子どもを寝かしつけるのは大変だ、とそういう認識しか持っていなかった純子は、すやすやとベッドで眠る2人を見て、ホッと安堵の息をついた。昼間のように遊びだしたり、転んだり、いろいろなことを想像していたのだが、そうでもない。
眠った2人をしっかりと確認して、それから2人の持ち物を再度確認する。着替えや必要なものが入っているのだが、それ以外にも注意事項のメモ書きがある。親に子どもを預けることになった長男夫婦が、玄米おじさんと悦子でもわかるように入れてくれたのだろう。丁寧に書かれているそれを見て、純子は母のことをまた思い出した。親になれば、親の気持ちがわかる。でもそれはもう少し先のことかな、と勝手に思っていた。こんなところで、他人の子どもとは言え、経験させてもらえるとは思わなかったからだ。
小さな存在は、まるでどこにでも飛び出してしまいそうなくらい、元気があって、温かい存在。家の中に閉じ込めるなんてできないし、これから先、どんなふうに生きて行ってくれるのだろう、と思った。少しずつ成長して、友だちが増えて、たくさん食べて、動いて、学ぶ。そしていつの日か、大人になって、恋をして――
純子は、自分の花嫁姿を母に見せられなかったことがとても残念だった。結婚を意識したことがないわけではない。仕事が忙しかったこともあるけれど、そういう恋愛に発展する人がいなかっただけだ。素敵だな、と思う人がいなかったわけでもないのだが、なかなか関係が進むことはなかった。
彼女にとって、恋愛は自分の人生の中であまり大きな位置を取っていない。両親のことを考えるなら、もっと早くに結婚して、孫の顔を見せるべきだったのだろうけれど、人生とはそう簡単なものでもなかったのだ。仕事は忙しくて、会社ではいろいろな人がいる。女性同士のいざこざから逃げるためには、真面目に仕事をして、余計なことをしない―――それくらい。
管理栄養士の資格を持ってこそいたが、それを活用できるような場面など、考えもしなかった。もっと、よく考えて就職もすべきだったし、なんならこのペンションに戻ってもよかったかもしれない。いろいろなことを考えながら、純子はいつも何かちょっと違うんだよな、という感覚を拭い去れなかった。
それが、このペンションへ戻って、少しずつ解消されていく。玄米おじさんや悦子に支えられた日々。最近になって、荒尾が来てくれた。かつての自分を尋ねてきてくれる人は、稀にいたものの、まさか荒尾が来てくれるとは思わなかったのだ。
彼に挨拶をせずに去ったことを、純子は後から気づいた。営業部のエースである彼は、いつも忙しい。だから、両親の葬儀のあとそのまま退職してしまった純子は、彼に会うこともなかった。そういえば、と気づいた頃にはすでに時間が経っていたし、今更何を言えばいいのかわからない。だから、これはもう終わって次に進んだことなのだ、と自分に言い聞かせていた。
恋をしているのか、恋しいのか。それは荒尾に対してなのか、それとももっと違う何かなのか。そんなことを考えながら、自分と荒尾の時間がまた持てた時、困惑したけれど、今は嬉しい。嬉しくて、これがもう少し続けばいいのに、と思ってしまう。
キッチンに立って、純子は温かいミルクティーを淹れることにした。そのミルクティーは、鍋1つでできる簡単なものだ。鍋の中に水を入れて、沸騰させる。そこに茶葉を投入して、煮出す。しっかりと煮出したら、今度はそこに牛乳を入れて、また沸騰させる。沸騰したら、茶葉を出して、好みの量の砂糖を入れれば完成だ。今回は簡単なミルクティーだから、ティーバッグの茶葉を使っている。処分するのが簡単なので、これはこれでとても助かるものだ。本格的な茶葉の紅茶は、カフェで出すことばかり。
「ちょっと、甘すぎたかな」
