒尾だったが、このあと自分にどんな悲劇が起きるか―――まだ知らない。
数時間後、落ち着いた子どもたちを連れて、純子と荒尾は近くの物産館へ買い物に来た。午前中に動いたので、新鮮な採れたて野菜がたくさん並んでいる。純子はそれらに目を輝かせて、どれにしようか、と選び始めた。
「あー!」
急にケイくんが声を上げたので、何事かと見れば、そこにいたのは例の―――白菜王子こと三輪である。農家とは思えぬ色白に、高い身長、高齢者が多い中で目立つ若手。ケイくんはそのまま三輪の側へ行った。
「おおきいおにいちゃん、あそぼ!」
「あれ、君は玄米おじさんのところの……」
何回も会っているわけではないのだが、子どもの記憶力とは恐ろしいものだ。一度遊んでくれた面白いお兄さんのことは、忘れていないのである。まーちゃんも近寄っていき、2人とも三輪に抱っこされていた。
「三輪くんも来てたんだ」
純子が声をかけると、三輪は驚いたように見てくる。
「あれ、純子ちゃん?なんでこの子たちと一緒なの?」
「昨日、悦子さんが庭で転んで、緊急手術なんですって。玄米おじさんが孫の面倒が見れないからって、預かってるの」
「悦子さん手術なの?」
その情報は、まだ誰にもいきわたっていなかったようである。言ってもいい話だったのか、と純子は一瞬思ったが、こんな田舎のことだから噂話はすぐに回ってしまう。逆にちゃんと説明をしておかないと、尾ひれ背びれだけでなく、手足が生えたのではないかというくらい、噂されるのだ。
「そうみたい。どれくらい入院になるのか、わからないけど」
「そっか、大変だね。でも悦子さんでそんなにひどいなら、このあたりの年寄りはみんな気を付けておかなきゃなぁ」
次は誰が倒れるか?次は誰がどんな病気になるか?田舎となれば、そんな競わなくてもよい部分で、まるで競争のようになってしまう。倒れるが先か、認知症になるが先か、と言っている高齢者は多数いる。それでも、この地域ののんびりとした空気感の中で、最後まで生活していきたいと思い、頑張っているらしい。
「あれ、えっと、お客さんの……」
「荒尾さん」
「ああ、荒尾さん?純子ちゃんの辞めた会社の人だっけ」
わざわざ辞めた会社の人、と三輪は言った。それを聞いて、荒尾は額に青筋が立ちそうになってしまう。しかし、ここは人前だ。子どもたちもいる。大人である自分は、我慢せねば、と思った。そう思いながら、荒尾は三輪が軽々と子ども2人を抱っこする姿を見て、少しだけ羨ましくなってくる。ジムに行かなくても、日々の農作業や出荷作業で鍛えられるのだろう。子どもを抱っこした彼に、純子が寄り添うと、まさに夫婦と思ってしまう。
「そうだ、出荷用の収穫はほとんど終わったからさ、不格好なやつを取りに来ない?」
「え、いいの?いつももらってばかりじゃない」
三輪は純子に気があるのだろうか、と荒尾は勘繰った。そうでもなければ、馴れ馴れしくする理由もないだろう。嫉妬心を全開にして、荒尾は三輪のことを睨んでしまう。その時、三輪はその視線に気づいたのか、荒尾を見た。
「……荒尾さんも、白菜、取りに来る?」
この男、俺を馬鹿にしているのか―――荒尾はそう感じてしまい、勢いで「行く」と返事をするほかなかった。