それぞれの夜が更けていく―――
純子と荒尾は、ミルクティーをしっかり飲み終わり、それぞれ部屋に移動した。純子は今回、子どもたちと一緒に眠ることにしている。一方荒尾は、朝からまた手伝うという約束で、自室に押し込まれた。一緒に寝るわけにもいかないのは事実だが、少しばかり寂しさを感じてしまうのも事実。純子が子どもたちと並んで、川の字になる姿が、目に浮かぶ。
荒尾は、自分がそうやって誰かと一緒に眠ったのは、祖父や祖母くらいだったのではないか、と思った。忙しい両親は、なかなか自分に関わってくれる暇はない。子育てに対して手抜きをしているとか、愛情がないというような、そんなことはなかった。しかし、すべてを子どもに捧げられるほどの時間の余裕がなかったのだ。だから、祖父母に協力してもらうことは多かったように思う。だからこそ、荒尾は幼くしてレトロな喫茶店へ行くという、貴重な体験をすることができた。祖父母に大事にされたことがあるから、彼の自己肯定感は高く、今の営業職でも十分に役立っていると思う。
そうやって、幼少期のことが大人になってからもいろいろと役立つ世の中だ。だからこそ、この小さな存在には、不安なく過ごしてほしい。同時に、ペンションのオーナーである純子は1人しかいない。彼女に無理が来てもいけない、と考えると、どうしても何か協力できないか、と思ってしまうのだ。純子が子どもたちの部屋に消え、荒尾は自分の部屋でしばらく悩む。
そうだ、と思いついた時にはスマホを開いて、いろいろと検索を繰り返した。この検索能力は、仕事でも十分に役立ち、若手の後輩にも負けない。先輩方はそもそもこんなことが上手にはできないので、荒尾が検索して調べることなど、いつものことだ。知りたい情報を得た荒尾は、そのまましっかりと眠りについた。
眠りについた荒尾は、夢の中で祖父母に手を引かれて、あの喫茶店へ行く夢を見た。今日は特別な日だから、和弘の好きなメニューを頼んでいい、と言われるのだ。幸せな時間、そこにいる荒尾は幼い頃の少年のままだった。プリンアラモードやケーキ、メロンクリームソーダなど、甘いものがずらりと並んでいる。普段はあまり喫茶店で食事はしないのだが、スパゲッティーナポリタンやオムライスなども出てきた。祖父母と一緒にお腹いっぱい食べると、荒尾は自然と笑顔がこぼれた。
幸せな夢は、瞬く間に終わってしまう。終わった夢から目覚めると、彼はすぐにベッドから飛び起きた。洗面、着替えを済ませて、部屋を出る。時刻はまだ朝の6時だ。この時間だからこそ、手伝えること。荒尾は、まずキッチンへ向かった。純子が使い慣れたそこに入り、簡単だけれど美味しい朝食を作ろう、と勝手に計画していたのである。
料理は嫌いではないのだが、男の料理になってしまうことばかりだった。何かと豪快に作ったり、味付けが大まかだったり。荒尾にとって、それらは少しストレス発散のようなものでもあったが、それでも自分が食べるのだからいいだろう、と思ってしまう。しかし今回は、いつも世話になっている純子や子どもたちの分が、含まれている。必ず美味しいものを、とは言えなかったが、それでも味がいいに越したことはないだろう。
何を作るか―――それは、子どもたちが食べやすいものを選んだ。かつて、自分も食べたおにぎり、味噌汁、卵焼き。実のところどれも難関だ。しかし、これをクリアできてこその営業マン、と荒尾は勝手に思い込んでいる。荒尾にとって、目の前に高い壁やハードルがやってくれば来るほど、燃えるのであった。
まずは、米の炊飯。子どもたちは玄米に慣れているようだが、荒尾は玄米の美味しい炊き方を知らない。そのため、今日は白米だ。白米のおにぎりを作るため、丁寧に炊飯の準備をする。炊飯のスイッチを押したのち、今度は味噌汁の準備。出汁と水を入れた鍋を火にかけて、沸騰したら豆腐やわかめを入れる。子どもが食べやすいように、小さくカットした。最後に味噌を溶いて、できあがり。