疲れた体に、甘いものは染みる。そうは思っても、甘すぎるとも感じてしまう。温かいミルクティーを手に持って、暖炉の前にあるソファーへやってきた純子は、ニャーの側へ座った。
「ニャーも今日はお疲れ様」
猫は、純子の顔をチラリと見て、少しばかり気にしたのかと思ったが、すぐにまた反対を向いてしまった。余程お疲れなのだろうな、と純子は思う。猫だって疲れるだろう。毎日寝ているように見えて、ニャーは何かとこのペンションのことを気にしてくれているのだ。朝からはちゃんとペンションの中や敷地内を、しっかりとパトロールしてくれている。気に入ったお客様が来れば、相手もしてくれるし、悦子のところまで行くことも度々なのだ。
「そうだ、ニャー。悦子さん、入院しちゃったから、明日から行けないよ」
純子の言葉に、ニャーは耳を動かすだけだ。でもその仕草をする時は、ちゃんと聞いている時だと、純子は思う。この猫は、このペンションに来た時から、我が物顔だったけれど、とてもよく周囲のことを理解してくれている。母がとても可愛がり、父も何かと話しかける存在。
「そういえば、ニャーは何歳になったんだっけ?今度、動物病院で検診してもらおうか」
ミルクティーを飲みながら、純子はニャーに問いかけた。返事はないのだが、よくよく考えると、ニャーがやってきてからだいぶ年月が経っている。それを考えると、ニャーの年齢もだいぶ多くなっているのは理解できた。
猫よりも、両親が先に両親がいなくなるとは思っていなかった、というのが純子の本音だ。本来なら、ペットの方が先だと思っていたはずなのに。でも、ニャーがいてくれたおかげで、今の純子が保っていられるかもしれなかった。
「なんだ、何かいいものを飲んでいるのか?」
やってきたのは荒尾だった。寝る前に少し何か飲みたくなったのだろうな、と純子は想像する。荒尾がそんな人だと知ったのは、このペンションに来てからのこと。今までは鬼上司と呼んでも過言ではない人、というイメージしかなかった。
「即席ミルクティーです。ちょっと甘過ぎました」
「甘い分にはいいだろ」
「ふふ、そうですねぇ。荒尾さんも飲みますか?」
「飲んで寝るかな。今日は、営業先回りに行くより疲れたよ」
ため息をつくように話した彼だが、表情は緩んでいる。営業に出ていたら、そんな顔はできないくらい、優しかった。疲れたといっても、子どもたちのためだから、というのが彼にははっきりあるのだろう。
純子は、荒尾のためにミルクティーを準備した。このミルクティーの良さは、濃さを調整できること。ロイヤルミルクティーではなく、チャイの濃さで作ることができるので、ミルク感をたっぷり味わえるのだ。茶葉もたくさん使っていいので、より味を楽しめる。
「できましたよ。熱いので気を付けてください」
「すまん、いただきます」
マグカップは温かくなっていて、湯気が見える。紅茶のいい香りに、甘い味付け。荒尾は、今日の疲れが癒される思いだった。
「悦子さんも災難だったな。せっかく孫が泊りにきたのに」
「そうですね。入院することにもなっちゃって、メッセージは来ましたけど、気落ちしていないといいなって」
「入院生活はどれくらいになるんだろうな……」
わからないことだらけだったが、2人は悦子の心配ばかりして、玄米おじさんのことはすっかり忘れている。あの人は、農家のことは何でもできるが、家のことは悦子にまかせっきりの人だ。これから先の生活、苦労するのは悦子もだろうが、それ以上に玄米おじさんの方かもしれない。
「このミルクティーは濃くて美味いな」
「即席の割にはいいですよね。夏にはこれでゼリーを作ってみようかな」
「ミルクティーゼリーだと!?」
「プリンと言っても過言ではないかもしれませんね?」
荒尾はすっかり、未来の美味しいスイーツに目を輝かせている。
しかし、そのスイーツが登場する頃―――荒尾は自分がどこにいるのか、理解はしていないのだった。