そして、最大の難関は―――卵焼きである。味付けは、検索したレシピを参考に甘い味付けで作ることにした。子どもが食べやすいものが一番いいだろう、と判断したのである。味付けはできたが、今度は荒尾の腕の見せどころ。きれいに巻けるだろうか。動画を見ながら、イメージトレーニングをする。
「ふー、緊張するな」
大事なプレゼン前か、重要な顧客の前か。それくらいの緊張度。でも、これを乗り越えた先にある達成感は、とても大きなものだ。このまま、自分で卵焼きが焼けるようになれば、日常生活に戻ってからも役立つはず。
「日常……」
日付が変わり、朝が来た。そうすれば、このペンションで過ごせる残り時間が、減っていく。純子の料理を何度も口にすれば、その分時間は過ぎていく。彼にとって、このペンションでの生活の方が日常になりつつあった。
少し考えてしまったが、急がねば純子が起きてくる。その前には完成させたい。だから、荒尾はすぐに作業に戻った。
温めた卵焼き用フライパンに、卵を流し込む。そして、丁寧に丸めていく。途中で少し破れたけれど、気にせずまた卵液を流し込んだ。少し色がついて、それが焼き目になっていく。美味そうだな、と思っていると焦げそうになった。味付けをした卵は、焦げやすいとレシピに書いてあったはず。
「いかん、油断はできんな」
油断していれば、真っ黒だ。荒尾はそんなことを考えながら、手早く卵焼きを丸めていった。
何とか卵焼きができあがったので、荒尾は大きな息を吐いく。ここまでできた自分に、称賛の嵐だ。よかった、と思いながら、次はおにぎりを握らねばならない。子どもが好きそうなおにぎりも探したが、シンプルに塩と海苔がいいようだった。海苔は食べきれない時は、外してやるといい。熱々の白米を取り、荒尾は必死におにぎりを握った。純子が作ってくれたおにぎりは、とてもきれいにできていた。彼女の手の大きさに、可愛らしいと感じるくらいの大きさだ。あれを思い出すと、荒尾が握ったおにぎりは幾分か大きい。
「お、大きすぎるな……」
しかし、これ以上小さく握るという技術を、今の荒尾は持ち得ていないのだ。困ったが、仕方なくできるかぎりの小さなおにぎりを作ると、丸いピンポン玉のようなおにぎりになってしまった。
「不格好すぎるか?」
皿の上にコロコロと載っているおにぎりは、可愛らしいものではあるものの、子ども用です!と主張しているような印象だった。ふりかけでもかければ、彩がよくなるかもしれなかったが、純子がそういうものを準備する時間がなかったことは理解している。今回、子どもたちの登場はあまりにもイレギュラーだったからだ。仕方なく、荒尾は海苔をキッチンバサミでカットして、丸いおにぎりに振りかけていく。小さくカットされた海苔は、丸いおにぎりの表面を覆っていった。
「これならまずまずいいか!」
彼は自己肯定感が高い―――だから、そのできあがったおにぎりを見て、満足した。
「あれ、荒尾さん?いつもより早起きですね?」
純子が起きてきた時、荒尾はまだキッチンにいた。彼が勝手にキッチンに立つことなど、今までもあったので、純子はあまり気にしていない。
「おはよう、中野瀬」
「どうしたんですか?」
「朝ご飯を作ったぞ」
「え!」
お客様が料理を作るなんて、と思いながら麻衣の母親にもオムライスを作ってもらった。荒尾には何度もコーヒーを淹れてもらった。今更ストップをかけることなど、難しいだろう。
いっそのこと、このペンションは「お客様が料理をする」ペンションにしてしまおうか―――純子はそう思うのだった。